2章 釈迦の言葉

■仏教の言語
〔釈迦の言語〕
 ここで釈迦とその時代の言語について確認しておきたい。釈迦の生家は、ガンジス河流域の北部で、現在のネパールに近い当時のコーサラ国内にあり、その南部のガンジス河の流域には、西にカーシー国、東にマガダ国があって、これら北部インド地域では、古マガダ語が通用していた。したがって、釈迦自身が実際に語った言語も古マガダ語であったと考えられている。古マガダ語は、インド・ヨーロッパ系のアーリア民族が使用したインド・アーリアン語ではなく、それ以前のインド北部の言語に属する。しかし、釈迦の時代(前5世紀頃)は、インド・アーリアン語がすでに北部インドでも浸透していた。釈迦が実際に語った言語の文献が現在遺っていないから、釈迦が実際に使用した言語がどのようなものであったのかを確認するの難しいようである。
〔パーリ語〕
 パーリ語は、現在もスリランカ、タイ、ミャンマー、カンボディア、ラオスで用いられている南方仏教の聖典の言語である。かつては、釈迦もこの言語を使用していたとされていたが、現在の学会では、この説は認められていない。パーリ語の起源には諸説がある〔『岩波仏教辞典』668頁〕。
(1)伝説では、マガダから発達したと言われる。
(2)釈迦が活動した地域の公用語であったコーサラ語から発達した。
(3)スリランカに近いインド本土のカリン地方の言語である。
(4)西部インドのウェジェーニーで使用されていた言語を起源とする。
 パーリ語は、ほんらいインド・ヨーロッパ系の言語から出たインド・アーリアン語が、インドの地元の諸言語と融合して方言化したものである。だから、釈迦が語ったと思われる古マガダ語と同一ではない。仏教は、釈迦の没後100年ほどして、保守的な「上座部」と進歩的な「大衆部」に分かれ、以後、諸派に分裂した(小乗仏教)。上座部は、西部インドのウェジェーニー地方の僧侶たちに受け継がれた事情があるから、パーリ語もほんらい西北インドの言語であり、これが南下してスリランカに伝えられたのかもしれない〔前掲書〕。 
〔サンスクリット語〕
 「サンスクリット」とは「完成された」という意味で、中国では「梵(ぼん)語」と訳されている。インド・アーリア語の文章語で、庶民の俗語や方言である「プラークリット」と区別される。サンスクリットは最古層のヴェーダ聖典で用いられており、ヒンドゥー教の文学、哲学、宗教だけでなく、比較的後期の大乗仏教やジャイナ教でもサンスクリットが用いられたから、この言語の文献ほど厖大なものはほかに存在しない。
■『スッタニパータ』
〔『スッタニパータ』の成立と仏典〕
 以下の『スッタニパータ』からの訳文とその解説は、ほぼ全面的に中村元訳『ブッダのことば』ワイド版岩波文庫(1991年初版)によっている。これの「解説」によると、「スッタ」とは縦糸(経)のことであり、「ニパータ」は集成を意味する。『スッタニパータ』は、数多くの仏典の中でも最古のものであり、歴史的な釈迦の言葉に最も近い詩句を集成した聖典である〔中村前掲書433頁〕。キリスト教で言えば、さしずめ福音書編集以前に編まれたと推定されるイエス様語録(Q文書)に相当するであろうか。だから、この教典では、修行僧たちは、まだ伽藍や寺院ではなく、樹下に座し、尼僧も登場しない。『スッタニパータ』では、釈迦の教えとして「四諦」のような教え方はされず、むしろ『ウパニシャッド』のようなヴェーダに近い意味での「真実」が語られている。
 『スッタニパータ』のほんらいの原語(主として韻文)は、釈迦が巡回したマガダ国の古マガダ語の影響の強い東部インドの言葉であったろう。『スッタニパータ』のほとんどを占める韻文は、スリランカやインド南部のパーリ語で書かれていて、アショーカ王(在位前268年?~前232年?)より前であるから前3世紀である。その韻文は、仏教成立以前の古代インドの文献と共通するところが多く、仏教特有の単語は絶無とさえ言える〔中村前掲書440~45頁〕。だから『スッタニパータ』は、シナや日本の仏教へ直接の影響を与えることはなかった。
 ちなみに、仏教聖典の由来を簡略にまとめると以下のようになる〔中村前掲書435~38頁〕。
(1)釈迦は、自分で教団の開祖になろうと意図しなかった。釈迦の逝去(前478年?)後に、弟子たちはその教えを簡潔な韻文で編み、口伝で伝承した。最初は古マガダ語であったが、その後パーリ語に書き換えられて聖典となった。『スッタニパータ』もこの最初の段階に属する聖典である。
(2)アショーカ王時代に、伝えられた韻文に散文の解釈が加えられたが、これもブッダの教えとされた。
(3)釈迦の教えとされる仏説がすべて集約編集されて、原始仏教の聖典とされる「経蔵」(きょうぞう)が成立し、これと並んで、僧侶の個人的な戒律や宗団としての僧伽(そうぎゃ)の規則などを定めた「律蔵」(りつぞう)も成立した。
(4)前250年頃から前100年にかけて、仏教教団が諸派に分裂した。これらが「小乗仏教」である。小乗諸派の間で統一された聖典の解釈、編集、注釈の集成が「論蔵」(ろんぞう)である。ここに「経」「律」「論」の三蔵が成立した。
(5)三蔵は紀元後に公用語のサンスクリットに訳されたが、これがシナにもたらされて漢訳され、ほぼパーリ語三蔵に匹敵する漢文の「大蔵経」となった。
(6)紀元後に、インドと中央アジアで大乗仏教が興り、多くの大乗経典が作成された。それらはチベットやシナに伝えられて、漢文の大乗経典となり、これが日本の仏教に大きな影響を与えた。『法華経』『浄土三部経』などがこれである。
〔『スッタニパータ』4~5章〕
 『スッタニパータ』は、その後半部分(4~5章)に韻文が多く、こちらのほうがより古い層に属すると思われる。特に4章は、ほんらい独立していて、サンスクリット以前の最古の層に属するであろう。4章では八項目に分ける説き方が多い。これはヴェーダの時代から行なわれていた手法である〔中村前掲書433頁〕。したがって、本論では、先ず4~5章を扱い、続いて1~3章に入ることにする。なお、引用の冒頭の番号は『スッタニパータ』全体の通し節番号である。
 
