2章 黙示と数秘
■ヨハネの黙示
現在(2022年)、ヨハネの黙示録は、様々な資料に基づいて「編集された」ものであり、しかも作者は複数いるという説さえある。しかし、筆者(私市)は、ヨハネの黙示録の作者ヨハネは、パトモスにおいて、幻視を現実に体験し、この体験を基(もと)にして、ヨハネの黙示録を(おそらくエフェソで)編集していると見ている。この意味で、作者ヨハネは、3世紀以降の小アジアで、とりわけカッパドキアの洞窟に潜んで、聖書の画像が描かれた天井や壁に囲まれて、一人祈りと修行を積んだ修道士たちの先駆者だと言えよう。
ヨハネの黙示録は、自らを幻視者であり預言者と名乗る「ヨハネ」が、自分の「想像力」を駆使して自己の「幻想」を書き留め、それを、エゼキエル書やダニエル書など、旧約聖書の黙示的な文献を「資料として利用する」ことで、自己の「幻想」を小アジアの教会の知見に適合するように「編集し直し」て書き送った、こう考えるべきだろうか。
ヨハネの黙示録の作者が、自分に与えられた幻視を最終的に編集するにあたって、様々な「資料」を参照したことを否定するつもりはない。しかし、それらの資料を「利用した」となると話は別である。ヨハネの黙示録の内容から判断すると、作者は、旧約聖書の伝承とユダヤ教の伝統を受け継ぐユダヤ人キリスト教徒である。このような人物に幻視が啓示された場合、その幻視の図像には、聖書を含むユダヤ教の伝承が、巧まずして幻視の図像にごく自然に反映することを知らなければならない。
ユダヤ・キリスト教に限らず、例えば、紀元1世紀のポンペイに残る三人の優美の女神たち(三美神)の図像は、おそらくそれ以前のオリエントの三美神の図像の特徴を忠実に伝えている。この図像は、以後も、ヨーロッパに受け継がれ、フィレンツェのボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」にも三美神が描かれ、近世のイングランドの画家たちにも受け継がれている。その間、図像の特徴は、驚くほど忠実に受け継がれている。筆者は、京都の老舗の料亭の玄関に、着物姿の三美神の日本画が飾られているのを見て驚いた経験がある。だから、ヨハネの黙示録の作者に啓示された幻視が、それまでのユダヤ教の伝承の特徴を巧まずして忠実に具えていても少しもおかしくない。
むしろ、筆者(私市)に言わせるなら、、ヨハネの黙示録に描かれる象徴的な幻視の図像は、「人間の理性を遙かに超えた出来事であり、そのリアリティは人間にたやすく把握できるようなものではない。それは人間に対して啓示され、彼岸から一方的に告知される真理である」*1と見なすほうがより適切であろう。
■黙示の主題
ヨハネ黙示録全体の「序文」については、説が分かれるが、諸説を最大限に採ると1章1〜8節になる。この序文は、ヨハネの黙示録の主題を明示している。
イエス・キリストは、「(今)居られる方であり、(かつて)居られた方であり、来たるべき方」である(1章4節/8節)。言い換えると、イエス・キリストは、宇宙全体の「時間」の「アルファ」(始まり)であり、「オメガ」(終わり)である(1章8節)。イエス・キリストは、天の玉座に居られる方(神)によって地上へ遣わされ、その十字架と復活を通じ、その血によって「神の御国の民」を贖い出してくださった(1章5〜6節)。その上、彼は、地上のもろもろの「王たち」(王権の保持者たち)の支配者となられた。このイエス・キリストは、かつて(己が)十字架された世を裁くために、世の終わりに再臨される(1章7節)。
この出来事は、旧約聖書で預言されていたことであるが、この預言の完全な成就にいたるまでの全過程は、同時に、「未だ」不完全なキリストの教会(エクレシア)が(1章〜3章)、完全なものとされて終末にいたる(21章9節〜22章5節)までの全過程と重なる。教会は、「すでに始まった」キリストの救いの時と、教会の完全性が成就される「まだその時」までと、「すでに」と「まだ」の「狭間の時」を生きている。
筆写(私市)がとりわけ注目したいのは、御霊にあるエクレシア(教会)が、地上の王権と立ち向かう中で、エクレシアが、「イエス・キリストの王権に与(あずか)る」"a share in Christ's kingly power" *2その具体的な方法である。エクレシアのこの道筋は、時間的な「すでに」と「まだ」とに対応する。内容的に見れば、エクレシアの「不完全性」と「完全性」とが対比される。神からの啓示を受けたキリストは、神の民の歩むこの過程を「黙示」(啓示)として、作者ヨハネに顕わし、作者ヨハネは、これを書きとどめてキリストからの証しとしたのである。
■ヨハネの黙示と旧約
