エス様は、なぜキリストなのか?
       コイノニア東京集会:
      2020年11月14日
 
はじめに
 イエス様のことを「イエス・キリスト」と言いますが、これは名前と名字ではありません。「キリスト」とは「救い主」のことですから、「救い主イエス」という意味です。いったい、イエス様はなぜ、「救い主」と呼ばれるのでしょうか? 
 イエス様は、今から約2千年ほど前、現在のパレスチナのナザレという小さな村でお生まれになりました。このイエス様に「神様御自身がお宿りになった」というのが、キリスト教の信仰です。イエス様に「神様御自身が宿った」と言えば、皆さんは、疑問を感じるかもしれません。
(1)なぜ、一人の人間だけに、神様がお宿りになったのか?
(2)「神様が宿る」というのは、そもそもどういう意味なのか?
こんな疑問です。そこで、先ず(1)の疑問からお答えします。
■人間への啓示
 17世紀のイギリスに、アイザック・ニュートンという物理学者が居ました。この人は、宇宙に「重力」が働いていることを発見した人です。重力は、宇宙を動かしている力の一つですから、天の河銀河系からわたしたちの人体の細胞にいたるまで、あらゆる物に働いています。「重力は二つの質量の距離の二乗に反比例する」(Gmm’/r2)というのが、万有引力の法則と呼ばれるものです。この数式は、数字で表わした人間の「言葉」です。ニュートンという「一人の人」が考え出した言葉ですが、その「言葉」(法則)は、宇宙全体を支配しますから、ニュートンが居なくなっても、人類が居なくなっても、地球がなくなっても、変わりません。20世紀のアインシュタインは、相対性原理という法則を発見しました。<E=mc2>というこの言葉は永遠に変わりません。
 ところで、新約聖書のヨハネ福音書の1章3節には、宇宙を創造した神の「ロゴス/ことば」が万象を作り出し、この言葉がすべてのものを成り立たせているとあります。ヨハネ福音書は、この「御言葉」が、ナザレのイエス様に宿ったと証ししています。だから、イエス様は、「たとえ天地が過ぎ去っても、わたしの言葉は滅びない」と言われました。自然科学の宇宙の真理が一人の人間の言葉として与えられていて、しかも、そういう人が何人もいます。それなのに、神様のお言葉が、イエス様という一人の人に啓示されて、イエス様はその言葉をお語りになった。このことが、どうして不自然なのですか? ありえないのですか? 私は、神様のお言葉が、イエス様という一人の人間に啓示されたとしても、少しも不思議でないと思っています。
■旧約聖書の民と神
 では(2)のイエス様に神がお宿りになったというのは、どういうことでしょうか? ニュートンにせよ、アインシュタインにせよ、自分一人だけで真理の言葉に到達したのではありません。彼ら以前に、多くの科学者たちが、それぞれに科学の言葉で語ってきました。二人の成功は、そういう大勢の学者たちの言葉を受け継いでいます。同じように、イエス様の御言葉も、イエス様お一人が突然考え出したものではありません。それまでに、実に多くの預言者たち、知恵者たち、聖者たちが、それぞれに神から与えられた御言葉を語ってきました。これらを集めたのが旧約聖書です。イエス様の御言葉は、この旧約聖書を受け継いで初めて生まれたものです。
 人間は、必ずどこかの国の民族に属しますから、イエス様は「イスラエル」と呼ばれるユダヤ人の一人です。ユダヤ人の旧約聖書は、およそ紀元前7世紀の南王国ユダのヨシア王の頃から、王室の文書としてまとまり始めました。人類が文字を使い始めたのは、早くても紀元前3000年頃からですから、旧約聖書が書かれ始めたのは、文字の発明から2300年後のことになります。旧約聖書には、それ以前からの人類の知恵が受け継がれているのです。
■神の「ことば」の出来事
 釈迦は悟りにいたる「教え」を説きました(前6世紀〜前5世紀頃)。孔子は天道に基づく君子の道を教えました(前551年〜前479年)。ソクラテスは「考える」ことを教えました(前5世紀)。第二イザヤは「預言」しました(前6世紀前半)。では、イエス様は何をされたのでしょうか?
