【注釈】
 表題は、サムエル記下(11章1節~12章20節)によっているが、この詩の祭儀に対する否定的な立場から判断すると、ダビデ時代の作とは考えられない。したがってこの詩の成立と表題とは直接には関係がない。だが、「ダビデの歌」とある通り、この詩は「ダビデ歌集」に属していたと推定される。だから、この詩の原型は古く、この表題も、すでにこの歌集の頃からつけられていたと推定される。ここで告白されている「罪」が、ダビデの犯した罪と同じであるという解釈によってつけられたのであろう。この解釈は、7節の言葉づかいからも裏付けられよう。
 なるほど表題は、本文と直接関係がないけれども、だからといってこのような文献学的な考察から表題と本文との関係を単純に否定することは慎まなければならない。なぜなら、そういう単純な否定は、表題をも含むテキスト全体の「解釈」と文献批評とを混同しているからである。一般に、ある文書が、どのような歴史的な過程を経て成立したかという問題(すなわち文献学)と、それの成立過程を踏まえた上で、そのテキストを全体としてどのように解釈するのかという問題(すなわち解釈学)とは本来別の次元に属するのである。文献学的には一見「無関係」であると思われるここでの表題を、わたしの目に留まった限りでも三種類の日本の訳注が、テキスト本文となんらかの結び付きをもって解釈しているのはこのためである。
 この詩は、捕囚(前586年)からネへミヤがエルサレムの城壁を再建する(前444年)までの間につくられたのは間違いない。末尾の20~21節はネへミヤの頃を指していると思われるから、これが元の本文の末尾であったとすれば、この詩はネへミヤの頃のものと推定される。しかし、後からの加筆であるとすれば(この可能性が強い)それ以前の作となる。おそらくペルシア時代の後期、すなわち5世紀であろう〔Briggs.Psalms.(2)〕。
 詩編全体から見れば、前半部(1~89篇)のダビデ詩集に属し、しかも前半の中核部分(51~72篇)の最初に来るのが今回の篇である。中核部(ダビデ)を中心に、両側に向かって、ダビデの詩→アサフの詩→コラの詩→ダビデの詩→王の詩のように対称形を成して拡がる構成になっている〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅰ)「詩編」〕。なお、51篇の区分は訳によってまちまちであるが、1~2節/3~11節/12~19節/20~21節の区分はほぼ共通している。3~11節と12~19節はさらに細分されるが、訳によって一定しない。
 作者は、イザヤ書(1章10~20節/57章15節/59章12節)やエゼキエル書(11章19節/36章25~26節)などを心に留めていると思われる。この篇では「わたし」と「あなた」が繰り返しあらわれ、作者と神との極めて内面的な結びつきからほとばしる訴えが強く読者に迫り、詩人の個人的な体験から生まれた詩であることをうかがわせる。ただ、先に引用したイザヤ書では、罪は「われわれの」罪となっている。このことから分かるように、ここでの「わたし」も、単に詩人と神との個人的な関係のみに留まるのではなく、自分の共同体や民族へと広がる内容を秘めている。それだからこそ、この詩人の祈りが、エルサレムの城壁の再建という、一見それまでの本文と無関係に思われる末尾と結びつくのであろう。詩篇の「わたし」は、豊かな内容を持っているので、これを狭く限定することはできない。
 以上のことを頭に置いた上でも、なおかつこの詩にあらわれる「わたし」と「あなた」との人格的で個人的(パーソナル)な訴えと祈りは、この詩の際立った特徴であるのは疑いない。外面の儀式によらず、心の内面において神との真実の和解と交わりを求めるこのような「神のみ霊を求める祈り」こそ、この詩を詩編の中でも際立たせるものであり、その意味で、この詩は、パイザーの表現を借りるならば、「新約での新生の信仰の旧約におけるルーツ」となっている。
 
[1]~[2]の表題については解説を参照。
[3]~[4]3~4節にかけて「咎(とが)」「不義」「罪」が現われ(32篇注参照)、これらが「拭い去る」「洗い流す」「浄める」と結びついている。これが全篇の基調である。
【憐れみ】「変わらぬ確かな愛」の意味。"steadfast love" 〔NRSV〕。
