1章 著者と著作年代
■題名について
 新約聖書の最後にあるこの文書は「ヨハネの黙示録」と題されている。「の」は「〜について」ではなく、「〜による」の意味である。ギリシア語の原語は「アポカリュプシス ヨーアヌー」(ヨハネの啓示/黙示)である。「アポカリュプシス」は、「隠された秘義(神秘)を顕わす(露わにする)」ことで、通常は「啓示」と訳されるが、特に、この文書のように「幻視」(ヴィジョン)など特殊な内容を扱う場合は「黙示」と訳される。「アポカリュプシス」が、書かれた文書を指すことは、ギリシア語一般の用法としても、おそらく、これが最初であろう。*1
この文書は、最初は「巻物」(scroll)だったと思われるから、巻物の文書の最後に、誰かが、後で「ヨハネの黙示」と書き込んだのであろう。そうだとすれば、文書が出たばかりの頃は、ただ「黙示」か、あるいは、文頭の「イエス・キリストの(による)黙示」が、題名にされていたと思われる。
 4世紀の「(巻物ではなく)書籍型の写本集」(codex)で、シナイ半島の聖カテリーナ修道院で1975年に発見された「シナイ写本」(Codex Sinaiticus)には、「ヨハネの黙示」と題されている.*2。現存するヨハネの黙示録の写本は、これが最古の物らしい。ちなみに、「神について語る(聖)ヨハネの黙示」(2世紀半ば)、あるいは「(ヨハネ)福音書の作者(である)使徒ヨハネの黙示」(2世紀末)と題された写本もある。
 ヨハネの黙示録は、小アジア半島の当時の「アジア州」で受け容れられたが、エルサレムを中心とするパレスチナの(東方の)キリスト教会では、長らく受け容れられなかった。2世紀末にミラノで(?)書かれたラテン語の「ムラトリ断片」は、当時のグノーシス文書に対抗して、新約聖書の「正典」のリストを遺しているが、そこには「黙示の作品では、ヨハネとペトロのものだけを受け容れる」とある*3。
■著者について
 現在(2022年)では、ヨハネの黙示録は、「ただ一人の作者によって書かれた」*4と見る点で、ほぼ一致している。その上で、作者は、十二使徒のヨハネなのか? それとも、誰かほかの「ヨハネ」なのか? が問われている(「ヨハネ」を偽名だと見る説は受け容れがたい)。作者ヨハネが、ローマ帝国のアジア州に居たユダヤ人キリスト教徒であることは、先ず間違いない。
 彼のことを知る鍵となるのは、ヨハネの黙示録1章9節である。そこには、「私ヨハネは、あなたたちの兄弟(仲間)として、イエスにある苦難と御国(主権)と忍耐を共に分かち合う者で、神の言葉を語りイエス(・キリスト)について自分の証しを立てたために、パトモスと呼ばれる島に居る」とある。
 当時のエフェソへ通じる港から40キロほど離れたエーゲ海に大きなサモス島がある。そのサモス島から南へ35キロほど離れたところに小さなパトモス島がある。島の面積は34.6キロ平方ほどで、現在のトルコに近いが、ギリシア領である。現在は、その島の海を見渡す丘の上に、「神を語った聖ヨハネ修道院」が、その壮大な姿を誇っている。
 1世紀のヨハネの頃、この島はローマ帝国の流刑(るけい)地であったらしい。そうだとすれば、作者ヨハネは、「神を語り」「イエスの証しを伝えた」ことが理由で、流刑の身になったのであろう(自らその島へ渡ったという説もあるが)。
 殉教者ユスティノス(100年頃〜165年)の『トリュフォンとの対話』(155〜60年頃で、対話は135年頃)には、「私たちと共にヨハネという名の人が居て、キリストの使徒の一人であり、彼に成された啓示によって預言した」とある。*5この伝承は、以後の教父たちにも引き継がれて、テルトリアヌスも(160頃〜220年頃/北アフリカのカルタゴのラテン神学者)オリゲネスも(184年頃〜253年頃/アレクサンドリア出身の思想家、神学者)、ヨハネ福音書とヨハネの黙示録が、二つとも使徒ヨハネの作であると確信していた。
 しかし、『教会史』の著者で知られるカイサリアのエウセビオスは(260年頃〜339年頃。「エウセビオス」は複数いるから注意)、その『教会史』(7巻25節以下)で、アレクサンドリアの主教ディオニュシオスが(190年頃〜264年頃/オリゲネスの弟子)、ヨハネの黙示録をどのように見ているかを詳しく紹介している。*6これによると、ディオニュシオスは次のような主旨のことを述べている。
 
