6章 甘くて苦い巻物
■10章
 第六と第七の封印の間には、「狭間」として7章が挿入されている。これと対応するように、第六のラッパと第七のラッパとの狭間にも10章1節〜11章13節が挿入されている。これで見ると、10章1節〜11章14節は、9章の終わりと11章15節以降との間に置かれていて、ヨハネ黙示録の前半と後半とを結んでいるのが分かる(本論の4章四系列と七構想を参照)。
 10章1節〜11章14節は、9章と11章15節との間を「時間的に」繋いでいるように見えるけれども、実はそうでない。第六のラッパの出来事が終わり、第七のラッパの出来事が起こるその前に、今回の箇所を「挿入する」ことで、作者ヨハネは、これから起こる最後の審判の「神学的な意義」を読者に悟らせようとしている。したがって、第六と第七のラッパとの間に、「時間的な遅延」が生じていると考えてはならない。天使が告げるように、「遅延はない」(10章6節)のである。すでに見てきたとおり、全く同様のことが、第六と第七の封印との間にも行なわれている。*1
 今回の箇所の大天使は、ダニエル書7章9節の「日の老いた者=神ご自身」を想わせる。10章1節〜11章14節には、第七のラッパの意義についてと、天からの声と、開かれた小さな巻物と、この世を支配する王(権力者)たちと、二人の証人と、彼らと戦う一頭の獣とがでてくる。ここの幕間部分は、これらの「七つ道具」による「第二の災い」と呼ばれている。ヨハネ黙示録では、9章12節で「第一の災い」が終わり、続いて、第六のラッパと共に、第二の災いが始まり、これが9章13節から10章11節まで続いて終わる(9章12節と11章14節とを参照)。
■強大な天使
 10章1節の「もう一人の強大な天使」は、5章2節の「強大な天使」に対応する。しかし、この10章の天使は、「雲に乗り」「頭に虹」(エゼキエル書1章26〜28節参照)「顔は太陽」「足は火の柱」で、ほかの天使たちとも異なる姿で描かれている。10章のこの天使は、14章14節の「人の子姿」と共通するところがあるから、この天使は、神自身の姿、あるいは、キリストの像に近い。この「強大な天使」が現われるのは、5章2節と10章1節の2回だけであるから、5章と10章とは、内容的に見ても共通するところが多い。ただし、作者は、10章の「強大な天使」を「小羊」キリストのメシア像としてよりも、諸民族を支配しながら神に逆らう王権の所有者たち(10章11節)をば「裁き断罪する」神の御手そのものとして、いわば、「贖いの小羊」としてではなく、「ユダの獅子」として描いている。
 今回の10章〜11章14節にもダニエル書の影響を見ることができる(ヨハネ黙示録11章1〜2節→ダニエル書8章9〜14節/同11章31節/同12章11節)。 〔ボウカム『ヨハネ黙示録の神学』168頁〕。 ダニエル書7章13節の「人の子姿」は、新約聖書の「人の子」像へ受け継がれているから(マタイ24章30節/同26章64節/マルコ13章26節/ルカ21章27節/ヨハネ黙示録1章7節/同14章14節)、ヨハネ黙示録14章14節の「人の子姿」にもダニエル書の「人の子姿」が反映している (ヨハネ黙示録1章13節参照)。*2 筆者(私市)の見るところでは、ダニエル書7章13節の「人の子姿」は、オリエントの普遍的な「神」(エロヒ−ム)に対して、イスラエルの先祖の「主」であるヤハウェ自身の姿を象徴するものであり、ヨハネ黙示録の今回の強大な天使も「ヤハウェ自身に近い御使い」であろうと思う。ここにも、特別な聖なる御使い=ヤハウェ=「日の老いたる者(神ご自身)の同一性を見ることができよう。
■巻物
 ヨハネ黙示録10章で、「巻物」を「食べる」ことは、エゼキエル書2章8〜9節と同3章1節から出ている。*3 巻物はヨハネ黙示録5章1節(原語「ビブリオン」)にもでてきて、これを「開く」のは「ユダ族の獅子」であり、「ダビデのひこばえ(子孫)」である。5章の巻物の記事には、玉座に近い小羊とこれへの賛美を伴うから、10章の巻物(原語「ビブラリディオン」)とは、用語だけでなく内容的にも異なるようにも見える。5章の巻物は、ヨハネ黙示録6章1節〜8章5節の内容、すなわち、第一の封印から第六の封印までの出来事を指しており、10章の巻物は、11章1節〜13節だけをその内容とするという説もある。〔『新共同訳:新約聖書注解』(U)日本基督教団出版局512頁〕。 しかしながら、10章の巻物は、<少なくても>第七のラッパで始まる11章から16章までの「七つの怒りの鉢」をその内容とする。作者ヨハネは、同類の二つの異なる用語を同一の意味で用いる場合がある。5章の巻物は、10章の巻物では、「すでに開かれて」(10章2節)いて、そこでは、5章〜9章の内容がいっそう深められて語られている。 *4すでに見たとおり、玉座とキリストと小羊と強大な天使との間には、共通する親近性を見ることができるから、5章と10章の二つの巻物は、やはり「同一の巻物」と見るべきであろう。*5
 10章の天使と、彼が作者ヨハネに与える「食べる巻物」は、地上の圧政者による王権の「苦い」味がする。巻物の内容は、11章〜16章で語られる「七つの怒りの鉢」による「裁き」である。10章の天使と巻物は、直接に玉座の神それ自体の啓示ではないが、第七のラッパに始まる「(神の)裁き」もまた、「神の秘義が成就する良い知らせ(=福音)」(10章7節)であるから、10章の天使と巻物も、やはり「キリスト論的に」*6解釈すべきであろう(ヨハネ黙示録10章10〜11節)。
■玉座の臨在
