「霊の人」と「永遠の今」
コイノニア東京集会
(2021年11月10日
 
 これは、聖書が語る「わたしたちクリスチャンの復活」についてです。私の解釈は、現在行なっている共観福音書講話と注釈から学んだことですが、これをさらに霊的に深めているヨハネ福音書から学んだことが大きいです。それに、今までの異言などの聖霊体験が加わります。以下では、私の見方を二つに分けて説明します。
■人格的霊性の復活
 聖書は、人を「霊魂」と「身体」とに分けません。人を「霊魂」と「身体」に分けると、人の身体はなくなっても、人の霊魂は別人となって生まれ変わることだと誤解される恐れがあります。輪廻転生なら、別の人、別の生き物になるのかもしれませんが、聖書が伝える「復活」は、イエス様のガリラヤ湖畔での顕現です(ヨハネ21章1節〜14節)。エマオ途上の二人の弟子へのイエス様の顕現をこれに加えてもいいでしょう(ルカ24章13〜31節)。
 現在の福音主義の神学は、人間を「身体」と「霊魂」(ギリシア語の「プシュケー」)と、これに働く神の「聖霊」の三つに分けて見ているようです。これは、19世紀以降の心理学(psychology)から出ている見方で、「霊魂」(プシュケー)を「身体」から区別します。私の見方は、「人間」を「身体」と「心」と「人の霊」とに三分します。その上で、「人の心も体も霊性も」その全体が、「聖霊」の働く場であると見るのです。この見方は、現代の心理学の前身である「心霊学」(pneumatology)に近いです。ここでは、人の「心身をともに」動かす「霊性」(spirituality)が重視されます。
 イエス様の復活は、「霊のからだ」を具えていますから、「これはイエス様だ」と識別できる姿形(すがたかたち)をしています。その姿形が、「イエス様固有の人格」を顕しているからです。新約聖書は、私たちもまた、イエス様と同じ復活の様態へと「変容(メタモルフェー)する」と証言しています。これが、私の想い描く「復活」の有り様です。人には、それぞれ固有の「人格体」が具わっていますから、「自己」は、国家や家族や先祖の単なる一部ではありません。逆に、先祖のほうが、今の自分に宿っていると言うほうが正しいです。「自己」のほうこそ先祖の証しですから、自分の生き方を大事にすることこそ、先祖を大切にし、先祖を敬う道です。 だから、過去から未来にいたる全人類は、それぞれの人が死を迎えると、その人固有の「姿形を具えた人格体」が永遠に定まり、終末の裁きに面することになります。ダンテの『神曲』では、人が死ぬと、ある者は地獄へ、ある者は天国へ、ある者はその中間の煉獄(ここは、この世における人の霊性のことでしょうか)へと様々に分かれます。しかも、地獄では、その人が死んだ時のままの姿で刑罰を受けながら、終末を待っています。私の解釈もこれに近いです。
■「永遠の今」を生きる
 私が強調したいのは、「霊の体」は、すでに「今この世で」、神の御霊によって形成されつつあることです。これも聖書が証ししていることで、終末は現在と切り離せません。
 
全宇宙が滅び去った後に新天新地が訪れるという神学が一般的ですが、私は、現在の全宇宙が無くなっても、そこからまた<新たな宇宙が>誕生すると考えています。だから、私は、現在の宇宙の有り様から超絶している抽象的な意味でのいわゆる「絶対の永遠」を考えていません。そもそも、旧新約聖書で言う「永遠」は、日本語の「幾久しく」のように、「いつまでも続く」という素朴な「永遠」だからです。神様の宇宙は、現在の宇宙の時代(アイオーン)から、別の時代(アイオーン)の宇宙へと「幾久しく」続くと考えられます。だから、聖書の言う「終末」と「新天新地」は、一つの「時代」(アイオーン)が終わって、また新たなアイオーンが始まる、その区切りのことだと見ることができましょう。
 過去、現在、未来にわたる人類は、個人の死のその時に、その人の霊性が、その人固有の姿形を帯びた様態として「永遠に」確定されます。しかし、個人の死から終末の全人類の甦りまでの間に介在する「時間的な差異」については、この世の「時間・空間」が通用しない世界のことですから、私たちが死んでから終末までの時間が、現実にどのような様態なのか? 私には思い描くことができません。では、神からの霊的な時間体験を、私たちはどのように「実体験する」のか? これを聖餐を例にとってお話しします。
 私たちがいただく聖餐は、「最後の晩餐」という過去の場で、イエス様が弟子たちに授与された「イエス様の体と命(血)」を表わしています。これを私たちは、「現在の場」で拝受します。しかも、今わたしたちがいただくイエス様の「体と命」は、復活した神の御子の御霊のお働きを伴うものです。イエス様の御霊のお働きは、これからも終末まで絶えることなく続きます。だから、聖餐のパンとぶどう酒を通じて、私たちは、過去のナザレのイエス様を現在において拝受し、そのイエス様の「霊体」は、わたしたちにおいて、まだ完成しておらず、終末の再臨まで続くことになります(ヨハネ6章54節)。聖餐にあって、「時間」は、過去(最後の晩餐)と未来(終末の再臨)とが、現在(聖餐を受ける私たち)において一つになるのです。このように、聖餐にあって、わたしたちは、「永遠を現在の場で」生きるのです。
 以上、「霊の人」について延べ、次に、「永遠の今」について説明しました。「霊の人」と「永遠の今」のこの関係は、三位一体の~観に根ざすものです。私は、「ホモ・スピリトゥス」(霊の人)を「神の救済史」と「人類の進化」と、その両方にまたがる視野で見ています。この両方を同一視することはできませんが、霊の人(ホモ・スピリトゥス)が、今後どのような展開を見せるにせよ、この二つの領域が相互に関わり合うことになるでしょう。
【付記】 2021年9月の研究会で、主催の水垣渉氏から送付された文書は、京都大学と龍谷大学の教授であった武藤一雄氏の「キリスト教における死生観」(龍谷大学『龍谷哲学論集』第6号:1990年6月)です。これは、武藤教授が、NHKのラジオで放送された原稿に基づいています。この講話の(1)〜(2)で、教授は、キリスト教の救いとは、「死を克服したいのちとして、よみがえりのいのち」であり、しかも、それは「いわゆる霊魂の不滅といったような思想・信仰と次元を異にする」と述べています。これは、「ギリシア思想と根源的に起源を異にする」ものであり、「人間をあくまで心身の体(からだ)としてとらえている」とし、パウロが言う、「霊のからだ(ひらがな強調付き)」とは、「われわれの現身(うつしみ)の 肉体がそのままの形でよみがえるのとは異なり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえることである。霊のからだの、厳然たる実在性を(パウロは)確信している」と述べています。パウロは、「御子を自己のうちに啓示される」ことで、同時に、「キリストの肉にあって新たに生きる者となった」と教授は説明します。この事態は、「他の宗教との比較を絶する」ものです。教授は、さらに、ヨハネ福音書の「父と子の一体性」を指摘して、「人間の宗教的自覚・霊的覚醒は、われわれの肉体的誕生より以前に、神から生まれた者」として、「人は真に個性的な人格、<神の像>となる」と語っています。
                     福音七講へ