 この小冊子(ヨハネの黙示録のこと)は、一部の人たちに言わせれば、わけの分からぬ非論理的なもので、理解不能な帳(とばり)で隠されている。この文書の著者は、使徒たちの一人でないばかりか、聖徒たちの教会に属する者でもない。著者は(当時異端とされていた)ケリントスであると(彼らは)言う。
 しかし、私(ディオニュシオス)は、多くの兄弟がこの小冊子を尊重しているから、この小冊子を斥(しりぞ)けず、ただ自分の理解力の足りなさを表明する。そこには、何か深い意味が言葉の中に隠されていると想像する。私は、それが、「聖なる神の息吹(いぶ)きを与えられた人のもの」だと認める。しかし、ヨハネの黙示録の著者が、ヨハネ福音書やヨハネ書簡を著わした使徒ヨハネだと認めることはできない。ヨハネ福音書とヨハネ書簡は、この小冊子(ヨハネの黙示録)と、性格も言葉遣いも異なるから、著者は、同一人物ではありえない。・・・・・使徒ヨハネと同名の「ヨハネ」はおおぜいいたから、アジア州には、「別のヨハネ」が居た。現在、エフェソには、二つの墓があって、どちらも「ヨハネ」のものだと言われている(「 」は筆者私市による)。
 
 「ヨハネ福音書の著者」と言われていた使徒ヨハネと、ヨハネの黙示録の作者ヨハネとを区別したのは、このように、3世紀初頭のことで、アレクサンドリアの主教ディオニュシオスの頃からである。これに関連して、さらに加えるなら、エウセビオス(260年頃〜339年)は、その『教会史』(3巻39節)で、アジア州のヒエラポリス(現在のパムッカレ)の主教であったパピアス(60/75年?〜130/163?年)の言葉を紹介している。パピアスは、同じアジア州のスミルナ(現在のイズミール)の主教であったポリュカリポスの同僚である。エウセビオスの証言によれば、パピアスは、二人の「長老ヨハネ」から学んだと述べていて、そのうちの一人は、ペトロやアンデレと同じ使徒の仲間の「ヨハネ」だとあるから、これはゼベダイの息子使徒ヨハネのことである。しかし、パピアスの言うもう一人の「長老ヨハネ」のほうについて、エウセビオスは「あの黙示を見た」ヨハネの事だと理解していて、エフェソに二人の「ヨハネの墓」が二つあったと述べている。*7
 ヨハネの黙示録の著者については、教父時代以後も、ヨハネ福音書の著者とされた使徒ヨハネか、*8ヨハネ書簡を書いた「長老ヨハネ」か、そのどちらでもない「別のヨハネ」か、これをめぐって議論がなされてきた。現在でも、ヨハネの黙示録が使徒ヨハネによる著作だと見なす説がある。*9 ちなみに、G・K・ビールの見方を紹介すると、ヨハネの黙示録は「一人の作者」によって書かれたものであるが、それが、十二使徒のヨハネなのか、使徒以外の人として知られたヨハネかを決めるのは難しいと断わった上で、ヨハネの黙示録の内容(神学)が、ヨハネ福音書とヨハネ書簡とはあまりに違いすぎることを指摘している。ただし、内容が共通するところも多いから、使徒がこれを書いたと見ることも可能であり、別のヨハネでも書くこともできると認めている。ビールは、最後に、初期の教会時代には、あちらこちらの諸集会を巡回して教える預言者的な教師たちがいたから、ヨハネの黙示録の「ヨハネ」も、このような預言者の一人ではなかったかと述べている。*10
 現在では、ヨハネの黙示録の作者とヨハネ福音書の作者とは別人だとする見方が多い。筆者(私市)も、作者は、ゼベダイの息子の使徒ヨハネではなく、ヨハネ書簡を書いた長老ヨハネでもなく、別の「預言者ヨハネ」だと見るほうが正しいと思う。「別のヨハネ」説を支える根拠として、ヨハネの黙示録は、その思想的神学的な内容とその用語を含む語り方において、ヨハネ福音書及びヨハネ書簡とは異なることがあげられる。しかし、ここで加えなければならないことがある。それは、使徒ヨハネもまた、(イエスの母マリアを伴って)エフェソへ移住したという言い伝えがあること、現在も聖ヨハネ聖堂跡に遺る白い四角の大きな墓には、複数の「ヨハネ」が眠っていると伝えられていることである。1世紀末のエフェソには「ヨハネ共同体」が存在していたから、ヨハネ共同体の中で成立したヨハネ福音書と、エフェソで編集されたとも思われるヨハネの黙示録とは、「全く無関係だ」とは言い切れない。ヨハネの黙示録とヨハネ福音書とは、用語も文体も手法も異なるものの、両者の間には、モーセと出エジプト伝承、御言(みことば)としてのイエス、小羊、牧者、マナ、命の水、光と闇、「十字架の栄光」(死)を受ける人の子、終末観、初期のユダヤ的な聖書解釈など、見過ごすことができない共通性があるから、ヨハネの黙示録の作者ヨハネが、ヨハネ福音書を著わしたヨハネ共同体と何らかのつながりがあった可能性を否定することはできない。
