福音七講(2)
人力の功罪と十字架の恩恵
東京コイノニア会(2021年1月)
■「自然」は善いか悪いか?
これからお話しすることは、実例を挙げるときりがありません。それで、実例はできるだけ省いて、骨組みだけをお話しします。実例は、皆さんが、それぞれご自分で見つけてください。
【自然のままの人間】私は、食べたい、飲みたい、眠りたいと思います。これは体の「自然な」欲求です。しかし、いくら自然な欲求でも、その欲するままに食べたり飲んだりしていたら、きっと体をこわします。私は、自分の「自然な」欲求をコントロールしなければ、体の健康を保つことができません。
人間関係ではどうでしょうか?私たちには、親子、友人、職場の同僚など、いろいろな人間関係があります。親が子を愛するのは「自然」です。しかし、親と子が、絶対に離れられないほど密着してしまうと、これは正常とは言えない。異常です。「不自然」です。男同士、女同士でも、お互いが離れられないほど密着してしまうと、これは正常とは言えません。このように、人間にとって最も「自然な」関係でさえも、それが自然だからといって、どこまでもその関係を延長していくと、あるところから不自然なものへ転じる、こういうことが分かります。
英語の「ナチュラル」には、「自然な」、「当然の/当たり前の」とか、「生まれつき」の意味があります。もしも、友人同士が、あいつは俺の友達なんだ。だから、自分に親切なのは「あたりまえだ」。こう考える人がいれば、その「あたりまえ」は、逆に二人の関係を危うくします。「あたりまえ」ではない、それは「ありがたい」こと、文字どおりに「有り・難い」ことだ、こう思っていなければ、二人の関係は長続きしません。
【共生と<強>争】わたしたちは、よく「自然」は美しくて善いものだと聞かされます。しかし、よく考えてみると「自然」は、「美しくて善い」だけではない。「醜く恐ろしい」姿を見せることがあります。日本は、地震と台風の国です。この二つは、日本の国土の景色の美しいことと、季節の変わり目とに深くかかわっています。生命は、それ自体で「美しく善い」ものだと言われます。植物も動物も、それぞれ活かし活かされるという不思議な関係で「共生」しています。しかし、共生と同時に、「食うか食われるか」という激しい生存「強争」が行なわれているのも事実です。共に生きる「共生」と、殺し合う「強争」とが表裏をなしているのが「自然の姿」です。自然は美しいけれども、恐ろしいのです。
■自然による犠牲
自然世界では、ある種の生物が生存するために、他の種の生物がその犠牲になることが多いです。何百万年か前、アフリカは緑豊かな大地でした。その森には、たくさんのお猿さんたちが暮らしていました。ところが、おそらく気候変動などで木の実が不足したからでしょう、弱い猿たちは、強い猿たちによって、森の木から地上に追い落とされてしまった。このために、弱い猿たちは、自分たちを狙う野獣のうろつく地上で生きなければならなくなりました。彼らは、生き延びるために、2本足で立って歩くことを始めたのです。これが、二足歩行の「猿人」の始まりで、そこから人類の進化が始まりました。弱い者が犠牲になり、強い者が生き残るのかと思ったら、事実はその逆で、結果として強かった猿よりも、弱かった猿人のほうが、繁栄する結果になったのです。自然が起こす「犠牲」の過程は実に不思議です。
このように、「自然のまま」の人間も、「善くて悪い」という困った性質を持っています。これは、人間が神に対して「罪を犯した」からだと聖書にあります。なぜ「罪」なのかと言えば、自然なままの人間は、「他者を犠牲する」からです。人類(ホモ・サピエンス)には大きな欠陥(罪性)が潜んでいます。だから、聖書は、人類の罪を「霊力」と「知力」と「権力」の三つの面から指摘しています。
■霊力の功罪
