4章 終末観へのヒント
■黙示録の「終末」とは?
ヨハネ黙示録の構成は、七つの教会で始まり、中核に「エクレシアの受難」が来て、「終末」には、花嫁姿のエクレシアが、神の都に入る。ここで問われるのは、では、「神の玉座から降るイエス・キリストの民」を象徴する「七教会」が、今のこの世での歩みにおいて、ヨハネの黙示録の言う「終末」とどのようなかかるのか?という問いである。
いったい、ヨハネの黙示録で語られている「終末」は、今生きている自分の「現在」と関わるのか?、関わらないのか? 大方のヨハネ黙示録の注解は、終末が現在と「関わらない」などとは「言わない」。しかし、終末は現在と「関わっている」ともはっきり「言わない」。そこには、なにか「言えない」理由がある。それなら、いったい「言えなくしている」ものはなんなのか?せめてそのわけでも「語って」くれれば有り難いのだが、それも「言わない」。だから、なんにも分からない。
辛いこと、苦しいことは、今の世で現実に起こるが、嬉しいことは「最後に」来る。ヨハネ黙示録がこういう印象しか与えてくれないのなら、「喜べ」と言われても、少しも嬉しくない。嬉しいことは、これすべて「天上の」出来事だと言われたら、「この世」で起こる現実ではない。「あの世の宗教」なら、仏教の地獄・極楽と同じで、要するに「死んでからのこと」だと思うだけである。啓示は、「祈る」ことで与えられると言うが、ヨハネ黙示録は、記述された「テキスト」(文章)だから、「読む/聞く」ためのものであって、「祈る」ためのものではない。幸い、ヨハネ黙示録の時間構想について、こういう疑問に応えてくれる「手がかり」になりそうな注解書に出合えた。 *1
ヨハネ黙示録の「時間」構想は、ひたすら「終末」(ギリシア語「エスカトン」)へ向かう未来志向だと言われる。「エスカトン」(終末)は、「最後の」「最終の」を意味する形容詞「エスカトス」の対格から出た中性名詞である。
分かりやすく言えば、
(1)太陽は後(あと)50億年で、「最後に」燃え尽きてしまうと言えば、「ああ、そうですか。今はまだその時でないから、自分とは関わりがない」と思えば済むことである。
(2)しかし、空気中のCO2を今のように増やせば「最後には」地球が温暖化して大変なことになる。こう言われたら、「大変だから、<今から>注意しなければならない」こう考えるだろう。
■ダニエル書とヨハネ黙示録
ダニエル書2章によれば、新バビロニアの王ネブカドネツァルが夢を見て、国中の賢者を呼び寄せ、自分がどんな夢を見たのか言い当ててみよと言った。誰も答える者が居ない中で、一人ヘブライ人のダニエルだけが答えた。ダニエルは、天の神からの啓示を受けて、王の夢の「秘密」(隠された意味)を幻視したからである。ダニエルは王に答えた。
「王様、あなたは、<これから何が起こるのか>を思い巡らせました。そこで、天の神が、王に<後(のち)の日々に必ず起きる出来事>を啓示されたのです」〔七十人訳ダニエル書2章28〜29節〕。ここで「後の日々に」"in the latter days"とあるのを「早急(さっきゅう)に」"quickly"と言い換えてある七十人訳の版がある(テオドティオンによるダニエル書訳)。ちなみに、七十人訳のギリシア語で「エスカトス」は「後の/終わりの/終末の」を意味する。テオドティオンによるダニエル書訳の「早急に」という言い換えは、おそらく、出来事が「近い将来起こる(成就する)」の意味から、さらに一歩を進めて、その出来事の成就が「(現在において)すでに始まっている」ことを言おうとしている[ビール注(1)137〜38頁〕。
ヨハネ黙示録の作者も、ダニエル書2章29節の「この後に」を、上記のダニエル書訳の「言い換え」と同じように、「差し迫った終わりの/終末の」ことだと解釈した。ほんらいのダニエル書のほうは、「事が(将来)必ず成就する」ことを告げているのだが、作者ヨハネのほうは、この世の邪悪な王権が滅び、神の御国が始まることを期待して、「未来の成就が、自分が生きている現在すでに始まっている」と受け止めたのである。だから、作者ヨハネは、ダニエル書の「後(終わり)の時に」をダニエル書(の訳)と同じ意味をこめて「終末に」と言う。ヨハネ黙示録1章1節にも「早急(さっきゅう)に起こるべき事」とあるが、これも同じで、「ヨハネの居る現在、すでに開始されている終末」の出来事を意味する。*2
ここで問題となるのが、テオドティオンによるダニエル書訳である。テオドティオンは、後2世紀の半ば、エフェソでギリシア語の旧約聖書を刊行した。彼は、ユダヤ人キリスト教徒だと推定されるが確かなことは分からない。大事なのは、テオドティオンが、当時キリスト教の間で広く用いられていた旧約聖書のギリシア語訳(七十人訳)を改定して刊行したことである。ところが、テオドティオンのダニエル書訳は、七十人訳と同時代(?)の古ギリシア語訳を改訂したものであることが分かった。このため、「原テオドティオン」とも言うべき個人(あるいはグループ?)が、紀元前1世紀頃に、旧約聖書をギリシア語に訳したと想定されている。
ダニエル書(とその訳)での、このような「終わりの日々に起こる出来事」と「(天からの)秘義を黙示(啓示)する方」との結びつきこそ、ヨハネ黙示録1章19節で、人の子姿の方(イエス・キリスト)が(ヨハネ1章13節)、作者ヨハネに「書き記せ」と命じた「これらのことの後に起こるべき事」が意味することである(ダニエル書とヨハネ黙示録は、同じギリシア語の表現)。
