福音七講(3)
この世で活きる永遠の生命
コイノニア東京集会(2018年9月13日
■「生まれ変わる」こと
 日本語の「生まれ変わり」には二つの意味があります。ある少年がダライ・ラマの「生まれ変わり」だと言えば、その少年がダライ・ラマと「同じ」であることを意味します。二人は、輪廻転生によって、同一視されているからです。けれども、「彼は自堕落な生活から生まれ変わった」と言えば、その人が、それまでとは「違う」人間になったことを指します。「生まれ変わり」が、同じと違いという正反対の意味になるその分かれ目はどこにあるのでしょうか? それは、「生まれ変わり」が、本人が地上で生きている間に生じるかどうかにあります。人が死んだ後で生じる「生まれ変わり」は、「輪廻転生」や「往生極楽」など、人の死後にその同じ人に、同じような命が生じることです。ところが、まだ生きている間に「生まれ変わる」のは、それまでとは異なる性質の命に「変わる」ことなのです。
 新約聖書で言う「生まれ変わり」は、それまでと異なる状態に変容することです。だから、これは、現在わたしたちが地上で生きている間に起こることです。カトリック教会では、これを「新たな創造の生まれ」〔カトリック典礼「主の洗礼」2016年1月10日号〕と訳しています。ある人が、この世にいる間に「生まれ変わる」というのは、通常は、道徳的な意味です。ところが、新約聖書が言うのは、この世にあって起こる「生まれ変わり」でありながら、その生命が、そのまま、「いつまでもなくならない」命として(ヨハネ4章14節)、肉体の死後も継続することなのです。この地上で生きている間に「生まれ変わり」が起こり、しかも、それが、永遠の命につながるのです。だから、聖書が言う「生まれ変わり」では、その人の「この地上での生き方」が、きわめて大事な意味を帯びてきます。
■三種類の生き方
 宇宙を造り、大自然を造られた神は霊です(創世記1章1節)。神の霊は「命の霊」です。命の神は、生物を造り、最後に人を造られて、人に神の命の霊を息吹しました。ところが、人が罪を犯したために、神からの霊の命を失った。自分が生きている人は、人を活かそうとします。人が人を殺すのは、殺す側の人に神の命が働かないからです。自分が「死んでいる」から人を殺すのです。だから、神は、イエス・キリストをお遣わしくださって、人を「新たに生まれ変わらせる」出来事を生じさせました。この「生まれ変わり」の命のことを、聖書では「復活の命」と言います。これに対して、自然の状態にある人は、動物や植物と同じで、花が枯れても再び芽が出て同じ花を咲かせるように、死んで、その子孫を遺します。これを「再生の命」と言います。ところで、この世で生まれ変わって、いつまでもなくならない命、そんな命があるのか? 皆さんは、こう思うのではないでしょうか。 ところが、最近では、人工知能(AI)を使って、ある人の脳を完全に再現できれば、その人の意識や記憶をネット上やロボットに移すことが可能なります。人は肉体から切り離されて、「バーチャルな存在になる」(松尾氏)のです。人間の「意識」を肉体から切り離せばその意識は「永遠の命」を手に入れる(?)ことにもなります。21世紀の現在、人間は、「永遠に生きる」方法を科学技術で作り出そうとしているのです。
 だから、21世紀の現在、人類には三種類の生き方が与えられていることになります。
(1)再生による自然な命(natural life)。
(2)科学技術による人工の命(artificial life)。
(3)聖書が与える永遠の命(Biblical life)。
 この三つです。この中には、仏教の言う死後の「浄土の命」は含まれていません。なぜなら、今わたしがお話ししているのは、「この世に生きている間の命」のことだからです。今日お集まりの皆さんは、「今の自分の生き方」について、どれをお選びになりますか。
よみがえり信仰の起源
 では、聖書が与える「永遠の命」は、どのようにして生じるのでしょう。次にこのことをお話しします。