人による暴力の犠牲は、家族でも、部族でも、民族でも、その集団が、平和でうまくいっているときには生じません。ところが、地震や台風などの天災や戦争や疫病など、何か大きな災厄が生じると、これに伴って、人間の集団が「共生から競/強争に」転じます。だから、人の暴力と犠牲は、人間だけに原因があるのではありません。自然環境の変動や歴史的な大事件など、人の手の届かないところから、災厄が人間の世界を襲う。こういうことが原因で、人間同士の暴力による迫害が起こり、犠牲を生み出すことになります。このため日本でも、昔から、たたりや呪いや災厄を防ぐいろいろな禁止事項(タブー)があります。人の運命を左右する力が働くとして、占星術は今も盛んに行われています。京都では、北東の方角を鬼門と称して、そこに寺院を配置しています。
創世記6章1〜6節には、天地を創造した神に仕えている天使たちが、神に反逆して地上に降り、人間の女性と交わって、恐ろしい霊力を持つ者たちを生んだとあります。いわゆる「悪霊が働く」と、通常では考えられない力に動かされる人たちが出現して、地上で暴虐を働くのです。紀元前2世紀〜後1世紀頃のユダヤ教の黙示文学では、こういう悪霊に動かされる人間が、天文学(占星術)やその他あらゆる科学的な技術を用いて、悪霊の支配を実現しようとする姿が描かれています。新約聖書では、そういう悪霊どもの頭を「サタン」(敵対する者)と呼んでいます。霊的に見ると、人間は天使と悪魔が表裏一体になった存在です。人間がコントロールできない力に動かされて暴虐を働くのが「サタンの働き」です。
■知力の功罪
人類は動物に勝る知力を具えています。猫と人間とが出会うと、互いに相手が、「猫だ」、あるいは「人間だ」と分かります。猫も人間もこのレベルでは同じです。次に、猫は人間に警戒心を抱きます。人間は、猫を観て、相手が自分に警戒心を抱いていると見抜きます。ところが、猫のほうは、自分が警戒心を抱いていることが、相手の人間に悟られているかどうか、これを判断することができるでしょうか? 猫にはこれが難しいようです。このために、人間の仕掛けた罠にかかって殺されたりします。ゴリラやチンパンジーなどの類人猿は、猫よりもさらに一歩を進めて、かなりの程度まで人間の顔色を読むことができます。だから、類人猿は、現在の人間の子供と同じほどの知力があります。しかし、人間は、猫が自分に警戒心を抱いているそのことを、自分(人間のほう)が知っているというそのことに、相手の猫は気づいるかどうか、人間はこのことさえも見抜きます。猫のほうは、とてもそこまで洞察することができません。これが、人間同士だとどうでしょうか?互いに出会って、相手を判断する。そして相手の判断を互いに読み合う。読み合うそのことをも、さらに読み取り合う。こうして、二重、三重に、相手の出方を読み取ろうとします。頭のいい人なら、四重くらいまで洞察できます。そういう人の頭脳には、引き出しが四つあるわけです。これが、動物ににはない人間の知力です。
聖書の創世記には、神が人間をお造りになった時に、人間と神とは互いに深い信頼と交わりで結ばれていたとあります(創世記1章26〜30節)。ところが、神は人間に「神の園の知恵の樹」に触れてはいけない。これに触れると人間は死ぬと警告します。ところが、人間は、その知力を働かせて神の言葉をこう考えます。「神が、知恵の樹に触れるなと言うのは、これに触れると人間が神の知恵を持つようになるからにちがいない。」さらにこう考えた。「神は、知恵の樹を食べると人間が神の知恵を持つことを人間のほうが悟るにちがいない。そのことをも神は見抜いているにちがいない。」さらにこう考えた。「だから、神は、『食べると死ぬ』と人間を脅して、食べさせないようにしているのだ。」そこで、さらにこう結論します。「あの知恵の樹から食べても人間が死ぬことがない。」こう考えて、人間は、その知力を働かせて神に反逆し、知恵の実を食べたのです。このために、人間は、神との交わりを失うことなりました。こうして人間は、神がせっかく与えてくださった「神の霊」が与える生命(創世記2章7節)を失うことになったのです。その結果、人間は、あるがままの自然な状態で、すなわち「裸のまま」で生きることができなくなった。人は己の知力で神に対して犯した罪によって、絶滅の危険に追い込まれたようです。そこで人は初めて、己の知力が犯した罪に気づいて、神の前に赦しを求めると、神は、動物を「犠牲にして」その毛皮を着るように人間を導いてくださったとあります(創世記2章25節/同3章21節)。地上の生物で、衣服を着るのは人間だけです。