(772)磐(いわや)〔身体のこと〕のうちにとどまり、執著(しゅうじゃく)し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、── このような人は、実に<遠ざかり離れること>「厭離」(おんり)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。
 
 ここでは、真の自己である「アートマン」が、自己の身体という「磐」に閉じ込められていると説かれている。すでにヴェーダの宗教で見たように、人はその身体のうちにアートマン(自己)を宿しているから、出家して苦行を積み、身体だけでなく自分の心に働くもろもろの欲望と執著を脱却しなければ、輪廻の苦から解脱することができない。この思想は、釈迦がヴェーダの宗教から受け継いだものであり、釈迦の解脱への成道も、ここから出発している。ごくおおざっぱな類比を用いるなら、ヴェーダの宗教は、釈迦にとって、イエスとユダヤ教との関係に相当すると言えるだろうか。
 
(778)賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知り尽くして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行ないをしないで、見聞することに汚されない。
 
 ヴェーダの宗教では、極端な苦行による欲望からの脱却やヨーガの技法や抽象的な思考に走る修行者たちが出た。しかし、釈迦は、「両極端に対する欲望を制して」、それらのどちちにも属することなく、独自の悟りの道を開いた。釈迦は、「種々の生存に対し、この世についても、来世についても願うことがない」(801)。諸々(もろもろ)の事物に関して断定を下すこともしない。それらによって得た知識も欲望から出た「固執の住まい」(801)にすぎないことを悟ったからである。このように「両極端を知り尽くして、よく考え、両極端にも、中間にも汚されない」(1042)境地に達した。これが後に釈迦の「中道」(ちゅうどう)と呼ばれるものである。この世も来世も望まず(779)、一切の執著を超越し、偽りと驕慢(きょうまん)を捨て去って(785/786)、執(しっ)することなく、捨てることもない(789)境地こそ、輪廻からの解脱の道だからである(786)。
 
(789)もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
 
 ここで言う「見解」とは、諸々の宗教や哲学のことである〔中村前掲書381頁〕。「最上で無病の、清らかな人をわたしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と考えて、これこそが真の「智慧」だと考える人たちがいる(788)。しかし、これこそが執著に基づく「偏見」であると釈迦は言う。このような偏見に基づく「智慧」は、「心の高ぶり」(830)から出たものにほかならないから、真に熟達した人は、「それによって清浄が達成された」などとは説かないし、熟達した人は、宗教的な論争をしてはならない(830)。
 ここで釈迦は、既成のもろもろの宗教や哲学からも脱却すべきことを説いている。釈迦は、これによって、従来の「バラモン」を否定するのではないが、「真のバラモンとは何か?」と改めて問うことで(790)、「バラモン」を全く新しく定義し直すのである。「真のバラモン」は「見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のどれかによって清らかになる」などとは説かない(790)。真のバラモンは、宗教的な想いに耽(ふけ)って、ヴェーダの宗教を実践しようなどと「種々雑多なこと」をしない(792)。ところで、(789)に「正しい道以外の他の方法」とあるが、これによると、ここで言う「正しい道」とは、釈迦が達した悟りの道のことであり、「偏見」とはそれ以外の他の方法すべてを指すことになる。だから、悟りへの正しい道とは、釈迦の悟り得た道以外には存在しないことになる。これが後述する「八正道」と呼ばれる成道の正道とされるようになる。釈迦の正道とは、人間の宗教それ自体をも脱却する道を指し示している。
 
