1章 釈迦の生涯
■釈迦と同時代の苦行者たち
 釈迦に入る前に、彼と同時代の苦行者たちについて触れてみたい〔エリアーデ『世界宗教史』(1)85~94頁より〕。前6世紀頃のインドでは、バラモンの伝統に忠実な者たちばかりではなく、釈迦を含めて、様々なタイプの「異端者」たちがいた。苦行者、遍歴の修行者、ヨーガの行者、呪術師、弁証家たちなどである。ある者は輪廻を成り立たせる業(カルマ)を克服しようと極端な苦行に励み、ある者はヨーガのエクスタシーを追求した。極度の抽象的な思考に走る者、極端なニヒリズムや唯物思想を抱く者たちもいた。苦行を積んで前世を想い出そうとしたり、世界の無限性を認める者がいるかと思えば、世界にはなんの原因も存在しないと考える者や、全ては不可解だとする不可知論者もいた。
 釈迦と対立した者たちの中に、特に、ほぼ同時代のマスカリン・ゴーサーラ(前540年?~前468年?)がいる。ゴーサーラは、ジャイナ教のマハーヴィーラ(偉大な英雄)の弟子である。ジャイナ教は、マハーヴィーラによって知られるが、実際は、彼に先立つ250年ほど前のパールシュヴァをその始祖とするらしい〔前掲書88~89頁〕。マハーヴィーラの本名はヴァルダマーナで、彼も釈迦と同じく王子として生まれ、30歳で出家し、苦行を積んでから、パールシュヴァの伝統から離れて、さらに苦行と瞑想を続け、サーラの樹下で「全能の力」を獲得したと伝えられる。彼は、釈迦と同じく、ガンジス平原のマガダ、アンガ、ヴィディア地方を游行して教えを説いた。
 マハーヴィーラの生涯も釈迦のそれと同様に神話化され、ジャイナ教の聖典が成立したのは前4世紀~前3世紀である。その体系は、「数」によって支配されていて(古代ギリシアのピュタゴラス教団に類似する?)、3種の意識、5種の知識、7種の原理、5種の肉体、6種の色、8種の業体、14の精神段階などがある。神々は不死ではないが否定もされない。しかし唯一神は存在しない。宇宙は永遠のサイクルを繰り返し、解脱(げだつ)した魂を除くなら、全ては業(カルマ)に支配されている。解脱は、極端な禁欲によって、物質との接触を断つことで達成されるが、解脱を目指すのは僧侶や尼だけである。動植物だけでなく、地・水・火・大気にも霊魂が宿ると信じるから、修行者は、あらゆる生命を慈しみ、極度に殺生を禁じられる。真実を述べ、何も所有せず、何も獲得せず、純潔を守る。マハーヴィーラの没後には、14000人の僧侶と36000人の尼がいたという。現在も300万ほどのジャイナ教徒がいるようだ〔『岩波仏教辞典』376頁〕。
 ゴーサーラは、このマハーヴィーラの弟子である。彼は強力な呪術師であり、彼の師マハーヴィーラとの呪術試合の後で、その呪いの結果没したと言われている。ゴーサーラは人間の一切の努力を否定する宿命論者である。人の堕落には原因も動機もない。存在は原因も動機もなしに純化される。生物を含むあらゆる存在には意志も力もない。一切は、それ自身がおかれた状況に関わる運命と偶然に支配されている。だから、ゴーサーラは、一般的な業(カルマ)も否定し、最後には、何の努力もなしに解脱が生じるとする。釈迦は、彼の極端な宿命論を危険視して、これを厳しく批判したから、仏典では「ニガンダ・ナーダプッタ」(ニガンダ教派のナータ族の出家者)として知られ、釈迦に逆らう「六師外道」の一人に数えられている。
■釈迦の名前と出生
 釈迦の姓は「ゴータマ」、名は「シッダールタ」である。父はシュッドーダナ、母はマーヤーで、シッダールタはその長男であった。生没は前463~前383年(前5~4世紀)とあるが〔中村元『ブッダのことば』岩波文庫(1991年)437頁〕、前567/8~前487年という説もあり〔エリアーデ『世界宗教史』(2)74頁〕、前624~前544年(前7~6世紀)など三つの説がある〔『岩波仏教辞典』376~77頁〕。これで見ると、釈迦は80歳の生涯だったことになる。
