(2)三位一体の形成と神観
           
 「三位一体」は、ギリシア語では「聖三位一体」(ハギア・トリアダ > Gr. Trias から)で、ラテン語は"Trinitas" で、英語は "Trinity" です。三位一体の神観が、キリスト教会において正式の信条となるのは、ローマ皇帝コンスタンティヌスの時で、皇帝が、首都をローマからコンスタンティノポリス(現在のトルコのイスタンブール)に移して、その近くのニカイアで、皇帝臨席の下で開かれたニカイア教会会議(325年)においてです。
 人類の宗教は、どれもそうですが、キリスト教も、古代から長い歴史的な過程を経て形成されてきました。イエス・キリストの啓示を頂点として、旧約時代から新約時代にわたるユダヤ=キリスト教の歴史は、神からの「啓示」の救済史です。三位一体の神学は、新約聖書の解釈から始まって、2世紀から4世紀まで、延々と続く論争の末に、ローマ皇帝が臨席する第一回ニカイア教会会議で、その基本が決まりました(325年)。しかし、三位一体論争は、それ以後も、信条の厳密な解釈をめぐって続けられました。キリスト教の三位一体の「正統性」(orthodoxy)は、2世紀以降から、なんと500年もかかって、「すったもんだのすえに」ようやく確立しました。だからこそ、三位一体は「貴重だ」とも言えますが、同時に、そこには、私たちクリスチャンが眉をひそめるような醜悪な「宗教する人」同士の異端争いも見えてきます。
■三位一体の神観
【父なる神】三位一体の父なる神とは、旧新約聖書が語る「神」のことです。だから、これは「イエス様の父なる神」です。ユダヤ教では「父祖アブラハム」という言い方はしますが、「父なる神」(アラム語とギリシア語「アッバ・ホ・パテル」)(マルコ14章31節)という言い方は、イエス様以外にほとんど例がありません。旧約聖書の神「ヤハウェ」が、ほんらい多神教とどのような関係にあったかは、よく分かりません。創世記3章24節の「ケルビーム(複数形)」と、イザヤ書6章2節の「セラフィーム(複数形)」は、ほんらいは「風の神々」と「火の神々」であったのが、ヤハウェ神に支配されて、「ヤハウェのみ使い(天使)たち」になったのかもしれません。また詩編82篇1節/6節には、神々が集う「天の宮廷」があって、ヤハウェは、神々が集うその会議の最高神です。
  創世記1章で「始めに神が天地を創造された」とあるのは、言うまでもなく「唯一神」です。ここは、祭司資料編集者たちによるものですから、捕囚期に書かれました。創世記2章15節では「ヤハウェ神」です。神のお名前が、初めて啓示されるのは、モーセに「ヤハウェ」(私は居る)のみ名が啓示された時からです(前1300年頃)。だから、十戒に、(イスラエルの周囲では、いろいろな部族の神々が拝まれているけれども)、「<あなた(イスラエル)にとっては、>わたしのほかに神がない」とあります。私は、イスラエルの民に「実質的に」一神教が啓示されたのは、前2000〜前1800年頃の父祖アブラハムの時ではないかと思っています(創世記12章1節)。しかし、イスラエルの民は、カナンに入ってから、その土地の農耕の神々(偶像)を拝むようになりました。この状況で、ヤハウェだけがイスラエルの神であることを厳しく説いたのは預言者サムエルです(サムエル記上2章2節)。イスラエルの神が、一神教から唯(ゆい)一神教へ移行するのは、イザヤ書40章以降の第二イザヤの頃からです(イザヤ書40章18〜26節/同43章10〜11節を参照)。第二イザヤは、捕囚期の後半(前570年頃)以降です。
 ところで、ユダヤ教では、「ヤハウェ」と神を名前で呼ぶのが畏れ多いので、聖書の「ヤハウェ」を「主」(ヘブライ語「アドナイ」)と読み替えました。「主」(カナンでは「バアル」)は、ヘブライ語・アラビア語・アラム語・ギリシア語などで、それぞれに広範囲な意味を秘めています。これが、「主イエス・キリスト」という呼び方に受け継がれます。