 私は、ニュートンは万有引力の法則を見出したと言いました。アインシュタインも相対性原理を見出しました。ソクラテスは「考える」方法を教えました。孔子は君子の道を教えました。だから、これらの人たちの語った言葉は、「法則」であり「原理」であり「考える論理」であり、君子のあるべき「行ない方」です。ところが、第二イザヤは、後の時代には、神によって、ある「出来事が起こる」と預言したのです。彼が預言したのは、「教訓や法則」ではありません。神によって起こる「出来事」のことです。その「出来事」とは何か?ニュートンもアインシュタインも、普遍の「原理・理由」を教えてくれますが、では、理論あるいは孔子が教える教訓を成り立たせ、創り出しているその「力」、ヘブライ語の「エール=神」、これを語ってはくれません。あらゆる物事を<成り立たせ、働かせている根源のお方>とはなにか?これを科学は教えてくれません。 出来事を出来事たらしめているそのお方(エール)は、これを「知る」ことを「知恵」と言います。その知恵は、どこからくるのか?どのように与えられるのか?万象を成り立たせているこの知恵が人に与えられることを「啓示」と言います。その啓示を悟ることを「信じる」と言います。人にその啓示を与え、信じさせてくださるお働きを「恩寵」と言います。イザヤが預言したのは、こういう「恩寵の出来事」です。
 イエス様は、このイザヤが預言したことを成就されました。だから、イエス様の御言葉は、イエス様の「教え」ではありません(それもありますが)。イエス様の道徳的な振舞い方でもありません(それもありますが)。そうではなく、イエス様の御言葉とは、「イエス様という出来事」なのです。ここでは、「言(こと)」は「事(こと)」です。その出来事とは何か? すべての物事を「成り立たせている」その大本(おおもと)のお方ご自身が、イエス様という人間を通じて、私たち人間に啓示されるという恩寵の出来事です。 では、イエス様のなさったことのどの部分なのか? イエス様というお方が来られた出来事全部です。だから、これは、それまでの人類に示されていた宗教的な「教え」とは決定的に違うところです。ここでは、宗教は「教え」ではありません。天地を作られた神御自身が、ナザレのイエス様にお宿りになるという不思議が、「起こった出来事」だからです(これを「受肉」(じゅにく)と言います。
 今の日本で、お釈迦さんの誕生日(4月8日)を知らない人がいるかもしれませんが、イエス・キリストの生まれたクリスマス(12月25日)を知らない人は、いないのではないでしょうか。だから、日本では、仏教はキリスト教よりも劣っていると思いますか。事実は逆で、仏教のほうが、キリスト教よりも、はるかに尊ばれています。それなのに、なぜ、クリスマスなのか? お釈迦さんの誕生日は、仏教の教えとは、それほど関係が無いからです。しかし、クリスマスはそうではない。イエス様の生まれた「出来事が起こった時」だからです。イエス様の場合は、その出来事が大事なのです。
■出来事の語り方
 では、イエス様の出来事は、どのように語ればいいのでしょうか?次に、このことを考えてみましょう。
【過去の宗教との関連】「あなたは双子座の生まれだから、ああだ、こうだ」と、星座に関連づけるのは神話的な見方です。家を建てるときにも東北は鬼門だと言うのも神話的です。現在の日本には、おみくじ、星占い、いろいろなお祭りなど古代から伝わる様々な神話的な儀礼がたくさんあります。かつてのキリスト教徒は、古代の神話的な儀礼や風習を守る人たちに対して、例えば、アメリカのインディアンを滅ぼしたり、カナダのインディアンやオーストラリアのアボリジニの子供たちを「親の異教から」救うという名目で、子供を親から取り上げて、いわゆる「キリスト教」の教育を受けさせたことがあります。これに対して、アイルランドの守護聖人と仰がれる聖パトリックは、当時のケルトの人たちにキリスト教を伝えるにあたって、ケルトの文化や芸能を大事に保存させました。だから、今でもアイルランドには古代の歌や芸術が受け継がれています。そもそも、現在のわたしたちが営む「宗教」も、時が経てば「時代遅れの儀礼」だと見なされるようになります。だから、それら古代からの遺跡や遺品は、人類の遺産として大事に保存されなければなりません。
愛とはそういうものです。
【人種的な差別】物事を歴史的に見るのは大事ですが、疫病はユダヤ人がもたらしたと見なしたり、奴隷として連れてきた黒人への白人至上主義のキリスト教の差別などの弊害があります。関東大震災での火事は韓国人が原因だ。福島の原発事故の被害者への差別や偏見などの弊害も生じています。
【自然科学的な見方】また、あなたは、何年の何月何日の生まれで、身長と体重は、両親は、あなたのDNAは、などの自然科学的(医学的)な見方があります。これも大事な見方ですが、コロナにかかった人への偏見や身体障害者への差別があります。また、ハイテクの発達は、ハイテク犯罪をもたらしたり、国同士を競争によって互いに離反させる弊害があります。
【神のお言葉として】第四の語り方として、出来事を天地を創造された神が語る「ことば」として観る方法があります。この場合、「こと」は、事(こと)でもあり言(こと)にもなります。聖書の語り方がこれです。聖書にも神話(楽園の堕)や歴史があり、七民抹消(申命記7章1〜2節)などの恐ろしい差別的な出来事が記されています。ノアの洪水や出エジプト等の歴史もあります。だから、出来事は、神話的(mythological)にも、歴史的(historical)にも、自然科学的(scientific)にも、聖書的(Biblical)にも語ることができます。神話的、歴史的、科学的のどれも人類に昔から具わる大事な見方ですから、それなりに大切にしなければなりませんが、そこには、今述べたいろいろな欠陥もあります。それらの欠陥を克服するためにも、新約聖書のように、神の言葉として、イエス様の出来事を語ることが大事です。
■イエス様の出来事
 神は、ご自身を啓示されたイエス様を十字架において死にいたらしめることで、人類のあらゆる罪を担い赦すという驚くべき不思議な業(出来事)を成し遂げられました。ここで大事なのは、「この」出来事が、イエス様の十字架の恩恵というものすごい力となって働くことです。神話にせよ、歴史にせよ、科学にせよ、人間の物事への見方は、どれも偏見と謬りを避けられません。しかし、イエス様の神は、それらの罪をことごとく「赦す」ことで、それらに潜む弊害を取り除くという不思議な力を働かせてくださるのです。これをイエス様の「恩寵」(おんちょう)と言います。十字架から復活されたイエス様の聖霊による贖いのお力が働く時、それは不思議な力となり愛となって人々を動かします。日本でも、このナザレのイエス様の出来事は、この国の悪の働きに打ち勝つことができる恩恵の力を発揮します。これが、ナザレのイエス様の恩寵と受肉の福音です。クリスチャンは、どうか、「こういう」イエス様を一人でも多く日本の人に伝えてください。
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