 では、「巻物を開くにふさわしい資格(権威)を具えた方」である「ユダの獅子」(5章5節)、すわち小羊キリストが「開く」(実現する)その内容とはどのようなものであろう。 それは、イエス・キリストの「十字架から(天地の)新創造へいたる」人類の歴史全体への展望である。その歴史は、神が発する言葉を告げる「詔勅」によって施行され、「終末性=目的性」を帯びていて、その歴史は、「贖い」と「裁き」の二面性を具えている。 すでに見たとおり、荒れ野でイスラエルの民に与えられた「玉座の臨在」は、主に背いたために死ぬ者の少なくない中で、ヤハウェに忠実な民を「護り保護する」ものであった。今回も、「二人の証人」と「深い闇の深淵」から出てきた獣との闘いの中で、「死ぬ」者と「生き残る」人たちが居る(11章13節)。
 ヨハネ黙示録5章の「屠(ほふ)られた小羊」という「救いの逆説/背理(irony)」は、10章では、天から降る「強力な天使」が頭に頂く「虹」(希望の約束)と、その足の「火の柱}(裁き)とで象徴される。この天使は、右足を海に、左足を陸に置いていて(10章1節)、「希望の約束」と「裁き」とをもたらす。彼は、玉座から降るキリストであり、地上の権力者たちを支配するだけでなく、その彼らの支配下におかれた「多くの民族、国民、言語の違う諸民」(10章11節)をも支配する至高権を具えている。
■七雷の声
 ヨハネ黙示録4章1節には、「天からの声/響き」があり、それは、10章4節の「天からの声」へ通じる。10章では、その声は、キリストを象徴する強大な天使「ユダの獅子」(アモス3章7〜8節)が発する「七雷の声」となる。 ところが、10章の「七雷の声」は、「秘められて書きとどめられない」(10章4節)。したがって、「七雷の声」の内容は、知らされることがない。ヨハネ黙示録6章の「七つの封印」、8〜9章の「七つのラッパ」、16章の「七つの鉢」、これら三組みの七シリーズは、過去・現在・未来を含む終末的目的性を帯びる中で、「並行して(同時に?)」生じる出来事だと見なすことができる。そうだとすれば、秘められた「七雷の声」の内容も、三つの七シリーズと(同時的に?)並行して、さらに四つ目のシリーズとして、「七つの出来事」が起こることを示唆していることになろう。*7
 「七雷の出来事」は、秘められてはいるが、「裁き」をもたらすと推察できる。しかし、この四つ目のシリーズとしての「七雷」は、これまでの単なる「裁き」の繰り返しではなく、「神の秘義が成就する良い知らせ」(10章7節)であり、「敵への勝利」を宣告するものである。出エジプト記9章では、ほぼ並行して起こった「五つの災い」(疫病/腫れ物/雹/雷/炎)が、イスラエルの民に、エジプトの王権からの脱出をもたらした。激しい雷鳴は、危ういイスラエルを強い敵の手から救い、勝利をもたらす(サムエル記上7章10節)。雷鳴の大音響は、暴虐に苦しむアリエル(エルサレム)をその敵の手から救う(イザヤ書29章5〜6節)。雷鳴は、暴虐の王権への「裁き」を伴いつつも(サムエル記上12章17〜19節では、雷鳴が地上の王権への警告)、「新たに獲得したキリストの至高権」による暴虐からの救いこそ、ヨハネ黙示録の「七雷」が象徴する出来事であろう(4章5節/6章1節/とりわけ19章6〜7節に注目)。「秘められている」のは、それが何時かは隠されているからである。
■秘義の成就と遅延
 ヨハネ黙示録10章5〜7節は重要である。10章5〜7節の背後には、ダニエル書7章25〜27節と同12章2〜4節があるのは間違いない。*8ダニエル書では、「第四の獣」(=第四の王国)が、「全地を食らい噛み砕く」。玉座に逆らい、玉座の聖なる民を迫害する。しかし、獣には「裁きが降り」、その支配権は「至高の方の聖なる民」に奪われる。苦難を経た忠実な民には、「永遠の命」が授与され、義人は星のように輝く。ダニエルでは「秘密にして封印せよ」と命じられたこの預言が、作者ヨハネには、「成就する」事態として啓示されている。ヨハネ黙示録10章5〜7節では、救い主に近い天使が、「全宇宙を創造した神」に誓って、「神の秘義」が「福音として成就する」のに「時の遅れ(遅延)がない」と宣言する。しかも、その成就は「第七のラッパ」と関連する。
 すでに見たとおり、七つの雷は、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢の災いと並行するものの、その内容は秘められている。しかし、七雷が、悔い改めを知らない者や(9章21節)、懲りない権力(王たち)(10章11節)への「裁き」と、同時に、これと並行する主に忠実な聖なる民への「救いの喜び」という表裏一体の二面性を帯びていることは察しがつこう。諸国民・諸民族の「悔い改め」を待つ期間と、懲りない反逆者への「裁き」と、忠実な民への「救い」と、これらが一つになるところに「神の秘義」が姿を顕わす。その秘義が成就するまでにもはや「遅延はない」。しかし、その秘義とはどういう事態なのか? その成就は何時なのか? これは、まだ明かされない。
        

*1 Beale. The Book of Revelation.520--21.
*2 Beale. The Book of Revelation.524.
*3 Beale. The Book of Revelation.522--23.
*4 Beale. The Book of Revelation.530--32.
*5 Beale. The Book of Revelation.527.
*6 Beale. The Book of Revelation.524.
*7 Beale. The Book of Revelation.534--35.
*8 Beale. The Book of Revelation.534./R.H. Charles. The Revelation of St. John. Vol.1. International Critical Commntary.263.
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