【御子イエス】三位一体の第二の位格(ペルソナ)である御子とは、新約聖書で、とりわけ四福音書が語るイエス様のことです。イエス様について最も重要なのは、ヨハネ1章14節の「受肉」です。イエス様は、神が「語りかける」(働きかける)御言葉「ロゴス」が、「肉体を具えた人間」と成られた方です。神と神ご自身が語る御言葉は一体ですから、御子は御父と一体です(ヨハネ10章30節)。エイレナエオスのたとえを借りれば、「太陽とこれが発する光とが同一であるように」御父と御子とは同一です。なお、御子については、コロサイ1章15〜20節の讃歌をお読みください。
 イエス様が、一人の「人間」であることは、共観福音書では自明のことです。しかし、ヨハネ福音書になると事情が少し変わってきます。神のロゴスが受肉したイエス様とは、いったい「人間」なのか? こういう疑問を抱く人たちが出てきたからです。ここから、後に「グノーシス」と呼ばれる異端が現れて、「人間イエス」と、その人に宿った「神の霊」とは、同一でないという解釈が生じることになります。こういう異端を「反キリスト」として厳しく批判したのが第一ヨハネ2章18〜27節です。イエス様について語り出すときりがありませんから、これ以上は控えます。
【聖霊】聖霊とは、神が、復活されたイエス様を通じて、わたしたちに注いでくださる「イエス・キリストの御霊」のことです。旧約聖書では、神からの霊のことを「聖なる霊」とは言いますが(詩編51篇1節/知恵の書1章5節/ダニエル書4章5節など)、「聖霊」とは言いません。聖霊とイエス様との関係について、御子は、「処女マリアの胎内にある時から」聖霊が宿っていたとする解釈と(マタイ1章18節/ルカ1章35節)、御子イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に「聖霊が鳩のように」イエス様に降ったという解釈とがあります(マタイ3章16〜17節/ルカ3章22節)。東方正教会ではイエス様の受洗を重視し、西方ローマ・カトリックのラテンの教会では、マリアの胎内での宿りのほうを重視する傾向があります。6世紀末に、スペインのトレドで開かれた教会会議の時に、「聖霊が、御父と、そして御子とを通して降る」と書かれた信条を西方教会が「御父子(フィリオクエ)を通して」と書き換えたために、東西の教会が分裂したことはよく知られています。
 ところで、聖霊は「母」であるという見方があります。外典の「ヘブル人による福音書」(2世紀前半/ギリシア語)の断片(6)には、「今わたしの母なる聖霊がわたしをとらえ、わたしを大いなるタボル山に連れて行った」〔『聖書外典偽典』(6)川村輝典訳(教文館)62頁〕とあります。イエス様が「このわたしが、父のみもとからあなたがたに遣わすパラクレートス(助ける者/慰める者)が来る時」(ヨハネ15章26節)と言われた「パラクレートス」(慰める者)」は、イザヤ書66章13節の「母がその子を慰めるように私はあなたがたを慰める」を受けていると言われています〔E・モルトマン=ヴェンデル/J・モルトマン著『女の語る神・男の語る神』内藤道雄訳(新教出版社)76頁〕。何よりも、ヨハネ福音書の「ロゴス」には、ヘブライの女性名詞「ソフィア」(智慧)伝承が流れこんでいます〔C・G・ユング著『心理学と宗教』村本詔司訳/人文書院358〜360頁〕。「この方(イエス)が何か言いつけたなら、必ず、その通りにしてください」(ヨハネ2章5節)とあるイエスの母の言葉こそ、聖霊の御言葉です。この意味で、地上にあって聖霊を宿す「エクレシア」は、古くから「母なる教会」と呼ばれました。かつて、小諸の川口愛子先生が、聖霊は「母」ではないか、と言っておられたのを想い出します。
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