5章 十二部族と白衣の民
■6章から7章へ 
  ヨハネの黙示録6章では、第二の封印で「赤い馬」の戦乱が始まり、第三の封印で黒い馬の大飢饉が起こり、第四の封印で青白い馬の「死」が人々を地獄へ落とす。「剣と飢えと死」が出揃うと、第五の封印が解かれる。すると、神の言葉を証しした殉教者たちの魂が、玉座に坐す方に向かって裁きと復讐を求める声が響く。彼らには白い衣が与えられ、玉座による「裁き」によって、彼らの正当性が立証されるまで、もうしばらく待つよう告げられる(6章9〜11節)。第六の封印が解かれると、太陽と月と星星に天変地異が生じ、「地上の(悪しき?)王たち、高官や軍隊の将校たち、(大企業の)金持ちや有力者たち、そして、自由な身分から奴隷身分にいたる者までが(6章15節)、天の玉座からの恐ろしい裁きを免れようと身を隠す。
 ここで7章に入るのだが、その前に、注目したいことがある。それは、先に指摘したように、数秘の「7」による構成は、混沌とした内容を整理する機能を持つ。ところが、数秘は、整理すると同時に、その数秘構想の「狭間にある」部分、すなわち、数秘による整理の枠では表わすことが<できない>部分に光をあてることである。数秘構想は、その構成に「入らない部分」をも注目させる効果があることを知ってほしい。実は、整理された構成の「狭間に置かれた」部分を浮かび上がらせるこの効果こそ、数秘による構成の重要な意義なのである。
 ヨハネの黙示録7章は、第六の封印が解かれるのと(6章12節)、第七の封印が解かれて(8章1節)第一のラッパが響く時(8章7節)と、ちょうどその「狭間に」置かれている。とりわけ、7章9節〜17節に注目したい。*1
 7章13節の「白い衣」を着た人たちは、6章で「白い衣」が与えられた人たちである(6章9節〜11節)。ただし、6章では、「神と小羊」が、玉座の御臨在の働きを地上の王たちに証しすると、地にある王権とこれに携わる者たちに「(神の)怒り」が降り(6章17節)、これに伴って、太陽と月と星に異変が生じるから(6章12〜13節)、6章の後半では、白い衣の人たちよりも、むしろ、天の玉座と、そこから遣わされる小羊の「裁き」ほうに目が向けられている。
 6章から7章に入ると、「誰が、神と小羊の怒りに<立つ>ことができるか?」(6章17節)という問いかけに応じて7章が始まる。*2 ここでも、ダニエル書7章9節〜17節に注目する必要がある。なぜなら、「立つ」(ギリシア語「ヒステーミ」のアオリスト受動不定詞)は、「支えられて立つ/(苦難に)耐える」ことを意味し、ダニエル書では、神からの大天使が側(そば)に「立つ」ことによって「(民が)苦難から救われる」ことであり(ダニエル書12章1節)、「終わりの日に、自分の受けるべき報酬を得て<立つ>」(ダニエル書12章13節)ことを意味するからである。*3
■「聖者たち」とは?