■著作の年代                                  6
 ヨハネ黙示録が書かれたのは、エルサレムの陥落(70年)以前、例えばローマ皇帝ネロによるキリスト教徒迫害の時期(64年)だという説もあった。しかし、現在では、この文書の著作は95年頃で、ローマ皇帝ドミティアーヌス(在位81年〜96年頃)による「キリスト教迫害」の時期であろうとされている。*11 したがって、作者ヨハネは、ネロ皇帝による首都ローマでのキリスト教徒への過酷な迫害も(64年)、ローマ軍によるエルサレムの陥落も(70年)熟知している。また、パレスチナだけでなくアジア州でも行なわれた皇帝ドミティアーヌス(治世81年〜96年)によるキリスト教徒への迫害を身近に体験している。
 ヨハネの黙示録では、皇帝の権力による圧政と宗教的迫害に耐えて、これと戦う「神の民」の有り様がその主題の背景になっている。幻視体験を通じてこの主題(テーマ)を語る際に、作者ヨハネは、旧約の預言書の伝統を受け継ぎ、エゼキエル書をモデルにしているが(エゼキエル書2章9節〜3章3節を参照)、自分の預言を伝える手段として「黙示様式」を選んだ。その様式はダニエル書と共通するところが多い(特に7章と12章)。ダニエル書の「黙示」では、人間世界で行なわれる圧政に対抗するために、神の玉座(天)から「ヴィジョン/幻視」が啓示され、終末的な救済の成就が告げられる。ヨハネ黙示録でも、「天界」と「下界」とが「空間的に」結ばれ、「時間的に」は、終末の導入によって、過去と現在と未来が連結される。*12

*1Anchor Bible Dictionary (5).695
*2Kurt Aland and Barbara Alant. The Text of the New Testament. Translated by Erroll F. Rhodes. Eerdmans (1981)107.
*3Anchor Bible Dictionary (5).694
*4G.K.Beale. The Book of Revelation. The New International Greek Testament Commentary. The Pater-noster Press(1999).34.
 神学者グレゴリー・K・ビール教授は、生まれはアメリカのテキサス州(1949年)で、イギリスのケンブリッジ大学を出で、アメリカ南部の大学教授を経て、アメリカ・フィラデルフィアのウェストミンスター神学校(改革派・長老派系)の大学院の教授となる。その神学は福音主義的な立場である。
Rev.Dr. Gregory K. Beale.Born 1949 in Dallas, Texas. Professor of New Testament at Westminster Theoligical Seminary (2010--2021.)Ph. D Cambridge.1981. Th. M. Dallas Theological Seminary 1976. Southern Methodist University.1976.
*5New Advent: Church Fathers: Justin Martyr: Dialogue with Trypho. Chapter 81. Electronic edition.
*6エウセビオス『教会史』(3)秦剛平訳(山本書店)49〜58頁。
*7エウセビオス『教会史』(1)198〜199頁参照。
*8現在の学界一般では、ヨハネ福音書が、直接使徒ヨハネの手によって書かれたとは、認められていない。
*9岡山秀雄『ヨハネの黙示録注解』いのちのことば社(2014年)66頁。
*10Beale. The Book of Revelation. 34--36.    
*11 Beale. The Book of Revelation. 4.
*12R・ボウカム『ヨハネ黙示録の神学』飯郷友康/小河陽訳。新教出版社(2001年)9〜11頁。
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