■権力の功罪
人間が罪を犯した結果は、神と人間との交わりが断絶しただけで終わらず、人間同士が、相互に疑心を抱き合い、殺し合うようになります。「三人寄れば文殊の知恵」と言いますが、「三人寄ればボスが生まれる」ことも多いのです。それは人が、「自分を神と同じに見なして」、人を裁いて、人を支配しようとするからです。人が集まることで国が生まれ、国ができると誰かが王になり、その王が国の全員を支配しようとします。従わない者は、強制的に服従させられるか、排除されるか、殺されます。これが、「権力の暴力」です。権力の暴力は、これに従わない者、逆らう者を「犠牲にする」ことで成り立っています。誰かがボスになると、そのボスの言うことを聞かない者をみんなで苦しめる。こういう「集団の暴力と犠牲」の構造は、学校でのいじめでも、家庭内暴力でも、職場のセクハラやパワハラでも、民族内の仲間外しでも、国家や民族同士の差別争いでも共通します。これが、犠牲を求める「権力の罪」です。
権力の罪の典型が、聖書の出エジプト記1章に出ています。土地を持たないヘブライの民が、エジプトの王権によって奴隷にされ、その圧政に苦しみます。神はモーセを遣わして、ヘブライの民を解放するよう王に迫りますが、王は頑なに拒否します。するとエジプトに様々な天災が生じます。ついに、王国の存続を危うくする「死」が、その国を襲います。しかし、ヘブライの民は、エジプトを襲う「死」から免れるために、家族ごとに家畜を「過越の小羊」として神に捧げ、その血を家の鴨居に塗ることで、死を免れたとあります(出エジプト記12章21〜28節)。小羊の犠牲を自分たちの罪の身代わりに捧げることで、権力の罪がもたらす「死」の働きから免れることができたのです。
権力に宿るこのような暴力の罪は、20世紀に幾度も起こりました。現在でも姿を変えて続いています。平和だと言われる国々でも、政治に携わる人たちが、自国の民の貧しい者、弱い者、苦しむ者を助ける代わりに逆に食いものにして私利私欲を肥やしたり、法の網の目を利用して、罪のない人や正しい人を罠にかけて、悪者に見せかけて迫害する。こういうことが行われています。今の日本も例外ではありません。自分の国を権力の罪から救おうとする人のことを「憂国の士」と言います。現在の日本は、この憂国の士を必要としています。イエス様の聖霊を宿す為政者は、こういう罪を犯しません。日本の為政者にお願いしたい。どうか、イエス様を信じて、憂国の士となり、民を幸せにする為政者になってください。
以上、人間に具わる「霊力」と「知力」と「権力」の三つ罪を見てきました。これらを総称して、人間の「原罪」(the original Sin)と呼びます。言うまでもなく、人の霊力も知力も共同体の権力も、人間にとってきわめて大事なものです。しかし、そこには、善いものを悪くする原罪が潜んでいるのです。
■暴力と供儀
人類は、一つには様々な災厄から免れるために、また一つには自分の罪によって犠牲にされた者たちへの償いのために、神々や神に犠牲を捧げてきました。犠牲は人類の宗教と深くかかわっています。人類の宗教的な行為には、先祖を敬う祖霊崇拝があります。こうして人類は、様々なやり方で、犠牲を捧げる祭儀、すなわち「供犠(くぎ/きょうぎ)」を行なってきました。人類の宗教の歴史を振り返ると、供犠が盛んに行なわれた時代は、東洋では、仏教以前のインドのバラモン教の時代です。ところが、釈迦が殺生を禁じたので、供犠が行なわれなくなりました(前4世紀頃)。西洋では、ユダヤ教において供犠がさかんに行なわれました。しかしキリスト教になって供犠は廃止されました(1世紀)〔佐藤敏夫「言葉の宗教とサクラメントの宗教」『日本の神学』38号(1999年)〕。