 ダニエル書で「いと高き方の聖者たち」とあるのは、ほんらい「天使たち」のことであるが、この「天使」像は、編集によって、地上で悪の権力と戦う「イスラエルの民」へとその内実が移行する。その結果、ダニエル書では、「天使たち」と「イスラエルの民」とが重なり合う形で、天の玉座に属する「聖なる民」が形成されている。この「聖なる民」は、第四の獣と闘うが、獣に勝つことができない(ダニエル書7章21節)。すると、この獣に、玉座からの人の子姿による「裁き」が下る(同26節)。玉座からのこの裁きによって初めて、「いと高き(玉座の)方の聖なる民」(同27節)に永遠の王国が与えられる。
■白衣の民
 ヨハネの黙示録の「玉座」と「小羊」と「白衣の民」とは、それぞれ、ダニエル書7章の「日の老いた者の玉座」(ダニエル書7章9節)と、「人の子姿」(同13節)と、「いと高き方の聖者たち」(同18節)とに対応する。ヨハネの黙示録7章9節で、白衣の民は、「玉座と小羊の前に立つ」ことが許される。これが、「神と小羊の怒りに<立つ>(耐える)のはだれか?」(6章17節)という問いへの答えである。白衣の民こそ、「神の怒りが頂点に達する」時に、「火の混じるガラスの海で、竪琴を手に<立ち>」、「モーセと小羊の歌を奏(かな)でる」人たちである(ヨハネの黙示録15章2〜3節)。彼らは、「玉座の傍らに<立つ>屠られた小羊」の尊い「血によって贖われた」者たちで、「あらゆる部族と民族」から成り立ち、「新しい歌」を謡(うた)う人たちである(5章6節/同9節)。この白衣の民は、復活した小羊と共に「立つ/復活する」ことができる。
 ヨハネの黙示録の7章3〜8節では、イスラエルの十二部族から選ばれた「十四万四千」の民の「額に刻印が」押される。「刻印」は、エゼキエル書9章4節と6節から受け継がれているもので、古代社会で、奴隷にその持ち主の刻印が押されたことから出ている。*5 十二部族の中から刻印を押された民は、5章9〜10節の「小羊の贖いに与(あずか)る」民と同一であることを確認しておきたい。
 先に指摘したように、7章の白衣の民は、ダニエル書7章22節/同27節の「いと高き方の聖なる民」から出ている。ダニエル書7章では、このイスラエルの民は、永遠の命を受けて「星のように輝く」(ダニエル書12章3節)。だから、この民は、「アブラハムに約束された子孫」(創世記22章17節)に通じる。そうだとすれば、創世記のアブラハムの「まこと」の子孫が、ダニエル書の聖なる民(イスラエルの民)となり、この民は、ヨハネの黙示録で、キリストの民(キリスト教会)と同一視されていることになる。*6 だから、ヨハネの黙示録が言う「白衣の民」は、イスラエルの十二部族と、もろもろの民族の中から「神と小羊によって救われた者たち」とを併せ持つ「総体」のことである。
 この「白衣の民」は、「その衣を小羊の血で洗った」者たちであり(7章14節)、彼らの間に神が幕屋を張り(7章15節)、小羊が彼らの牧者となる。彼らには「命の水の泉」が与えられ、「(その)目から涙が拭われる」(7章17節)。このようにして、天の玉座に居ます神と地上の悪しき王権との闘いの中から、「勝利する」小羊に救われて、牧者である小羊に率いられる「白衣の終末の民」が生まれてくる。*8。
■十二部族と大群衆
 ここで改めて、「十四万四千」で表わされる「イスラエルの十二部族」の表象について考察したい。7章4〜8節の「十四万四千の」と、7章9〜17節の「白衣の大群衆」との関係については、諸説がある。 一見すると、「十四万四千人」は、旧約以来のイスラエルの十二部族のことであり、「白衣の大群衆」のほうは、あらゆる(異邦人の)諸民族から成る世界規模の民のことだと思われる。しかし、この区別は、ヨハネの黙示録全体の内容から判断すると、適切とは思われない。そこで、「十四万四千」は、「殉教者の」数を指すもので、「白衣の大群衆」は、この殉教者をも含んだ上で、世界規模での「玉座の神に属する民」の全体を表わしているという解釈が提示されている。この場合、ヨハネの黙示録7章で語られているのは、ふた種類の民のことではなく、全体として、「一つの民」のことを指している。
 しかし、「十四万四千」をとりわけ「殉教者の数」に限定することも適切ではない。ヨハネの黙示録の始めに出てくる「七つの教会」は、キリストの教会を「その全体において」象徴する。同様に、「十四万四千」は、「数秘」であり、その数値は、イスラエルの十二部族と世界規模の諸民族との総体の中から、誰が「まことの神の民」に属するのか? 神が、その一人一人の身に正確に刻印することを通じて、救われる民を「数値として」認証している。このように見るほうが正しい(6章11節を参照)。