(839)師は答えた。「マーガンティヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくも、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
 
 4章では、ティッサ・メッティヤ、パースラ、マーガンディヤ、サーリプッタ(舎利弗/しゃりほつ)など、様々な人からの釈迦への問いかけに対して、釈迦が答えるという形式で語られている。聖者は、ちょうど泥水の上に拡がる蓮の葉の上の水が汚されないように(811)、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない(812)。
 釈迦が答えて言うには、「ここにのみ清らかさがある」と説く人は、例えば「世界は生滅・変化なく、常住である」とか、あるいは「世界は生滅・変化しながらも永遠である」とか、「悟りの世界は永遠である」とか、「世界は無常である」とか説くことで、それぞれが「別々の真理に固執している」(824)ことになる。「かれらは議論を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者だと烙印し、他人の権威を笠に着て、論争を交わす」(825)。しかし、論争には勝った負けたの「得意と失意がある」だけだから、人はこれを見て論争を止めるべきである(826)。「自分こそ勝利を得るのだ」と思い巡らして、邪悪を払い除いた人(ブッダ)と論争しようと、あなたはやって来たようだが、あなたも実にそれだけなら、悟りを実現することは、とてもできない」(834)。こう釈迦は答えている。
 
(874)「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。── このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」
 
 これは、「どのように修行した者は、形態が消滅するのですか? 苦と楽とはいかにして消滅するのですか?」と問われた時に与えた釈迦の答えである。この「どのようにして?」という問いは、因果関係を尋ねるもので、ここに、後述の十二支縁起の源を見ることができる。「名称と形態」とは、もろもろの現象界を表わす二面性のことであり、名称と形態によって、人の感官による「接触」が生じ、人のもろもろの所有欲が、人の欲求を縁(えん)として起こることになる(872)。だから人の識別作用が止滅することによって、名称と形態が残りなく滅びる(1037)のである。およそ苦しみが起こるのは人の識別作用を縁起とするからである(734)。
 (874)で言う「ありのままに想う」者とは、凡人のことであり、「誤って想う者」とは、狂人を指し、「想いなき者」とは、精神を統一して禅定に入り、心の働き全てが尽きてしまう状態のことである。最後の「想いを消滅した者」とは、欲界と色界と無色界の三界の欲望を超越し、物質界(色界)を超えて、無色定の状態、すなわち「精神性だけを有する生物の境地」〔『岩波仏教辞典』309頁〕に達した人のことである〔中村前掲書394頁注〕。
 人はこのようにして、「一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり、あるいは罪過亡きこの(宗教的な)行為をも捨て、『清浄である』とか『不浄である』とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれず行なえ。── 安らぎを固執することもない」(900)境地に達することで、宗教する人もろともに宗教そのものをも脱却することができる。こう釈迦は説いていることになろう〔中村前掲書397頁〕。
〔『スッタニパータ』1~3章〕
 『スッタニパータ』の前半は、時期的には後半を受けているから、「池に生える蓮の華」のように汚れに染まないたとえで始まり(2)、想念を焼き尽くして(7)この世とかの世を共に捨て去る(4)釈迦の教えで始まる。
 
(17)五つの蓋(おお)いを捨て、悩みなく、疑惑を超え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。── 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
 
 冒頭の17項目は蛇のたとえで語られる。「五つの蓋い」とは「五蓋」(ごがい)と漢訳される用語で、「貪欲」「怒り」「心の沈むこと」「心がそわそわすること」「疑い」の五つを言う。「苦悩の矢」とは「欲情」「嫌悪」「迷妄」「高慢」「悪い見解」の五つを言う〔中村前掲書250頁〕。『スッタニパータ』の前半では、ここに見るように、釈迦の教えがより分析され識別され始めている。釈迦は「もはや母胎に入ることがない」(29)とあるから、釈迦は輪廻の母胎の束縛から完全に解脱している。次に見る『大品』では、釈迦の教えがより厳密に教義化されていくが、その過程の始まりをすでにここに読み取ることができる。
 
(53)集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔(まつえい)(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。
 