暴力が働くときには、これに身を任せる人と、これを止めようとする人が現われます。しかし、なかなか暴力を止めることができません。なぜなら暴力は、逆らう相手にも暴力を呼び起こすからです。暴力には、必ずこれをまねする「模倣」が働くからです。人の血が流されるなら、これへの復讐のために殺人者の血を流すしかありません。
ところが、ここで不思議なことがあります。それは、ある部族から他の部族へ殺人の暴力が振るわれた場合、そこから生じる際限のない復讐を避けるために、加害者の側の部族から、殺人犯とは関係のない「無実で浄い人」が選ばれて、その人が、部族の代表として、部族の犯した罪への「いけにえ」になって、自分の身を供犠として捧げると、これによって、暴力への復讐の循環が止むことです。このように、無実な者が身を捧げるという「宗教的な供犠」は、まるで奇跡のように一切の暴力を停止させるのです。
昔台湾に、首狩り族が居て、暴虐を止めることができませんでした。あるとき、彼らに尊敬されている人が、「そんなに暴力を止(や)めることができないのなら、明日、赤い頭巾をかぶり赤い衣を着た人が通るから、その者の首を取りなさい」と言います。翌日、言われた通りに赤い頭巾と衣をまとった人が通ったので、その人の首を取ると、それは彼らが尊敬する人の首でした。それから、この部族は首狩りを止めたと言われています。
このように、罪のない人の供犠に向けられる暴力は、「罪のない者に自分たちの罪を着せる」という最も凶悪な側面と、「暴力の加害者と被害者の相互の暴力を停止させる」という最も恩恵的な側面と、二つの特長を具えています。聖書のイエス様の十字架の福音は、新しい犠牲を呼ぶことのない暴力の「最後の犠牲者」によって、「暴力それ自体から」平和を呼び出すという、神からの<超自然で神秘な働き>です。この供犠は、共同体の内部の暴力を止めさせ、国家を統一し、国と国との間に平和を創り出します。
■イエス様の十字架
【十字架の出来事】イエス様は、紀元前4年頃に、ユダヤのガリラヤ地方にあるナザレ村で生まれて、紀元後28年頃から宣教を始めました。しかし、ほぼ2年半の後に、同じユダヤ人の指導層から厳しい非難を受けて罪人の汚名を着せられ、紀元30年頃の春に、ユダヤの首都エルサレムで十字架刑に処せられました。その日は金曜日で、イエス様は33歳くらいだったと考えられています。この出来事のために、十字架が、キリスト教の象徴になりました。イエス様の出来事は、<神によって生じた霊的な出来事>です。
【十字架の意義】 第一に、イエス様の十字架は、人間ではなく、神御自身がイエス様に宿られ、「神の御子」とされたイエス様によって起こされた出来事です。
第二に、イエス様は、完全に無実な方であるにもかかわらず、人を犠牲にすることなく、逆にご自分が人間の犠牲になることで、人の罪の赦しのための供犠(くぎ)となられました。
第三に、イエス様の死は、十字架では終わらず、その死から復活することで、イエス様を十字架につけた人間をも赦して救うことです。
こうして、イエス様の十字架は、神がその御栄光を顕す出来事になりました。
【聖霊の出来事】キリスト教は、ナザレのイエス様を通じて神御自身が啓示されたことを伝える宗教です。天地をお創りになった神が、イエス様を通して啓示される時に働く霊を「聖霊」と言います。この啓示は、預言者によって予め預言されていました。ところが、預言者たちも予想できなかったことが、イエス様において啓示されました。イエス様の十字架の出来事の結果、イエス様の復活が生じて、その聖霊が、罪の人間に降り、これまで人間が取り除くことができなかった人間の原罪さえも取り除かれるという驚くべき事態が生じたのです。だからこの啓示は、「人の目がまだ見たことがなく、人の耳がまだ聞いたことがなく、人の心に思い浮かぶこともなかった」出来事です(第一コリント2章9節)。どうして、こんなすごいことが起こったのか? 考えられる理由は二つあります。