 これに対して、「白衣の大群衆」(7章9節以下)のほうは、同じキリストの教会を指すが、それは、イスラエルの十二部族をも含む「全世界から」集められた民であり、「苦難を耐え忍んだ」民であり、「小羊の血で贖われた民」であるから、「民全体の特長」のほうに目を向けていることになる(7章15〜17節)(これについてはラテン語エズラ記2章33〜47節を参照)。だから、作者ヨハネは、「十四万四千人」と「白衣の大群衆」のように、同じ一つのキリストの民を「二つの異なる視点」から描いていることになる。*9
 作者ヨハネは、なぜこのような二つの視野を持ち込むのか? 一つには、かつてイスラエルの民が、国々の間に「散らされて」、わゆる「離散の民」として諸民族の間に居留していたことがある。イスラエルは、主ヤハウェによって、諸民族間のイスラエルの民が「一つに集められる」日を待ち望んでいた。だから、ヨハネの黙示録では、イスラエルの十二部族が一つにまとめられることと、終末において、世界の諸民族の中から一つの民が生まれることとが、切り離しがたく結びついてくる(イザヤ書11章)。
■獅子と牧者
 作者ヨハネは、「ライオン」と「小羊」という対照的な二つの象徴を用いている。5章5節では、救い主は、「ダビデのひこばえ(子孫)」であり「ユダの獅子」という「勇ましい」姿で表象されている。ところが、5章9節の救い主のほうは、「その血によって諸国民を贖う」「屠(ほふ)られた小羊」(同9節)である。だから、「ライオン」と「小羊」という性格の異なる「二つの救い主」像が、ここで比較対照されていることになる。*10
 実は、性格の異なる二つのメシア像は、ミカ書にさかのぼる。ミカ書では、苦難に耐えて生き残るイスラエルの民が、「ヤコブの残りの者」として、誰にも負けない「(若い)獅子」に喩えられる(ミカ5章7節)。この獅子は、神に背きイスラエルを迫害する圧政者と闘って勝利するイスラエルの戦士たちを鼓舞する主の力の象徴である(第二マカバイ記11章10〜11節)。
 ミカ書では、「若獅子」に対して、「剣を鋤に、槍を鎌に変える」ことで「国と国との戦いを学ばない」平和なメシア像が現われる(ミカ5章3節)。このメシアは、「ヤハウェが結ぶ朝露、ヤハウェが降らせる雨」(ミカ5章6節)とあり、穏やかな大自然の恵みで象徴される。だから、ミカ書には、方や勇猛な獅子、方や「剣を鋤に変える」平和な牧者という、二つの対照的なメシア像が併存している(ミカ書4章3〜8節/5章1節/同4節/同6節/同7節)。
 ミカ書は、アッシリアによる北王国イスラエルの滅亡(前8世紀)に先立つ頃から、捕囚期以後の時代(前6世紀〜前5世紀前半頃)の長期にわたって編集されている。だから、ミカ書が預言する「メシア」像には、アッシリアによる北王国の滅亡に始まり、新バビロニアによる南王国ユダの捕囚から、さらに、ペルシア時代にまで及ぶ長期の出来事が反映している。したがって、ミカ5章4節の「アッシリア」は、アッシリアの王権のことだけでなく、その後、イスラエルが経験した新バビロニアやペルシアの様々な王権をも反映していて、この世の圧制者たちとその暴虐な権力を重層的に象徴している。「玉座に背く邪悪な」これらの王権は、これらをその裏で操る悪魔(サタン)の働きをも表象する。
 ミカ5章4節の「7人の牧者と8人の王侯たち」は、イスラエルの民を率いて、民と共に闘った指導者たちである。民とその指導者たちは、圧政の苦難の経験の中から、ありとあらゆる仕方で、圧政と闘い、圧政を忍び、圧政を生き延びた「イスラエルの獅子」であり、「7人の」者たちである。だから、この「7」には、あらゆる可能性を秘めた数秘的な意味が込められている。*11
■「聖なる民」の個と全体
 すでに指摘したとおり、「十四万四千」は、「白衣の民」が、「刻印」を帯びた貴重な一人一人であることを数値として表わしている。それは、「ただの」数値ではない。数値は、それだけの数の「白衣の個人」が居たことを表象するものであり、同時に、民の数の大きさだけでなく、それだけの数に具わる「多様性」をも表象している。数値が表象する多様性は、十二部族の「12」という数秘にも込められている。ミカ書の伝承が証しするように、邪悪な圧政者は、ありとあらゆる手段を用いて、神の民を搾取し迫害する。その多様な暴虐に対抗するために、神は、圧政者に勝る多種多様な仕方で、白衣の民に働きかけてきたし、今も働き続けている。作者ヨハネは、白衣の民を世界規模の「一つの共同体」として提示する。この「大群衆」は、一人一人、かけがえのない個人から成り立つ。それらの個人は、それぞれに多種多様な個性を発揮して、あるいは圧制を忍び、あるいは暴虐と闘い、邪悪な権力に抵抗し続けてきた。作者ヨハネは、白衣の民の「この有り様」を証ししている。