ダニエル書(の訳)が言う「早急に起こるべき事」は、ヨハネ黙示録の初めに出てくる(ヨハネ黙示録1章1節)。ヨハネ黙示録で、それは、神がイエス・キリストによる「黙示(啓示)」として作者ヨハネに幻視させたことである。ところが、ヨハネ黙示録1章1節の「早急に起こるべき事」は、そのまま、同22章6節の「早急に起こるべき事」として、ヨハネ黙示録全体を構成する「時」の枠となる。「ダニエル書からのこの言い方は、そのまま、ヨハネ黙示録4章1節〜22章6節の幻視(ヴィジョン)への導入であり、その結論でもある」と言えよう。*3
だから、ヨハネ黙示録の幻視は、「将来における終末」を指すだけではなく、「過去と現在をも含む終末」として理解されなければならない。ちなみに、ヨハネ黙示録では、1章19節の「終わりの日々に起こる出来事」は、その直後に来る「七つの星の神秘」へと続いているから、「七つの星」は、「七つの教会」をも意味する。*4
■ヨハネ黙示録の終末観
以上で分かるとおり、ヨハネ黙示録1章3節に「時が迫っている」とあるのは、「現在すでに始まっていて」、その始まった出来事が「将来必ず成就する」ことを意味する。だから、「人の子」イエス・キリストが、作者ヨハネに、「時が迫っている」と証しするのは、「人の子」が「メシア的な王」として行なう「将来、成就されるべき事」である。*5 作者ヨハネは、その出来事が、「現在においてすでに開始されている」と告げているのである(ヨハネ黙示録1章8節)。「現在すでに開始されていて、終末に必ず成就する」というこの終末の概念は、マルコ1章15節の「神の国は<間近に迫っている>」と告げるイエスの言葉とも一致するから、作者ヨハネのこのような時間概念は、福音書にもならったのであろう。ただし、ダニエル書では、天使が、ダニエルに、「終わりの時まで書かれたヴィジョンを封印する」ように命じている(ダニエル書12章4節)。これに対し、ヨハネ黙示録では、天使からヨハネに、「書かれた預言の言葉を秘密にしてはいけない。(終末の)時が迫っているから」と告げられる(ヨハネ黙示録22章10節)。
■ヨハネ黙示録の「時」と世界像
ダニエル書2章とこれがヨハネ黙示録の終末観に与えた影響は、そのまま、ヨハネ黙示録「全体の時間構成」にも及んでいる。*6 ヨハネ黙示録全体の世界像は、「天と地」から成り立つ。この世界像全体は、筆者(私市)なりの分類を示すと次のようになる。
(1)1章〜16章(七構成の部分)は天の玉座に支配されていて、現在において起こる出来事が描かれる。
(2)17章〜20章は、来たるべき新たな神殿が現実に来臨する<以前に>起こる「裁き」である。
(3)21章〜22章5節は来たるべき神殿である。
(4)22章6〜21節はキリストの再臨である。
以上をさらに具体的に見ると、全体が「幕屋(神殿)の外庭と聖所と至聖所とになっている。
■バビロンへの裁き
ヨハネ黙示録の七構想を見ると、七つ目の封印と七つ目のラッパと七つ目の鉢が、終末的に対応しているのが分かる。だから、小羊が七つ目の封印を解くと「雷鳴、轟音、稲妻、地震」が起こり(8章5節)、第七の天使がラッパを吹くと、「稲妻、轟音、雷鳴、地震」が起こり(11章19節)、第七の天使が鉢の中身を空中に注ぐと、「稲妻、轟音、雷鳴、地震」が起こる(16章18節)。
最後の第七の鉢が注がれると、「淫行の葡萄酒に酔った」とされる王国(大淫婦)が、七つ頭で十角の獣となって出てくる(17章1〜3節)。作者はここで、ダニエル書7章1〜7節の四頭の獣とその角を念頭においている。古代の都市ローマは、「七つの丘」(ヨハネ黙示録17章9節)の上に築かれていた。「七人の王」(17章9節)については、歴史的な事実とは関わらない象徴的な数字だという説も含めて、諸説があって定まらない。一つの有力な説は、共和制のローマを皇帝制へ導く先駆けとなったユリウス・カエサルから数え始めて、初代皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)を二番目にすると、七人目はガルバ帝になることである。この順番だとキリスト教徒迫害で知られたネロは、六番目に来る。ローマとユダヤとのユダヤ戦争が始まったのも66年だから、6番目のネロと66年の戦争開始で、「666」(13章18節)がでてきたとも考えられる。ヘブライ語の「ハッヤー」(獣)を数字に置き換えると「666」になるともいう〔Beale. The Book of Revelation. 24.〕。
ところで、ヨハネ黙示録では、この獣王国は「大バビロン」と称される(18章2節)。かつてイスラエルが捕囚となった「バビロン」が、ヨハネの黙示録では「ローマ帝国」を表象しているのだろう。ただし、これは、エルサレムのことだ(?)と言う異説もある。*7
*1 G.K. Beale. The Book of Revelation. The New International Greek Testament Commentary. Eerdmans (1999).pp. 121--141.
*2 Beale. The Book of Revelation. 138--139.
*3 Beale. The Book of Revelation. 140--141.
*4 Beale. The Book of Revelation. 138--141.
*5 "the inaugurated fulfillment of the office of the Son of man as messianic king"〔Beale. The Book of Revelation. 139.〕
*6 Beale. The Book of Revelation. 140--141.
*7 Beale.
The Book of Revelation.25.
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