詩編96
    主は宇宙の王
 
1主にむかって歌え、新しい歌を
  全地よ、主にむかって歌え。
2主にむかって歌い、み名をほめよ
  日毎にみ救いを宣べ伝えよ。
3諸国の民にご栄光を語り告げ
  すべての民にくすしきみ業を伝えよ。
4まことに主は偉大にしていとも讃えるべき方
  主はすべての神々にまさり恐るべき方。
5まことにすべての民の神々は偶像で
  主こそ天を造られた。
6そのみ前には厳かな威光があり
  その聖所は力と輝きにあふれる。
 
7もろもろの民の家族たちよ、主に帰せよ
  栄光と力を主に帰せよ。
8み名にふさわしい栄光を主に帰せよ
  捧げ物をたずさえその庭にはいれ。
9聖なる輝きを受けて主を伏し拝め
  全地の民よ、み前におののけ。
10国々の民に告げよ、「主は王となられた
  世界は堅く立てられ、もう動かされない
  主はもろもろの民を公正にさばかれる。」
 
11天よ喜べ、地よ踊れ、          
   海よ轟け、これに満ちるものよ喜べ
12野とそこにあるものよ喜び踊れ       
  森の木々も喜び歌え
13み前で喜べ、主が来られるから     
  地をさばくため主が来られるから。
主は義によって世界をさばき
  もろもろの民を真実をもってさばかれる。
            【注釈】
 前回では「王の即位」についての詩篇を扱った。今回の詩篇も、93、97、98、99篇などと共に「王の詩編」あるいは「ヤハウェの即位の詩編」と呼ばれる。古代バビロニアでは年毎に神が王位につく式典が行われた。イスラエルでは、これが、ヤハウェとの「新たな契約」の意義を帯びて行われたのである。この即位式は、新年祭の行事の重要な一部であったと推測される。この「ヤハウェの即位」も王の即位を具現する形で行われた。この詩は、式の進行に伴って三部から成り、10節で「主が王となられた」時に全員がひれ伏して主を拝したのであろう。この時、神はあらゆる被造物の主であるから、人はもとより天、地、海、生きもの、植物などもこれに加わる。この詩篇は神殿の合唱隊によって楽器の演奏を伴って歌われた(歴代志上16章4〜36節を参照)。作詞の年代は、虜囚後のエズラの時代、紀元前4世紀頃であろうと推定される。
 この詩篇には繰り返しが多く用いられている。「歌」「歌う」で始まり、次に「伝える」「讃える」「まことに」が繰り返され、次の連で「主に帰せよ」が繰り返される。10節はこの詩のクライマックスである。「主は王となられた」ことに対応して、「喜べ」が繰り返され、「来られる」が続き、「さばき」が繰り返されて、主が即位された喜びと畏敬とが渾然一体となって響いている。
[1]【新しい】現在創造されている世界が、歴史的に新しい意義を帯びること(イザヤ書42章10節参照)。
[2]【み救い】原語は「勝利」と訳すこともできる[NEB]。「救い」とは、ここではメシアの全世界に対する救いの「究極の勝利」を意味する。
[3]【ご栄光】「王の威厳」と訳すこともできる。[ワイザー]
[5]【偶像】主の顕現に当たり特に終末の時に滅び去る無価値なものとしての偶像。イザヤ書2章17〜21節参照。
【天】原語は「諸天」。天界を幾つもの層に分けて、それぞれに神々(天体)が住むという見方はヘブライでは希薄である。「天」は、何よりも神ご自身の住まわれる所であり、主の王座だからである。しかし、ここでは「神々」の支配していたもろもろの天層を主が王として支配されていることを意味するのであろう。
[6]【聖所】特に主のご臨在と顕現の場としての聖所。
[7]【家族】原語は「家族」「部族」「民族」など血縁を含む共同体を意味する。
【主に帰せよ】詩篇29篇1〜2節を参照。29篇1節の「神の子たち」とは、ほんらいカナンの最高神「エル」に仕える神々のことであったが、これが29篇では、主ヤハウェに仕える神々(天使たち)の意味になる。しかし、96篇では、その天使たちに支配される地上の諸民族や諸部族などを指している。
[8]【捧げ物】諸国を支配する帝王に、諸国の民が貢ぎ物を携えて敬意を表わしに来る姿を映している。