 このように、7章の「白衣の民」とは「小羊の聖なる民」のことであるが、実は、その「多様性」についても語っている(7章9〜10節)。これに対して、7章と同様に数秘構想の「狭間に置かれた」11章では、「二人の証人」が現われる。11章では、この「二人の証人」と小羊とが、悪しき権力という「獣に支配された」地上において、圧制にどのようにして立ち向かうのか、その「働き」のほうが語られる。
■圧政と闘う民
 先に指摘したように、ミカ書5章6〜7節に出てくる「獅子」は、「アッシリア」に象徴される圧政の闇の力と闘う「ユダの獅子」として、古来のイスラエルのメシア預言につながる(ミカ書5章1節)。長い間の闘いと苦難の歴史を通じて、公然と闘う人、殉教する人、密かに抵抗を続ける人、圧政を堪え忍んで生き延びる人など、神の民の様々な有り様が可能であった。「聖なる主の民」と呼ばれた人たちは、実に多種多様な仕方で、この世の悪と闘い、苦難を忍びながら終末を待ち望んできた。このような「ヤハウェの民」の有り様を一つの原理原則で締めくくることは不可能である。
 「十四万四千」の「イスラエルの十二部族」と、世界規模で広がる諸民族・諸言語の大群衆である「主の民」は、横暴な権力者たちの圧政と戦い、これを倒して御国を実現するために、終末に成就する平和をもたらすために、今もなお働き続けている(イザヤ書11章)。この民に働きかける力は、この世の人の力ではない。それは、天から降る超自然のヤハウェの力であり、その力は、不思議なことに、「朝露」のように小粒でも、「草を潤す雨」のように穏やかに(ミカ書5章6節)、人々を動かす大自然の不動の力を発揮する。
 日本で言えば、このような主の民の多様な有り様は、16世紀末に始まるキリシタン迫害による二十六聖人やペトロ岐部のような殉教者から、武器を持って最後まで戦い続けた島原の乱の民、圧政に堪えて殺された無辜の民、250年間にわたり圧政を生き延びた「潜伏キリシタン」など、実に様々人たちを想わせる。
 2022年3月の現在、筆写(私市)は、ロシアのプーチン大統領の軍隊が、隣国ウクライナへ侵攻して、ウクライナの独立とその民主主義を破壊しようとしている惨状を目の当たりにしている。圧倒的なロシア軍に向かって、ウクライナの男女の市民たちは、字義通り、ありとあらゆる可能な手段で抵抗を続けている。その抵抗の有り様は、実に様々で、それぞれの市民が、それぞれの思惑(おもわく)で、「この世の悪」に対して戦いを挑んでいる。しかし、ウクライナをめぐる欧米とロシアとの争いは、世界大戦への危険さえ帯びている。現在、すでに三年目に入る世界規模のコロナの疫病と、ウクライナ戦争と、これがもたらす世界規模の経済的な危機によって、多くの難民や生活困窮者が生じている。2022年3月の現在、「疫病と飢えと死」が、全世界を覆っている。第二の封印の「赤い馬」の戦乱が始まり、第三の封印で黒い馬の大飢饉が起こり、第四の封印で青白い馬による大勢の死者が出るという、まさにそのことが、目の前で起こっているのを覚える。
 
*1 Beale. The Book of Revelation.404ff.を参照。
*2 Beale. The Book of Revelation.405.
*3 Beale. The Book of Revelation.405.
*4 Beale. The Book of Revelation.405.
*5 Beale. The Book of Revelation.409.
*6 Beale. The Book of Revelation.361/427.
*7 Beale. The Book of Revelation.424--426.
*8 Beale. The Book of Revelation.431.
*9 Beale. The Book of Revelation.424./『新共同訳:新約聖書注解』(U)日本基督教団出版局505頁。/佐竹明『ヨハネの黙示録』(下巻)現代聖書注解全書/新教出版社122頁。
*10 Beale. The Book of Revelation.425./R・ボウカム『ヨハネの黙示録の神学』飯郷友康・他訳。新教出版社101頁。
*11 James L. Mays. Michah. Old Testament Library. SCM Press (1980)117--123.
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