 「暫時の解脱」とは、おそらく「集会を楽しむ」人々と共に禅定に加わることで、一時的には悟りを得た気持ちになるものの、すぐに煩悩の束縛に陥る場合を指すのであろう〔中村前掲書260頁〕。ここでは釈迦が「太陽の末裔」と称されている。その上で、太陽のごとき釈迦の解脱に与るためには、「犀の角のようにただ独り歩む」よう繰り返し説かれる。このためには、釈迦に見習って「妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てる」(59)ことで「在家者の諸々のしるしを除き去って、出家の袈裟衣をまとう」(64)よう勧められ、「戸ごとに食を乞う」(65)乞食(こつじき)の道に入ることが求められる。「ただ独り歩め」とある一方で、「学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ」(58)とあるから、「ただ独り歩む」者同士の交わりが勧められているのが分かる。
 
(73)慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修(おさ)め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
 
 釈迦の説く解脱の境地を言い表わす言葉として「慈しみ」「平静」「あわれみ」「喜び」が出てくる。これは願わしい心境として「滋」(いつくしみ)と「悲」(あわれみ)と「喜」(よろこび)と「捨」(心の平静)の四つを説いたもので、後の仏教の教学体系において「四無量心」と呼ばれるようになった。「滋」とは一切の生けるものの安楽を願うことであり、「悲」とは一切の生けるものの苦が除かれるよう願うことであり、「喜」とは生けるものの喜びを思いやることであり、「捨」とは己の苦楽に心を動かされないことだと言う〔中村前掲書263~64頁〕。新約聖書で、イエス・キリストの「御霊の実」としてパウロがあげた「愛、喜び、平安(平和)、寛容、慈愛、善意」(ガラテヤ5章22節)、あるいは彼の「愛への讃歌」(第一コリント13章)に通じるところがあって興味深い。ちなみにイエスは、神の御言葉を説くことを種蒔きにたとえたが、『スッタニパータ』でも釈迦は、「信仰は種」「苦行は雨」「智慧は牛の軛と鋤」などのたとえを用いて(77)、「(信仰の)耕作は甘露の果実をもたらす」(80)と説いている。
 
(139)かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、欲情を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれも、かれがブラフマンの世界に生まれることを妨げなかった。
 
 「かれ」とはチャンダーラ族の子でマータンガという犬殺しのことである。「神々の道」とは『リグ・ヴェーダ』の説く神々のことで、ヴェーダの宗教では、ブラフマンの明知を得たアートマン(個我)は、その身体を脱して神々のところへ赴くとされていた。神々のところへ到達した者は、もはやこの世に戻ることがないから、これは釈迦の解脱に通じると思われる〔中村前掲書281頁〕。『スッタニパータ』(283)~(315)で釈迦は、バラモンの呪文や祭祀を頭から否定することをせず、バラモンの宗教を受け容れながらも、これを独自に解釈し直している。また(594)~(656)でも、「真のバラモン」になるのは生まれによるのではなく行為によると説いて、バラモンに敬意を表しつつも、「バラモン」を新しく定義し直している。
 
(666)けだし何者の業(ごう)も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主(ぬし)がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
 
 『スッタニパータ』の釈迦の教えでも、罪業の愚者には、厳しい地獄の苦しみが待っている。地獄では、「鉄の串刺し」「鋭い刃の鉄の槍」「灼熱した鉄丸」「炭火に座る」「燃え盛る火炎」(667~668)の責め苦が待ち受けている。
 
(683)(神々は)答えて言った「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです。──シャカ族の村に、ルンビニーの聚洛に。だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。」
 
 ヴェーダの神々が、釈迦の誕生を悦び祝うこの場面は、ルカ福音書のクリスマス物語を想わせる。神々は仙人となって人間界に降り、スッドーダナ王の宮殿に近づき、「王子はどこにいますか。わたしたちもまた会いたい」と願い出る。アシタという仙人が、生まれた釈迦を見ると、釈迦の顔は黄金のようにきらめき幸福に光り輝いて、空行く星王(月)のように清らかで、秋の太陽のようで、アシタは、歓喜を生じ、わくわくしたとある(685~87)。アシタは、「この王子に不吉の相」を見ることがなく、この王子は「最高の悟りに達する」と預言する(692~93)。
 『スッタニパータ』の3章は、つぎのような「二種の観察のまとめの句」で結ばれている。
 
 真理(諦)と、生存の素因と、無明と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における振動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。
 
 釈迦が、ある長者の母の宮殿で、十五日の満月の夜に、修行僧たちに囲まれて座っていた時に「二種ずつの真理を如実に知るために」説いたのが「二種の観察」(724~65)である。一つは「苦しみと苦しみの原因」であり、もう一つは「苦しみの消滅と、苦しみの消滅に至る道」である。これに続いて、釈迦は他の様々な方法で「二種のことがらを正しく観察する」よう説いている。ここには、次の『大品』で教義化されている様々な教えの主な項目がすでに含まれているのを見ることができる。
                釈迦の教えへ