【その庭】原語は複数。ソロモンの神殿は、至聖所と聖所のある本殿(内庭)とこの本殿の外側にあって壁で囲われた「外庭」の二つの「庭」から成り立っていた。「大庭」と呼ばれる所は、この「外庭」のことであろう(列王紀上7章12節/エゼキエル書40章17節以下を参照)。この配置は、この詩篇がつくられた時代、虜囚後の第二神殿の場合にもほぼ同じであったと推測されている。ちなみに、イエスの時代のヘロデの神殿は、一番外側に壁で囲われた境内があって「異邦人の庭」と呼ばれ、神殿本体の内部は、入口に近い所に「女性の庭」があり、奥の部分から仕切られていた。奥には、「イスラエルの男の庭」があり、聖所の中には「祭司の庭」があり、そこは、さらに聖所と至聖所とに仕切られていた。ただし詩篇においては、「庭」は、「主の家」や「主の宮」と共に出てくるから、それほど厳密に考えられているわけではない(詩篇65篇4節参照)。特に複数では神殿全体を意味すると考えていい。ただこの96篇の場合は王位につかれたヤハウェの前に出ることを意味するから、特に聖所の入口にあたる外庭を指すのかもしれない(関根訳に「前庭」とあるのはこの意味か)。
【聖なる輝き】七十人訳には「聖なる装い」とある。王の前に威儀を正して礼装すること。マタイ22章1〜14節参照。なお関根訳は異本によって「聖なる顕現の故に」と読む。
[10]【主は王となられた】「主は王である」[NEB]と訳すこともできるが、ここはヤハウェが王位につかれたことを指している。詩篇93篇1節参照。
【世界】もろもろの民を含む全世界。
[11]イザヤ書44章23節/49章13節参照。
  【これに満ちるもの】海に住むあらゆる生きもの。
[12]【野とその中のもの】「野」は「耕地」を含め、そこに生えているすべてのもの。
                 【講話】
 今回の96篇は、「主は宇宙の王になられた」と題しているが、私は、「宇宙の王」である主が、「この地上に」おいても、その支配権を確立したことを意味す受け止めている。この詩篇は、「栄光に輝く」父なる神が、その御子イエス・キリストの受難と復活を通して、彼を天と地のあらゆる霊力を支配する「主」とされること(エフェソ1章17〜23節)を預言していると観るからである。ただし、主イエスの地上での支配は、始まったばかりでまだ完成していない。以下は、この視点に立つ私なりの感話である。
 私たちの周囲にはさまざまな人がいて、私たちは、それぞれに関わりを持って生きていかなければならない。この関わりのなかで、私を、陰に陽に「支配する」立場にある人たちがいる。多くの場合それは会社や企業の上役であり社長であり、学校で言えば校長であり学長である。むろん、このような職場に限らない。それぞれの組織には、かならずこれを統括する「長」と名のつく人がいる。さらに大きな目で見るならば、私は日本人である以上、当然国家とその法律に支配されている。私たちは、これらの人たちの「命令」に従いながら日常を生きてゆかなければならない。ところが、これら長と呼ばれる人たちでも必ずしも自分の思い通りに振舞っているわけではない。やはり、これらの人たちも、さらに「その上」の人に支配されたり、仮にそうでなくても、部下の意向やその他のさまざまな状況に縛られて行動しなければならない。そんな時に、ふと、一体この私を丸ごと「本当に」支配しているのは誰なのだろう、こういう疑問に襲われたことがないであろうか。幾層もの組織の下積みに居ると、これらの組織全体をその内的外的な条件をコントロールして動かしている、そんな見えない力があるのでないか、こう思えてくる。
 「下積み」と言えば、少し突飛な比較になるが、私たちの地球だって、いわば宇宙の「下積み」にある。この地球を動かす原動力としての太陽、その太陽を支配する私たちの銀河系、その銀河系を動かす大宇宙の壮大な力・・・・・私の肉体と精神とを支配するこのような無限の重なりあいを思う時、自分自身の小さな人生を、一体誰が本当の意味で支配しているのか、こういう疑問が胸に迫る。言うまでもなく、そのようなお方がそもそも居るのかという疑問をも含めてである。こんな時、この自分の人生を本当に支配している究極の「上司」に出会ってみたい、そしてそのお方と話してみたい、こういう思いにかられる。
