58篇
暴虐への裁き
【聖句】
1聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせて。
ダビデの歌。ミクタム。
2権力ある者たちよ、まことに正義をもって語り
公正をもって人々をさばいているのか?
3否、その心の底で邪(よこしま)をたくらみ
その手で地上に暴虐を行なっている。
4悪しき者は、胎を出るや道に背き
偽りを語る者は、腹を出るや道を誤る。
5彼らの毒は、蛇の毒さながら
耳しいのコブラのように耳をふさぎ
6蛇使いの声をも聞こうとせず
巧みに呪文を唱える者も抑えられない。
7神よ、彼らの口の歯を折って下さい。
若獅子の牙(きば)を、主よ、引き抜いて下さい。
8彼を大水のように流れ去らしめ
その矢を射損なわせてください。
9流産のように流れ去らせ
死産のように日の目を見させないで下さい。
10あなたたちの鍋が燃える茨の火を感じる間もないほど、
彼の火も生ける方の怒りに触れて吹き消されるように。
11正しい者は復讐を見て喜び
その足を悪しき者の血で洗う。
12人は言う
まことに正しい者は報われ
まことに地にはさばく神が居ますと。
【講話】
人を呪ったり、他人の破滅を神に祈り求めたりするのは、クリスチャンとしてあるまじきことである、とこう私は常日頃考えている。右の頬を打たれたら左の頬を向けよと教えられている者が、かりにも人を呪ったりするのは、たとえ、その言葉が、喉に出かかっていても、じっとこらえるのが、主のみ前に正しいのだ、こう信じている。
ところが、こういう私の信仰は、例えば、主イエスが「あなたがたは、わざわいだ」という激しい御言葉を、学者やファリサイ派に投げつけているのに出逢うと、はたと当惑する。そして、主イエスのように、神の御霊の権威を帯びた者にして初めて、このような思い切った言い方が許されるのだろうと自分に言い聞かせる。
だが、同じような例は、パウロの手紙にも見られる。「あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう」というガラテヤ人への手紙(五章)の言葉などは、どう見ても呪(のろい)の言葉としか受け取れない。一体パウロは、愛の福音を携える身でありながら、どうして、このような苦(にが)い言葉を吐かなければならなかったのだろうと、やや戸惑いを覚えたことがある。
新約聖書から旧約聖書に目を移すと、わたしたちは、いっそう生々しい言葉で、呪が語られているのに気が付く。特に、詩編では、悪しき者に対する容赦のない断罪が、そくそくと心に迫る恐ろしい言葉で語られている。どうして、このような恐ろしい言葉が、神を信じる者の口から出るのだろうか。
先ず第一に考えられるのは、これらの呪が「正しい者」を虐げる人たちに向けられていることである。罪のない人や弱い人たちを、その純真さや弱さの正にその故に苦しめる、卑劣で残忍な人間のいることをわたしたちは知っている。年老いた一人暮しのお婆さんからその全財産を強奪する者がいる。路上で、身体障害者からお金を奪う若者がいる。国籍や肌の色が違うという理由だけでいやがらせをする者がいる。こういう事件を見たり聞いたりしても、心に痛みを感じないでただ黙って笑って見ている人たちがいるとしたら、そのような人たちも、これらの恥ずべき行為をした者と同じく神の御前に断罪されるのが当然だと私は思う。他人が他人に不正を働くのを見て怒りを抱かないのは、神のみ前には、見過すことのできない罪である。この事に気が付くのに、私はずいぶん手間取った。
特に私が我慢ならないのは、正しい者が、その正しさの故に虐げられるのを見ることである。体の不自由な母親が、当然に受けて然るべき福祉上の権利を主張して起こした訴えを、陰険な手段で妨害する者がいる。靖国神社に夫が葬られるのを拒否して訴訟を起した妻に腹を立てて、不当なやり方で彼女の訴訟そのものを抑圧する者がいる。正しい事を行うのは、人が思うほど簡単ではない。わたしたちが端で見ているよりは、はるかに強い勇気と忍耐と覚悟が要る。しかも、こういう勇気のある正しい少数の人たちが、どういう訳か、最も誤解や悪意にさらされるのである。
自分の周囲に渦巻いている様々な悪や不正に立ち向かおうとする人があらわれると、眠っていた蛇が獲物を見つけたように、憤然として起き上がり、様々な悪口や中傷を浴びせる者がいるのである。正しい者をその正しさの故に憎み、このような人を攻撃することによって自分の存在を示そうとする卑劣な人たち、こういう人たちに激しい憤りを抱かなければ、わたしたちは、地の塩としての味を失ったと思われても仕方がない。
特に許し難いのは、多くの人々の平和や安全を脅かし、人々の幸せを奪うような公の性質を持つ不正や害悪である。教会であれ社会であれ、人々の平和な協調や自由を崩壊させ、みんなの幸せを奪おうとして忍び込む者たち、己れの権勢や我欲のために、せっかく築きあげてきた多数の人たちの努力や涙や祈りの成果を踏みにじってはばからない者たち、こういう「人間の幸せをねたむ」霊に動かされる者たちに対した時に、旧約の預言者から、主イエスから、パウロの口から呪いの言葉が吐かれたとしても、私は不思議に思わない。
とりわけ、最も恐しいのは、教会であれ国家であれ、権力の座にすわる者が、こういう害悪を流す時である。わたしたちが暮しているこの世の中、すなわちわたしたちの社会は、名もない人たちの数知れない努力、無数の人たちの国や社会に対する忠実な善意に支えられて、ようやく機能している。この国に住むわたしたちの誰しもが、良かれと思ってやるこれらの営みの一切を、そっくりそのまま、最も恐しい目的のために悪用できる地位にいるのが権力の座にすわる人たちなのである。
泥棒は、自分が泥棒であることをみんなに言いふらしたりはしないように、権力者が「邪をたくらむ」場合、自らの正体を人々の前にあらわすことはない。彼らは、秘かに「その心のうちで」(3節)暴虐を謀(はか)る。弱い人たちがその弱さの故に一層苦しめられ、貧しい人たちがその貧しさの故にさらに貧しくなり、正しい人たちがその正しさの故に攻撃され、正直な人たちがその正直さの故に軽蔑され、偽る者がその偽りのゆえに得をし、不正を行う者がその不正の故に栄え、悪を企む者がその悪しき業によってますます肥える。そういう世の中の仕組みをつくることを「暴虐を図る」(2節)と言う。
このような権力者には、苦しむ者の声も正しい者の発する声も届かない。どんなに多くの人が苦しんでも、多数の人が正しい意見を述べても、訴えても頼んでも泣いても叫んでも、絶対に耳を貸さない。彼らは「耳しいのコブラのように」耳をふさいで自分のやりたいことだけをやる。彼らが権力の座に居る間は、公正が行なわれることはない。正義が通ることもない。こういう状況の下では、彼らの毒牙を抜き砕いて、これらの者をどろどろに溶かし、「その刺を焼かれる茨のように」神の祈りで焼き払って下さるよう祈ることだけが、最後に残された唯一の手段となる。
主なる神はほんとうに存在するのか、この間いが、最も切実に、鮮明に問われてくるのが、このような時である。暴虐を行う者が滅び、正しい者が報われる、そんな日がほんとうに来るのかーーわたしたちはこの問いが、こういう状況に陥った時に、神はほんとうに居ますのか(12節)という問いと同じ重さを持つことに初めて気付くのである。