 永遠の命は、他の動植物ではなく、人間だけに与えられるものです。なぜでしょうか? わたしたち人間は、「二足歩行」の生物ですから「立ち上がって歩く」ことができます。ヘブライ語の「クゥム」には、「立ち上がる」「生き返る」「再興する」「よみがえる」、それに「復活する」の意味があります。イエス様が、病気で死んだ乙女の手を取って、「タリタ、クゥム」(娘さん、起きなさい)と言うと、その子は生き返りました。人は、二本足で立つから、倒れても倒れても、起き上がろうとする。2本足で起き上がろうとするのは人間だけですが、倒されても、なお起き上がって生き続けようとするのは、どんな生き物にも共通する生命の原理です。しかし、人間は、霊的にも、幾度でも起き上がって何時までも生き続けたい。こう望むのです。霊的な意味での「起き上がり」です。 永遠の命は、このように、二足歩行の人間だけに啓示され、与えられています。
 2011年3月11日、東日本を襲った地震とこれに伴う津波の大震災は、これに遭遇した人たちの霊性に大きな影響を及ぼしました。その一つに、石巻市のタクシードライバーたちが見た「幽霊現象」があります〔東北学院大学金菱清ゼミナール編『呼び覚まされる霊性の震災学』新曜社(2016年):第1章「死者たちが通う街」工藤優花1〜23頁〕。彼らの多くの体験談から二つだけを紹介します。
(1)震災の翌年の8月頃、タクシーが駅で待機していると、季節外れの厚手のコートを着た20代ほどの男性が乗ってきた。目的地を尋ねると、真っ直ぐ前を指さした。もう一度尋ねると「日和山」と言うので、そこまで走り、到着すると男性はいなかった(41歳男性ドライバー)
(2)2013年の8月の深夜、タクシーが巡回していると、季節外れの冬支度の小学生くらいの女の子が手をあげた。深夜なので不審に思い、「お父さん、お母さんは?」と尋ねると、「ひとりぼっちなの」と返事をした。家の場所を尋ねてそこへ着いた時「おじちゃん、ありがとう」と言うなり姿を消した(49歳男性ドライバー)。
 これらの事例は、タクシーの乗車記録が残っていますから、ドライバーの架空の思いこみではありません。その通りのことが起こったのです。石巻は、昔から共同体意識が強く、これらのタクシードライバーたちも、長年街に住んで、街の様子を熟知していて、自分も共同体のメンバーであることを自覚している人たちです。だから、これらのドライバーたちは、出逢った人たちを「幽霊」と呼んで恐れるのではなく、畏敬の念を抱いています。出逢った人たちは、自分たちに代わって犠牲になった人たちだという想いが強いからでしょう。作家の高橋源一郎氏は、これらのタクシードライバーたちは、単に「死者を追悼する」ことではなく、「死者と共に生きている」と述べています。
 長い人類の歴史の中では、今あげた例と同じような体験や事例が、数限りなく繰り返されてきました。これからも起こるでしょう。死者を追悼するだけでなく「死者と共に生きる」というこの霊性の有り様に、わたしたちは、人類が共通して抱く「死者のよみがえり」信仰の源泉を見出すのです。この「死者のよみがえり」信仰は、宗教する人(ホモ・レリギオースゥス)としての現生人類(ホモ・サピエンス)において、初めて明確な形を採ることになります。 
■聖書の復活信仰の成り立ち
 旧約聖書では、「命の神」の御臨在に護られて、「いついつまでも」この地上で生き続ける喜びが語られています(詩編16篇8〜11節)。しかし、ヘブライの生命観では、「いのち」は、地上の時間から超越した「永遠性」ではなく、むしろ、日本人の「幾久しく」「とこしえまでも」のように、「終わりがない命」のことです。だから、古代日本の縄文時代の生命観に通じるところがあります。縄文の文様には、命が魔物から護られていつまでも続くよう、様々な紋様が土器に刻まれています。
 「復活」信仰は、ユダヤ黙示思想の中で生まれたと言われます。「復活」"resurrection"というのは、ギリシア・ローマなどヘレニズム世界で言う動植物の「再生」"regeneration"のことではありません。あるいは、肉体に対照する霊魂の「不滅」"immortality"とも異なります。旧約聖書では、復活信仰の初期の預言として、ホセア6章1〜3節があります。