 私にはどうしても理解できないことが多々ある。自分一個人の生き方それ自体についてもずいぶんと分からないことや迷うことが多い。のみならず、自分の小さな周囲を見渡しても、なんと多くの驚きや不合理があり、怒りや憤りを覚える事が多いのだろう。私は、自分の人生の「上司」に出会ったら言いたいこと聞きたいことがいっぱいある。人間関係のいざこざや社会の不合理だけではない。人間がこの自然の支配下にあり、この自然が大宇宙のほんの一粒に過ぎないのなら、この宇宙を支配されているお方にぜひお目にかかりたい、こう願う。
 私がこう思うのは、自分の人生の支配者にめぐり会えるならば、もっとこうであってほしい、ああであってほしいとさまざまに申し述べたいからだけではない。自分の人生の半ばにして、この私を支配しているのは、職場の上司でも国家でもない、この宇宙そものを支配している何かそんな「力」なのだと薄々分かってきたからである。それと同時に、これはとても大切なことなのだが、かく言う私自身をも含めて人間の内にも永遠に失われないものが、聖書が「永遠の命」と呼んでいる何かそのような「霊性」が、人間には与えられている、少なくともそういうものを宿すことのできる素質が人間には具わっている、こう思えるようになってきたからである。もしもそういう霊的な素質が私たち個人個人に与えられているのなら、私たちが、何か他の事のためにこの内なる霊性を犠牲にするのは、文字通り「致命的な」誤りを犯すことになる。個人個人が不滅だなどと言うつもりはない。一人一人がそれぞれに与えられた霊性によって永遠なるものに寄与し、そうすることによってその個人もまた不滅なものを賦与される、何かそのような永遠の価値を秘めた宇宙の生命が実際に存在するということが、自分なりに少しずつ感じとれるようになってきたからである。聖書はこれを「神の国」と呼んでいる。
 このような永遠性とこれを支える力、これを私は信じるようになった。私はある人たちのように会社が永遠だとも大学が不滅だとも思わない。民族が不滅だとも国家が永遠だとも思わない。たくさんの民族や国家が興っては滅び、滅びてはまた興ってきた。そんな歴史など持ち出さなくても、戦争が終わった直後、今まで習ってきた教科書を墨で塗り潰した経験を私は忘れない。絶対に正しいと国が信じ、国民が信じ、自分も信じてきた事が、或る日突然それはみんな間違いでしたと言われた経験は、国家とか民族とかがどんなに当てにならないものかを身をもって学ばせてくれた。国家や民族が「大切でない」と言っているのではない。大切なものはこの世に幾らでもある。私の健康、それに私の命、お金だって大切だ。しかし、このどれ一つとして私はそれほど当てにできないと思っている。
 こんな私が主イエスを知ったのである。そして、このお方こそ神ご自身を人間に現わして下さるお方、全世界の本当の「王」なのだ、こう信じるようになった。「全世界」と言うよりは、日本フランシスコ会編の詩篇註訳がこの96篇につけた表題を借りれば「主は宇宙の王」なのである。こんな風に言うと、それはお前が、自分の内面的な要請から作り出したただの想念に過ぎないと言われるのは分かっている。しかし私の目から見れば、「会社」「事業」「学殖」「名誉」「地位」「権力」「金」「親族」「国家」などのどれかを信じて、これだけは「たとえ自分が死んでも」変わらずに永続すると思い込んでいる大多数の人の方が、よほど自分の作り出した妄想にしがみついているとしか思えない。明らかに永遠でないものを永遠と思い込む、これが人間の内面から発した心情の発露でなくでなんであろう。それらは「もろもろの民の神々はすべて偶像(空しい)である」とあるとおり、「世の終わり」には、私たちの肉体そのものと同じく消滅してしまう。