一つは、わたしたち人間に潜む「罪の闇」は、それほど深く恐ろしいものだからです。人間の原罪が、どんなに深く重いかを推し量ることはできません。だから、わたしたち人間が、自分の力でどうこうできる罪ではないのです。だからこそ、神御自身が「人となって、人を救う」ほかに道がなかったのです。
もう一つは、そんなにも重く深い人間の罪でも、神の聖霊のお働きは、人の罪を遙かに上回る御力を発揮して、人の罪の深さを圧倒する御力て、罪のただ中にいる人間を覆い尽くして働いてくださることです。これを十字架による「贖(あがな)い」と言います。人の力でどうにもならない罪の力と、その罪の力を逆手にとり、これを逆転させる神の赦しの絶大な恩恵、このふたつこそ、十字架にかかられて己を犠牲として捧げられたイエス様を通じて働く聖霊の力なのです。「神は、その独り子を賜うほど、この世を愛してくださった。それは御子イエスを信じる者が、一人も滅びることなく、御子によって救われるためである」(ヨハネ3章16節)とあるとおりです。
ここで、わたしたちが注意し警戒したいことが三つあります。
(1)わたしたちは罪深い。だから、「罪を反省しなさい」「罪を自覚しなさい」と言いながら、自分と他人を批判したり非難したり、厳しく裁き合うことです。こういう「相互批判と自己卑下」に陥ると、神経衰弱ならぬ「信仰衰弱」になります。
(2)今度は逆に、聖霊のお働きを受けて舞い上がり、自分には神様が憑(つ)いていると思い込んで、うぬぼれて他人を見下す「霊的傲慢」に陥ることです。
(3)「自己卑下」と「霊的傲慢」に陥らないために、己を責めず己におごらず、ただイエス様の恩寵にお委ねる心を失わないでください。これによって、自分の罪を「赦して浄める」御霊のお働きを受けることができます。「自分はイエス様のためなら命も捨てる」と豪語するペトロに、イエス様は「あなたは三度わたしを否定する」と警告されました(ヨハネ13章36〜38節)。その上で、三度罪を犯したペトロに向かって、イエス様が「あなたはわたしを愛するか?」と三度お尋ねになったのは、このためです(ヨハネ福音書21章)。
わたしたちは、イエス様の十字架を通して降る聖霊のお働きに、ただ身をお委ねするだけです。なんにもしない。何にも言わない。ただイエス様の御名を唱えて祈る、それだけです。あとは、御霊の御臨在に任せるだけです。この「信仰に始まり信仰に終わる」生き方は、子供でもできますが、頭で生きようとする利口者には難しいです。こういう福音理解は、イエス様の復活以後に、罪赦されて聖霊の働きを受けた使徒パウロを通じて明らかにされました。 聖霊のお導きに従うこの歩みを「恩寵の霊操」と呼びます。
■ダヴィンチの「最後の晩餐」
レオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐は、修道院の食堂の壁に描かれました。その食堂では、ダヴィンチが描いた最後の晩餐の反対側の壁に、十字架につけられたキリストの画がすでに描かれていたのです。だから、十字架にかかる直前の最後の晩餐は、十字架のキリストと向かい合っていたことになります。最後の晩餐の中心にいるイエス・キリストは、両手を広げてテーブルの上に手を載せるようにしていますが、このキリストの姿は、実は、レオナルドが、以前見ていた、教会の天井にある復活のイエスの姿をモデルにしています。この復活のキリストは、両手を広げていて、その手のひらには、釘跡が描かれています。レオナルドは、このキリストの姿を最後の晩餐の中心においたのです。だから、わたしたちは、キリストの広げた手の上に十字架の釘跡を想像することができます。このように見ると、この絵には、ダヴィンチの不思議な構想が見えてきます。最後の晩餐は、十字架の直前のイエスと弟子たちとの交わりの場面です。ところが、この絵は、同時に、十字架の直後の復活のキリストと弟子たちとの聖餐の場面でもあることに気がつくのです。十字架を挟んで、その前の最後の晩餐が、十字架の後での復活のキリストと弟子たちの交わりだと分かるのです。
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