   二日の後、主は我々を生かし
   三日目に、立ち上がらせてくださる。
   我々は生きる。
     (ホセア6章2節)
 預言者ホセアは、アッシリアの侵攻によって絶滅の危機に瀕した北王国イスラエルの民が、自分たちの罪を悔いてヤハウェに救いを求めるなら、ヤハウェは、憐れみをもって再び「立ち上がらせる」と預言したのです。これはイスラエルの民全体の「よみがえり」のことです。
 エゼキエルは、戦場で倒れた人たちの「枯れた骨」のヴィジョンを見て、これらに向かって「主の言葉を聞け」と命令します。すると、骨が組み合わされて、筋と肉がこれを包んで人間の「かたち」ができます(エゼキエル書37章7〜8節)。再び語ると「霊が四方から吹いてきて」人の姿形になって、生き返ります。
 第二イザヤの「死者の生き返り」信仰は、人類の「死者のよみがえり」信仰をもう一歩進めています。これは、新バビロニア帝国によるユダヤの滅亡とこれに続く捕囚という、「民族の死」に相当する厳しい歴史的な危機から生じた「生き返り」です。
 主なる神の声。
「あなたの死者たちは生きる。
   わたしの屍(しかばね)は起き上がる。」
 ユダの民の歌。
「目覚めよ!喜び歌え。塵に伏す者たちよ。
    あなたの露こそ光の露。
    あなたはそれを死霊の地に注ぐ。」
        (イザヤ書26章19節)
 イスラエルとユダの民が捕囚にされる前後に、北王国と南王国を併せて、多数の人たちが殉教しました。神の律法を遵守しようとした多くの「義人」たちが殉教しました。これらの死者たちのことを神は「わたしの屍(しかばね)」と呼んでおられるのです。石巻のドライバーたちのように、生き残ってエルサレムへ帰還することを赦された民は、神が「わたしの屍」と呼ばれたこれらの人たちもまた、「生き残った」自分たちと一緒に「生きて帰還している」ことを様々に実体験したのでしょう。
 第二イザヤ書では、さらに、死にいたるまで主に従うことで、自らを犠牲として捧げ、これによって、贖いと癒しの力を民に与える「主の僕」が現れます。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ書53章12節)とあります。だから、主から降る「光(命)の露」とあるように、こういう人が、再び地上に戻ることは、身体の復活と同じではなく、「霊体として」民の間に生き返ることなのです。こういう「よみがえりの命」は、「神と共にある」ことで初めて達成される「命」ですから、逆に、暴虐者たちは、命から「断たれて」死の罰を受けます。ここで言う「生き返る」には、身体的なよみがえり以上に、「霊的」な意義がこめられています。
 ダニエル書12章2節には、
    多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
   ある者は永遠の生命に入り
   ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
とあります。ここは、聖書で言う「永遠の命」が、ギリシア語として初めてでてくるところです。ただし、ここでは、「今の時代(アイオーン)」と、今の時代に続く「次の時代の命」をはっきり区別しています。
 第二マカバイ記の7章には、「復活信仰」が語られています。7名の兄弟が母親と共に捕らえられ、律法で禁じられている豚肉を口にするよう暴君から強制されます。これを拒んだ兄弟たちが、一人ずつ拷問を受けて殉教します。母親は、これに最期まで耐えて、自らも死んでいきます。
 邪悪な王よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとするが、
 世界の王は、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる。
 我々は彼の律法のために死ぬのだから。
         (第二マカバイ7章9節)