 私がイエスを「王」だと信じるのは、「他に頼りになるものがない」という消極的な理由だからではない。このかたこそ「王」であるに相違ない。また、ぜひ「王」になっていただきたいと心から望む理由があるからである。その理由をこれから説明しよう。およそ、この方ほど、私たちが「王」として描くイメージに合わない方はないのではなかろうか。威張らない、偉そうにしない。一見して王だと分かるような見栄えのする方でもない。それは、少なくとも私が知っている歴史上の「王」と呼ばれる人、あるいは今現に見ているどんな権力者とも違う。人々の上に立って横柄に構え、税金を絞り私腹を肥やし、弱い者には犠牲を、強い者には利益を求め、国のためと称して国民の命を粗末にし、自分を生かし民を殺し、悪と手を結び正義と手を切り、選挙に強く、約束を守るに弱く、民の安全より己れの安泰を計り、愛を蔑み侮蔑を尊び、表は正しく裏は悪く、中身よりも見栄を重んじ、下の者を脅し上の者にへつらい、正義を信ぜず金を信じる、権力の座に座るのに最もふさわしくないが最も座りそうな人だと私たちが思うイメージとは、ちょうど正反対のお方だからである。上に挙げたもろもろの形容をそのままそっくり反対にしてみればイエス様の姿が浮かんでこよう。そのお姿を一言で表現すれば「十字架にかけられた神のみ子イエス」である。人類の罪を己れの身に負い、誤解にめげずに正義を通そうと茨の冠をかぶったこのお方が、死よりよみがえって永遠に王となられた(王は代々途絶えてはならない。その命は永久でなければならない)。旧約聖書が預言した「ユダヤの王、ナザレのイエス」(これが十字架上のイエスの頭上に掲げられたINRIという略語の意味)、このお方が全世界の王になられた、こう聖書は語っている。
 こんな方が王位に就かれたのなら、この詩篇のように「喜び踊る」のも当然ではないか。こんなお方に世界が支配されるならば「世界は堅く立てられもう動かされない、主はもろもろの民を公正にさばかれる」と信じる根拠がある。しかも、このお方の内面からは、「威光が輝き」「うるわしきみ力」があふれる。こういう「くすしきみ業」を誰か人間が思いついたとか、考え出したとか、いわんや実行したなどと考えるくらいなら私はルターにならってその1000倍の確かさで神の存在とそのお働きを信じるほうにかける。イエスの復活の命が自分の頼りなく醜い内面にも働いて下さって、これに支えられ、生かされるという実際の体験を差し引いてもである。三人の博士が「捧げ物をたずさえて」イエスの降誕を祝ったのも(この聖書神話はここでは深い真実を指し示す)「聖なる装い(イエスの御霊を宿すこと)をして主を伏し拝む」ように勧められるのもイエスがエルサレムに入られた時に、人々が「み前で喜べ主が来られるから」と歓呼したのも当然である。「主に向かって歌い、み名をほめよ。日毎にみ救いを宣べ伝えよ」と歌いたくなるのは私だけではないと思う。
 同時にこの方は「すべての神々にまさり恐るべき方」でもある。それは、この方が「人の心を探り知る」方だからである。このお方の御霊は、光となって暗い私の内に入り込み、そこに潜むさまざまな悪を暴き出す。人間が神のみ前に出る時に最も恐れなければならない理由、それは自分ができうべくんば神になりたい、こう心密かに望むからである。逆心を抱く家来が主君の鋭い眼差しを恐れるのと似ている。実にこの世の「王」と呼ばれる指導者たち、権力を握った者が一様に陥る最大の悪が、この野心である。先に挙げたもろもろの悪徳は、この一つの野望の変奏曲に過ぎない。人間が人間を支配したいと思う時、彼は己れの立場があやふくなるとかならず誰かを「犠牲」にする。自分の地位が脅かされるのを恐れてイエスを十字架につけたあのユダヤの大祭司のように。国の仕組みを論じるほどの知識も資格も私にはないが、最近の経済問題一つをとりあげてみても、国の矛盾や歪みが、結局は弱い者、貧しい者、下積みにいる者に降りかかってくる、何かそんな仕組みになっていることだけは間違いなさそうである。上に立つ者が威張り、肥え太り、下の者を犠牲にする、これが「世の習い」というものだろう。こういう仕組みの中では、自分自身が国や世間の犠牲になりたくなければ(たとえば革命のようなものによって)、誰か別の者に、通常は弱い者、疎外された者にその矛盾が降りかかるように仕向ければよい。もしもこれに該当する者がいないなら、権力者は、自分の権力を維持するために、そういう犠牲者を「つくりだす」ことさえ平気でやる。