ヨハネ黙示録の内容と構成について、作者ヨハネは、旧約聖書の詩編、イザヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書などを引き継いでいるが、エゼキエル書と共に、とりわけ、ダニエル書とゼカリヤ書の影響が強いと指摘されている。ヨハネ黙示録は、その全体をダニエル書に見習って構成されているという説さえある。*3
先に述べたように、教会(エクレシア)の現在の不完全性から、終末の完全性にいたるまでの全過程が、「すでに」と「まだ」の対比の中にある。その過程は、七つの封印と七つのラッパ(トランペット)と七つの鉢という三系列のヴィジョンとなって幻視される。ところが、ヨハネ黙示録には、「7構成」の系列に<含まれない>部分がある。とりわけ、12章〜14章と、17章1節〜21章8節の最後の審判の部分が、7構成の時系列と共に注目されている。これら二つの七構成の<外の>部分を加えると、全部で5系列になる。この5系列全体は、教会が「いまだ」未完成な状態にある「始め」の段階と(1章19〜20節)、「すでに」完全な栄光を授与された「終わりの」状態(21章9節〜22章5節)と、「始め」と「終わり」の二つに囲まれて、時間的にも限定されている。このように見ると、5系列全体と、これを囲む「始まり」と「終わり」という全体の構成が見えてくる。このような構成は、ダニエル書に基づくという指摘がある。*4
ダニエル書には、五つのヴィジョンが(2章1節以下/7章1節以下/8章1節以下/9章1節以下/10章〜12章)、地上の権力者と神の僕との対立と協和の両方で描かれている。ダニエル書のもろもろのヴィジョンが、ヨハネ黙示録に反映しているのは間違いない。ただし、筆者は、ヨハネ黙示録の構成には、ダニエル書だけでなく、ゼカリヤ書に現われる八つのヴィジョンも、ヨハネ黙示録の幻視の構成へのヒントなると見ている。ゼカリヤ書には、「7」が、数秘としてしばしば用いられている(3章9節/4章2節/同10節/7章5節)。その上、「赤い馬」「栗毛の馬」「白い馬」が登場し(1章8節)、「金の燭台」「二本のオリーブの木」が出てくる(4章2〜4節)。ゼカリヤ書のこの部分は、捕囚期以後のペルシア時代の第一ゼカリヤによるものである。ヨハネ黙示録の7構成は、ゼカリヤ書からヒントを得たのかもしれない。ただし、作者ヨハネの幻視体験に、これらの諸文書が反映してはいるものの、幻視体験それ自体とこれの構成は、どこまでも作者自身の独自性を発揮して描かれていると見るべきである。
■作者と同時代の文書
なお、ヨハネの黙示録の幻視に影響を与えたと想われる作者と同時代の黙示文学としては、共同約聖書の旧約聖書続編にあるエズラ記(ラテン語)があり、さらに一連のバルク文書がある。「バルクの黙示録」について触れると、
「ネリヤの子バルク」は、預言者エレミヤの友人で(エレミヤ書43章7節)、南王国ユダの王宮の書記官である。エレミヤが拘禁されて預言の言葉を伝えることができないために、バルクは、エレミヤの口述を筆記して、神殿の民に読み聞かせた(エレミヤ書36章4〜8節)。ユダの王ヨヤキムは、エレミヤの預言の書を燃やしたが、バルクは、エレミヤの指示に従って、燃やされた預言を「別の巻物」に書き記したとある(エレミヤ書36章27〜32節)。エレミヤとバルクは、新バビロニアによるエルサレムの破壊(前586年)の後も生き残り、二人はエジプトへ赴いた。主は、エルサレムの滅亡を悲しむバルクに、「わたしは自分の植えたものをも引き抜く」と教えたとある(エレミヤ書45章1〜5節)。以後のユダヤ教で、バルクは「啓示の記録者」として知られ、バルクの名前を借りた「啓示の書」偽書が幾つも書かれることになった。*5
「第一バルク」としては、『バルク書』(前165年頃から後66/70年頃にわたる)があり、6「第二バルク」としては、『シリア語バルク黙示録』(後70〜90年頃)があり、*7「第三バルク」としては、『ギリシア語バルク書』(後1世紀後半〜2世紀前半)がある。*8なお、啓示/黙示の書としては、そのほかに、『エチオピア語エノク書』(前3世紀頃〜前2世紀にわたる)があり、*9『第四エズラ書』(後1世紀末か)などがある〔八木誠一/綾子訳『聖書外典偽典』(5)教文館(1983年)157〜217頁〕*10。
■黙示録の数秘
ヨハネ黙示録では、神学的な意図だけでなく、そこには、宗教的な啓示のヴィジョンに伴う表象や図像、神話、哲学、天文(占星術)などにわたる分野が、渾然一体となって、テキストの表層とその背後に織り込まれている。ヨハネ黙示録でとりわけ注目したいのは、全体が「7」という数字によって構成されていることである。「7」は、この数字が表わす字義どおりの意味ではなく、神によって定められた特定の時期や内容が完成することを示す「完全数」として象徴的に用いられている。「7」(1週間)や「3」(三位一体/三種の神器)や「12」(年間の月数/干支)や「4」(季節/東西南北)や、陰陽五行説の「5」のように、ある事柄を示す表象としての数字は(number symbolism)、これを「数秘」"numerology"と言う。