[5]【目の前に】避けられないほど深く意識すること。「罪が自分を神に訴える」という意味にもなる。
[6]【ただあなたに対して】古代では、他人に対して「罪を犯す」という考え方よりも、直接に「神への罪」と見なされた〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). Fortress Press (2005).12. Note.f〕。
【義をもって宣告】以下の2行は、字義通りには「あなたが(判決を)語る時は正しく、さばきをくだす時は落度がない」という意味である。しかし、人間が神に対して罪を犯し、かつこの罪を神のみ前に告白してこれを認めた場合に、これを厳しく罰して怒りを現わすだけでは「神の」正しさとは言えない。ちょうど、悪事を悔いている息子を一方的に責めるだけでは「父の」正しさとは言えないように。罪を罰すると同時に、これを赦し救うところに真の「神の義」が実現する(ロ-マ3章5~6節)。だから、「神の義」とは「神の憐れみ」(3節)と表裏をなしている。なお、神が「言葉を出される」とは、その語られた事が、現実に生じることを意味し、それが、ここでの「神の義が宣告される」の意味である。
【明晰】星の光のように透明で清らかなこと。「義」と「きよさ」についてはヨブ記25章4節を参照。
[8]【真実を】この節は、前節と同じく「見よ」で始まり、この二つの節は一つのまとまりを持つとも考えられる。この場合「真実」とは前節に述べられた「深い罪」を指し、「知恵」とは神のみ前における深い罪の自覚を指すことになる。ただし、8節を7節から切り離して、神は人の深い内面に「真実」を求め、人に深い「知恵」を授けるという解釈もある〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 12.〕〔〔NRSV〕〔REB〕〔関根訳〕。
[9]【ヒソブ】シソ科でヤナギハッカ属あるいはマヨラナ属の草花。丈はあまり高くなく青い花をつける。ヒソブは、出エジプトに際して過越に用いられた(出エジプト12章22節)のが伝統となり、らい病(レビ記14章1~19節)や死人に触れた時の「汚れのきよめ」の儀式に用いられた(レビ記14章4~7節)。ここでは、この儀式にちなんで罪のきよめと結びついて比喩的な意味で用いられている。このような例はここだけである。
[10]【書びと楽しみ】原義は「喜びに輝く」。この表現はイザヤ書によく出てくる(22章13節/35章10節/51章3節/同11節)。
【声をあげさせ】本文は「声をわたしに聞かせてください」。これを「喜びで満たす」と読む異読がある〔HB注〕〔バイザー〕。
【この骨】「骨」とは人の霊が宿るところだから、「全身/全存在」のこと。
[14]【励ましの霊】原義は「自ら喜んでする」ように働く力(出エジプト記35章5節/22~23節参照)〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 12.〕〔REB〕。「確かな霊」〔新共同訳〕〔関根訳〕。「自由な霊」「寛大な霊」という解釈もある。
[16]【血の罪】「流血の罪」のこと。この罪は死罪に値するから(民数記35章30節)ここでは「死}それ自体を指すと思われる〔Hossfeld and Zenger.Psalms (2). 13.〕。
[19]【いけにえ】本文は「神へのいけにえ(複数)」。これを「わたしからのいけにえ(単数)」に読む場合が多い。たとえわたしが生贄を献げても神は悦ばないから、わたしが燔祭を献げたとしても、神はこれを受け容れてはくれない」という意味〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕〔関根訳〕。ただし、「もしあなたがいけにえや燔祭を悦ぶなら、わたしは献げます」という訳もある〔新共同訳〕。
【砕かれた霊】イザヤ書57章16節/同66章2節参照。
[20]~[21]これらの節については解説を参照。
【全きはん祭】サムエル記上7章9節参照。「はん祭と全きはん祭」は後の加筆であろう。
                  
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