 「王」として敬われ、威厳を保ち、しかも自ら進んで犠牲となり、そうすることによって民を救おうとする、こんな「王」が居るとしたらこれはもう人間ではない。人を犠牲にし、己れも最後には滅びる「この世の君」に支配された地上の王ばかりを見てきたから、最も「王」になってほしい人が、最も「王」らしからぬ者に見えてしまうのである。私は、この世の権力者が、このイエスの「王」の姿に近付けば近付くほど、それだけ「理想の」指導者に近付くと思っている。正にこの意味で、イエス・キリストは、地上の権力をしてそのあるべき姿に向かわしめ、かつこれを支える力となるあらゆる権力の源、「神の権威」から生まれた「王たちの王」であると思っている。この王は、このような人の心を見抜いておられるから、私たちの罪の本質に迫るまで、すなわち「自分が神になりたい」と願う人間の欲望を打ち砕き、この罪を逆に「十字架につける」まで私たちの内なるところで、その戦いを止めない。
 ことは個人に限らない。民族同士、国家同士の場合でも同じであろう。日米の貿易摩擦の一体どちらがどれだけ悪いのか、その貸借表を正確に作ることなど人間にできようはずもない。「公平」と言い「正義」と言うのなら、その「公平」を「さばく」のは一体誰なのか。現代の世界に欠けていて、しかも最も大切なのは、このような「公正なさばき」の視点である。こういう「さばき」を行なうことのできるお方、それは、この十字架の主の他には居られない。聖書はこのような主に向かって、「全地の民よ、み前でおののけ」と呼びかけている。
 神が王となられる、この事の意味をほんとうに考えたことがあるだろうか。人と人とがお互いに自分の益を主張し合って一歩も譲らない、そんな状態が続く限り、世界の平和はもとより、私たちの身辺の事さえ何一つ「正しく」処理することができない。人間同志、国家同志、人種同志が相争っていては「互いに食い合い滅ぼし合う」結果になってしまうだけである。自分が人の上に立ち、人を支配したいという欲望にとりつかれているのにどうして「神の支配を」受け入れる事ができるだろうか。神に対する嫉みと反逆にかられるのは当然ではないか。かく言う私自身を含めて、この「神への逆心」をなんとかしない限り「神を誉めたたえる」ことなど、とうてい望むべくもない。神に栄光を帰するなどできようはずもない。あるのはただ侮りと、傲慢と、人を蔑み己れを立てようとするさもしい根性だけである。そんな自分に愛想をつかし、つくづく嫌になって、「人間よりもっと偉いお方に」世界を支配してもらいたいという、いささかでも謙虚な気持ちにさせられる時があるとすれば、それこそこの詩篇に歌われる「神の賛美」に近付く機会に恵まれた時である。国家といい国民といい個人といい、この点に関する限り人間の性(さが)に変わりはない。あるとすれば、支配される者とする者との間にわだかまる卑屈と傲慢との奇妙に歪んだ釣り合いのみである。
 こういう「人間の秩序」が一度砕かれて、神の秩序を回復しない限り、平和も愛も生まれてこようはずもない。人の性(さが)とは、それほどに醜く哀しいものであるという認識に撤しない限り、「口に平和を唱え心で神を侮る」欺瞞とまやかしとが横行するだけであろう。人間一人一人と同様に、国家も民族も、主の前にへり下って、この十字架の主を自分たちを治める支配者のあるべき姿として受け入れる時にのみ、世界が一つの家族となり、「もろもろの民の家族」が平和に交わることができるのではないだろうか。
 最後に付け加えておきたいこと、それは、この詩篇が、虜囚以後、すなわちイスラエルとユダヤが昔日の王国の威光を取り戻すことに絶望した正にその頃のものだということである。地上の権力に望みを託すことを止め、しかも正義を行なう「王」を求める民に、神がお与えになったのがこの力強いメシアの詩篇なのである。 〔『光露』78号(1987年秋号)より〕
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