 釈迦は、現在のネパール南部で、インドとの国境に近いカピラヴァストゥの東側のルンビニーで生まれたと伝えられる。ゴーダマ家はシャーキャ部族に属しており、父シュッドーダナは、カピラヴァストゥ城の城主であったから、彼はシャーキャ族全体を率いる部族の長(おさ)であり、小王国の王だったのだろう。このためにシッダールタは、後に「シャーキャ族から出たムニ〔苦行者/聖者〕」を意味する「シャーキャムニ」「釈迦牟尼」(しゃかむに)と称されるようになり、これが略されて漢語で「釈迦」あるいは「釈尊」と呼ばれるようになった。悟りを啓いて「覚者」(ブッダ/仏陀)となってからは、「ゴータマ・ブッダ」と称されている〔中村元『ブッダのことば』433頁以下〕。
 多くの仏教の解説では、「ゴータマ・ブッダ」(ゴータマ家から出た覚者)という呼称が用いられているが、「ブッダ」は悟りを啓いた修行者を指すから、釈迦一人のことではない。彼以前にも彼と同時代にも、それ以後にも「ブッダ」が幾人もいたことになる。「シャーキャ・ムニ」はシャーキャ族から出た苦行僧を指すが、日本では通常「釈迦」あるいは「お釈迦さん」と言えば、「ゴータマ・ブッダ」のことである。仏教信者なら「釈尊」と呼ぶであろうが、歴史的な一人の人物を指す場合は「釈迦」のほうが適切ではないかと思うから、この呼び方を用いることにする。
■釈迦の生涯
 釈迦の生涯を概観すると次のようになろう〔『岩波仏教辞典』377頁〕〔エリアーデ『世界宗教史』(2)74~84頁〕。釈迦は、生後7日で生母を失い、叔母のマハープラジャーパティに養育された。16歳で二人の王女と結婚、伝承では妃の名は「ヤショーダラー」と「ゴーパー」である。13年後にヤショーダラーとの間に男子ラーフラを設けた。息子を生むというインドの習慣を果たすと、彼は29歳で宮殿を出る決心をする。伝承によれば、老いと病と死の三つの免れがたい人の苦の姿を知って出家を決意したと言う。彼は、馬丁のチャンダカを呼び、町中が眠っている間に東南の門から出て、数十キロ行った所で馬を止め、髪を切り、チャンダカと馬を宮殿に帰した。
 彼は、シャーキャ族の家名である「ゴータマ」という名前で苦行者となり、バラモンの師匠アーラーダ・カーラーマという修行者のもとで、前古典的なサーンキヤ学派の教えを受けるが、その理論を直ちに会得した。伝承では、彼はアーラーダのもとを去り、マガダ国の首都ラージャグリハに着いた。そこのビンビサーラ王は、この若い苦行者に惹かれて王国の半分をやると申し出たが、ゴータマはこの申し出を断わったとある。次いでウドラカ・ラーマプトラという聖者(しょうじゃ)に師事してヨーガの技法を学んだが、彼はこれも直ちに体得した。
 それから、5人の弟子を伴って、釈迦の生まれたコーサラ国に隣接するガンジス河流域のマガダ国にあるウルヴィルヴァーの山林に入り、そこで6~7年の間苦行を積んだ。1日に穀物1粒で生きるという状態まで達したが、それから完全な断食に入り、ついに肋骨が見える遺骸の状態に近くなったが悟りは得られなかった。苦行が解脱の手段として無益であると悟った彼は苦行を離れた。しかし、すでにサーンキヤ哲学の理論を修め、ヨーガの技法を知り、苦行(タパス)をやり遂げた彼は、古来インドの修行の全てを習得したことになる。
 ウルヴィルヴァーは、ガンジス河の南への支流ナイランジャナー川に近く、彼は、この川で沐浴し、村の娘の献げる牛乳の粥(かゆ)で体力を回復した。女性から粥を受けたことに驚いた弟子たちは彼を離れ去った。それから、ウルヴィルヴァーのすぐ北のブッダガヤーにあるイチジク樹のもとに座して悟りに至るまで立ち上がらない決意で瞑想を始めた。悪魔や亡霊や怪物が彼を襲い、多くの女性の姿が現われてその瞑想を妨げようとしたが、前世に積んだ善行の功徳で、彼を妨げることができなかったと伝えられている。
 伝承によれば、釈迦は、悟りの最初の夜に、生と死と転生の恐ろしい輪廻を理解した。第二の夜には、その無数の前生を振り返り、一瞬、他者の無限な生を瞑想した。第三の夜に、生と再生の輪廻を形成する十二の縁起(えんぎ)の法則を悟り、これを抑える技法を発見した。そこで彼は、四諦(したい)と呼ばれる四つの真理を会得して、その夜明けに、「仏陀(ブッダ)」(覚醒した者)となった。彼はこの悟りの座に七週間留まり続けたと言われている。時に35歳であった。日本の仏教では、この日を12月8日とし、この樹を「菩提樹」と呼ぶ。