 たとえ人の手で死にわたされようとも
 神が再び立ち上がらせてくださるから
   この希望をこそ選ぶべきである。
 だが、あなたはよみがえって再び命を得ることがない。
          (同14節)
 ここでの復活は、殉教者たちが正しく無実であることの「身の証し」です。注意してほしいのは、第二マカバイ記では、「(たとえ拷問で手や舌を失っても)天からこの舌や手を再びいただけると確信する」(7章11節)とあるように、復活が「身体的な」姿で生じることです。創造主である神は、その創造の業を滅ぼそうとする王たちの企てにもかかわらず、<再創造>するという信仰をここに読み取ることができます。ただし、殉教に伴う「身の証し」が立てられるのは、神の民に与えられる「神の慈悲/憐れみ」によるものです。
■イエス様の「復活」
 「イエス様の御復活」については、以下の三つの点を確認してください。
(1)イエス様の復活信仰は、旧約聖書の時代からイエス様にいたるまでのイスラエルの「復活」信仰を受け継いでいます。しかし、イエス様の復活と、新約聖書が伝える「永遠の命」は、それまでのユダヤ教が言う意味とは異なるところがあります。それまでのユダヤ教では、「メシアはまだ到来していません」。だから、メシアが到来して新しい時代が始まる時に初めて、現在自分たちが生きている地上の生活と「全く同じ状態が」、来たるべき新しい時代に再現する。これが、旧来のユダヤ教の信仰です。
 これに対して、新約聖書は、イエス様が、メシア(キリスト)として「すでに到来」されたことを伝えています。だから、イエス様の到来によって、新しい時代(アイオーン)が「すでに始まっている」のです。言い換えると、終末は、「すでに開始」されています。だから、現在、わたしたちは、今の時代(アイオーン)と来たるべき時代とが、「重なり合う」時代に生きていることになります。しかし、やがては、この時代が終末を迎えて、新たな時代が到来し、その時に初めて、わたしたちの永遠の命が完成されます。ユダヤ教では、復活も永遠の命も来たるべき時代も、これから起こる未来のことですが、新約聖書では、イエス様の到来によって、イエス様の復活と永遠の命は、新たな時代(アイオーン)の「開始」によって、「現在において」すでに働き始めているのです。
(2)弟子たちがイエス様の復活を信じることができたのは、イエス様が、十字架の死後に、多くの弟子たちに、幾度も顕現されたことから生じました。弟子たちは、イエス様の復活を示す様々の顕現体験に接して、イエス様が、かつて第二イザヤが預言していた「主の僕」であること、人類の罪を担って犠牲となり、その死を通じて復活し、これによって初めて、人類の罪を贖い、人類を救う力が神から与えられる「受難の主の僕」であることを悟ったのです。弟子たちは、このことを復活したイエス様の聖霊の息吹を受けるという聖霊体験を通じて悟りました。だから、イエス様の復活とその永遠の命は、旧約聖書に証しされた過去の預言に基づきますが、その預言を超える不思議な「イエス様個人」の復活が起こり、そのイエス様から降る聖霊の働きこそが永遠の命なのです。このイエス様の出来事は、過去の預言に根ざした出来事でありながら、現在もなお進行中であり、しかも終末において完成するのですから、イエス様の復活と永遠の命は、過去と現在と未来をつなぐ不思議な時間構造で成り立っています。 新約聖書の復活と永遠の命は、この世とあの世の世界が存在していて、死んだらこの世からあの世へ移される、という輪廻転生や解脱の信仰とは異なっています。大事なのは、あの世へ行けるかどうかではない。イエス様の御復活と、これによって証しされた永遠の命を、わたしたちが、「今のこの世で」どのように生きるかということなのです。