「数秘」は、ヨハネ黙示録のような黙示的な預言の場合だけでなく、混沌として見分けがたい複雑な出来事を「物語る」場合に、物語全体を「秩序づけ」て、出来事を読者に「分かりやすく」整理して伝えるために用いられる手法である。例えば、16世紀のイギリスの詩人スペンサー(Edmund Spenser)は、自分の結婚の出来事を題材にして、これを国家的、宇宙的なレベルの出来事として描き出すために、幾つかの「数秘」を用いて『祝婚歌』(Epithalamion)を著わした。*11欧米の「数秘」は、これをさかのぼると、古代ギリシアのピタゴラス学派の「数秘宗教」から出ていると言われる。
数秘文書を読む場合には、テキストの表層を字義通りに受けとめる作業と、同時に、そこで用いられる数や表象を、テキストの深層の消息を表わす記号とみなす作業とが重なる。テキストの表層の意味を背後から支える宗教的、神話的、天文的な意味が、数と表象を通じて示唆されているからである。それらの意味合いが、テキスト本文と結びつくとき、そこに、古代からの宗教的、神話的な宇宙観とでも言うべきものが浮かび上がってくる。
だから、数秘を用いて書かれている文書は、一見分かりやすいように見えるけれども、実は、そこに盛られている内容が、複数の分野にわたる幾層もの意味内容を秘めていることを知る必要がある。このような表象や数秘を解明するには、恣意的な判断や勝手な「読み込み」をしないように注意しなければならない。特に、数秘の手法によるシンボリズムは、テキストの背後にさりげなく隠されている場合が多いので、留意する必要がある。概して、図像や数秘は、従来の一般的なテキストの解釈を支え、これを補強するものではあっても、その解釈を根底から覆すような性質のものではない。少なくとも、そういう心構えで数秘や図像を扱わなければ危険が伴うとわたしは考えている。
■七構想の幕間部分
このように、数秘の「7」による構成は、混沌とした内容を整理する機能を持つ。ところが、数秘は、整理すると同時に、その数秘構成の「狭間にある」部分、「言い換えれば7構想の「幕間の部分」は、数秘による整理の枠では表わすことが<できない>部分に光をあてる。そうすることで、7構想の範囲だけでは言い表わすことができない「秘義」が浮かび上がるからである。このように、数秘の構想は、その構成に「入らない部分」をも注目させる効果を持つことを知ってほしい。実は、整理された7構成の「狭間に置かれた」部分を浮かび上がらせるこの効果こそ、数秘による構成の重要な意義だとさえ言えよう。
あえて、言うならば、この「狭間」あるいは「幕間」の部分こそ、ヨハネ黙示録の「本題」にあたる。「本題」の部分として、例えば、10章1節〜15章4節がある。この箇所は、ヨハネ黙示録全体の中心に位置していて、ヨハネ黙示録全体は、内容的に見れば、この部分を真ん中に、対称的に「交差」を形成しているという説さえある。この交差法説は支持できないが、幕間の箇所こそ、7構成の部分から分かれることで、「神による裁きと救い」が、鮮明に表明される効果を発揮する。*12作者ヨハネは、その7構成において、おおむね旧約の伝統的な手法を受け継いでいるが、幕間の箇所では、彼独自の仕方で、新約のメッセージを語っていると言えよう。
*1石原綱成「ヨハネの黙示録の図像学」:小河陽訳『ヨハネの黙示録』岩波書店(1996年) /石原綱成図版構成。
*2Beale.
The Book of Revelation. 135.
*3Beale. The Book of Revelation. 135--136.
*4Beale.
The Book of Revelation. 132--138.
*5森田光博訳『聖書外典偽典』(2)教文館(1986年)211〜236頁。
6森田光博訳『聖書外典偽典』(2)教文館(1986年)215頁。
*7村岡崇光訳『聖書外典偽典』(5)教文館(1983年)69〜154頁。
*8土岐健治訳『聖書外典偽典』別巻補遺(T)教文館(1985年)123〜150頁。
*9村岡崇光訳『聖書外典偽典』(4)旧約偽典(U)教文館(1986年)161〜292頁。
*10八木誠一/綾子訳『聖書外典偽典』(5)教文館(1983年)157〜217頁。
*11第58回日本英文学会のスペンサー・シンポジアムでの発表に基づいて書かれた論文、私市元宏「Epithalamion
における時間の数秘と優美の女神たち」甲南女子大学『英文学試論』第9号(1987年)を参照。
*12Beale.
The Book of Revelation. 130.
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