 釈迦の啓(ひら)いた悟りは、人の生きる道を「ダルマ(法)」と呼び、迷誤の輪廻から脱却することを「解脱(げだつ)」と呼ぶ。彼は、マガダ国の西のガンジス川中流にあるヴァーラーナシーへ赴いて、その郊外のムリガダーヴァで、かつての5人の修行仲間に四諦を説いて彼らを弟子とし、仏教宗団の開祖となる。この5人は「アルハット=阿羅漢(あらかん)」と称されている。続いてヴァーラーナシーの金貸しの息子とその家族が回心して60人の「僧伽(さんが)」(教団)になった。その後、マガダ国で、拝火バラモンであったカーシャパ三兄弟の1000人の弟子たちに、宇宙全体が情熱の火で燃えていることを説くと、全員が弟子入りした。さらに、当時懐疑論で知られていたシャーリプトラとマウドガリヤーヤナたちが入門することで、釈迦の宗団が人々に知られるようになった。マガダ国のビンビサーラ王は、仏陀とその教団に庵(いおり)を与えた。このことで、仏陀の名が確立した。
 その後仏陀は、父からの頼みによってカピラヴァストゥに向かい、父を始め多くの親戚を回心させた。その中には、後に第一の弟子となるアーナンダと、釈迦に背くことになるデーヴァダッタの二人の従兄弟も含まれている。その後、父が亡くなると、夫を失った王妃は、義理の息子の教団に入りたいと祈願してきた。最初はこれを退けたが、アーナンダの執り成しを得て、仏陀はこれを受け容れ、ここに女性の比丘尼(びくに)が生まれることになった。仏陀は彼女たちにきわめて厳しい戒律を課したとある〔エリアーデ前掲書80~81頁〕。息子のラーフラは20歳の時に、最終的な受戒を受けた。釈迦の宗団は、雨期には1箇所に定住して瞑想(禅定)を行ない、それ以外の時は遍歴して教化に努めた。
 後の伝承では、弟子たちの中には、虹の上を歩いたり、巨大なマンゴーの木を生やすなどの奇跡を行なう者が現われたが、釈迦は奇跡を誇示するのを戒めている。また、釈迦の成功を妬む師匠たちが、彼の信用を失わせる企みをめぐらせるが、これもむだであった。しかし、宗団の戒律をめぐって弟子の間で争いが生じたため、釈迦が和解を図ったところ、弟子たちがこれに応じなかったので、釈迦自身が一時宗団を離れるという騒動があった〔エリアーデ前掲書81頁〕。
 釈迦が72歳の時、従兄弟のデーヴァダッタは、妬みを起こして、宗団の指揮権を譲り渡すよう釈迦に要求し拒否されるという事件が起こった。デーヴァダッタは、殺し屋をやとったり、危険な像を使って釈迦を殺そうと企てた。彼は、釈迦よりもいっそう厳しい禁欲的な戒律で集団内に分裂を生じさせたが、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナが、離れていった弟子たちを再び呼び戻したと言われている。釈迦の最後の年は、釈迦のシャーキャ部族が崩壊したり、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナの二人が相継いで亡くなるなど多難であった。
 釈迦が入滅する年に、彼はアーナンダに付き添われて竹林に身を置いたが、重い赤痢にかかった。彼は、弟子たちに説いて、自分は弟子たちに隠すことなく全てを教えてきたし、もう老人であるから、今後弟子たちは法の中に救いを求めるように告げたと言われる。一方で、仏陀は宇宙の続く限り生き続けると加えたとも言い伝えられている。鍛冶屋のチュンダが、豚肉のご馳走に釈迦を招き、これを食した釈迦はひどい下痢を起こした。しかし、そこからマツラ国の首都クシナガラに向ったが、旅の途中で疲れ、釈迦は、右の脇腹を下にして、頭を北に、西を向き、森の二本の木の間に横たわった。嘆くアーナンダを慰め、集まった人々の前でアーナンダの献身を称(たた)えた釈迦は、大勢の人たちに「無常は万物の法であるから、怠りなく勤めなさい」と説いてから入滅した。前478年(?)の11月、満月の夜だったと言い伝えられている。遺体は行列によってクシナガラへ運ばれ、そこで火葬に付された。
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