(3)福音の本質は、かつて起こった出来事、「ナザレのイエス様の復活」にあります。福音のすべてが、この出来事に含まれていると言ってもいいです。では、イエス様の復活の出来事は、「現在のわたしたち」と、どのようにかかわるのでしょうか? 聖書を学ぶ、イエス様の御言葉を聴く、イエス様のことについて調べる、どれも大事です。けれども、かつて地上で生きられたナザレのイエス様の霊性に働く人格的な命、これが、イエス様の御復活によって、「現在も働いておられる」イエス様となって、わたしたち一人一人に語りかけてくださる。わたしたち一人一人が、イエス様のお姿を宿す。こういう不思議が生じることです。これが新約聖書が伝えるわたしたちへの福音です。
 このために必要なことは、ただ、イエス様の話を聞くだけでない。わたしたちがイエス様の<真似をする>ことでもありません。そうではなく、イエス様の呼びかけを信じて、「イエス様の御名」によって「聖霊の命の宿り」を祈り求めることです。 これによって、わたしたち一人一人が、ナザレのイエス様からの御霊のお働きを受けて、そのお姿に「生まれ変わる/変容する」、こういう不思議が、その祈る人に起こります。「主の御名を呼び求める人は、必ず救われます」(ローマ10章13節)。これが、イエス様の出来事のほんとうの働きです。わたしたち一人一人に、「イエス様ご自身が顕れて宿られる」のです。聖書が伝える「永遠の命」は、このように、イエス・キリストの啓示から来る「救済史」の出来事と呼ばれています。この救済史は、神の「摂理(せつり)」と呼ばれるお働きによって成り立っています。しかし、この救済史の出来事は、これを人類学的な視野から見るならば、従来のホモ・サピエンス(英知の人)が、新たな「霊の人」(ホモ・スピリトゥス)とされることで、人類が進化し変貌するという過程をそこに見ることを可能にするものです。
■まとめ
 イエス様の御復活をまとめると次のようになります。
(1)イエス様の<人格的霊性>を現わすものとして<イエス様のからだ>の復活があること。
   私は、このイエス様の「お体の復活」を、単純に、「イエス様だと分かる姿」のことだと理解(?)しています。
(2)ナザレのイエス様という実在する歴史上の<個人の復活>であること。
(3)復活は歴史的に<すでに起こった出来事>であること。
 次にイエス様の復活信仰は、新約聖書において、次のように発展します。
(1)復活が、イエス様の「からだ」の復活から「霊のからだ」の復活の御姿として啓示されます。
(2)
復活が、個人の復活から、エクレシアという共同体の復活へ広がります。
(3)
復活が、すでに起こったイエス様の出来事から、人類の終末に、イエス様を信じるすべての人に成就することへ移行します。
■人類の霊性の進化
 神が人類に賜わった「イエス様の出来事」というこの啓示は、人類の霊性の進化を現わすものです。宇宙が存在するようになってから、およそ145億年、太陽系と地球が存在するようになってからおよそ46億年、地球に本格的な生命体である多細胞生物が出現してから約6億年、チンパンジーのような類人猿から、二足歩行の猿人へ進化してからおよそ700万年、先祖を弔うことを知っていたネアンデルタール人が「宗教する人」(ホモ・レリギオーサス)となってからおよそ50万年、「ホモ・サピエンス」と呼ばれる現在のわたしたち「最新型の人間」が出現してからほぼ20万年、そして、パレスチナにイエス様が誕生して、永遠の命を啓示されてからほぼ二千年が経過しています。
 新約聖書が伝える<いついつまでも続く永遠の命>とは、これだけの長い時間を経過して、神がわたしたち人類に賜わった救済史であり、それはまた、人類学的に見れば、「生命の進化の証し」でもあります。自然人類学と文化人類学が証しする通り、事ここにいたるまでの間に、動植物全体の地球上の生命は、絶滅寸前に追い込まれるという危機体験を繰り返してきました。生命の進化は、生命の危機と常に表裏一体で、この事情は現在でも変わりません。ナザレのイエス様がもたらした「永遠の命」は、生命の長い苦難の末に人類に啓示された貴重な出来事なのです。それだけに、現在わたしたちに与えられている「永遠の命」の啓示は、厳しい試練の後にようやく与えられた最も新しく、最も貴重な賜物です。
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