御霊の交わり
2002年クリスマス集会
  本日ここにお集まりの皆さんの中には、あるいは和歌山から、あるいは姫路から、あるいは堺から、あるいは横浜から、お見えになった方々がおられます。また、教会で言うなら、あるいはバプテスト教会に、あるいは聖交会に、あるいは長老派の教会に属している方がおられます。またルーテル教会に出ている人もいます。このように、地域も所属の教会もバラバラですし、年齢も、職業も、仕事も、みんなそれぞれ違っています。それにもかかわらず、私たちには1つの共通点があります。それは、イエス様との御霊の交わりを求めているという1点です。今日私たちは、この1点でここに「呼び集められて」います。これが「エクレシア・教会」の意味ですね。建物としての会堂はありませんし、専任の牧師さんもいませんけれども、イエス様との御霊にある交わりがあるかぎり、この集会は立派な教会です。なぜなら、教会とは何よりも心に聖霊が宿るところに存在するからです。
  イエス様にある御霊の交わりを象徴する儀式が、これから執り行なう聖餐です。ですからこの聖餐式は、イエス様の御霊を宿している人たちが、あずかることができます。ではイエス様の御霊を宿していることは、どのような形で証しされるかと言うと、これが洗礼を受けることです。洗礼とは、イエス様を信じてイエス様の御霊の交わりを求めることを証しする儀式だからです。ですから、一般には洗礼を受けた人が、聖餐式にあずかることになっています。ただし私たちの集会では、たとえ洗礼を受けていなくても、長年信仰生活を送ってきている人で、これを希望する人は、聖餐にあずかることができます。洗礼も聖餐も象徴的なことです。だから、今日、直接に聖餐の儀式にあずかることがなくても、主様の御霊にあってこの交わりに入ることはもちろんできます。またその中から洗礼を受け、聖餐に直接あずかる人も出てくると思います。象徴としての儀式にあずからなくても、主様の御霊にある交わりという1点では、共通しているのです。
  このように、新約聖書の福音は、イエス様というひとりの人格、ペルソナとしての1人のお方の御霊をいただくところにあります。この人格的な交わりこそ聖餐の意味であり、ここにお集まりの皆さんが、さまざまな違いを越えて、互いに霊的に人格的な交わりを持つことができる基盤です。イエス様との交わりの妨げになるものを罪と言います。私たちは、だれでも罪を宿しています。でも、これからいただくパンとぶどう酒が、私たちの肉体に吸収されていくのと同じように、たとえ、私たちの心に罪があっても、主様の御霊は、罪の赦しを得させる贖いの御霊ですから、私たちの罪を赦して、私たちのうちに宿ってくださる。このことを聖餐式は表しているのです。
  私たちの肉体とは、そのまま私たちの置かれている現実を意味します。ここにお集まりの皆さんは、それぞれに厳しい現実に置かれています。私たちの体と心は、現在の日本の厳しい現実に曝されています。けれども、こういう私たちの身体的な存在でも、主様の「からだ」(パン)と「命」(ぶどう酒)は、ちゃんと働いてくださって、私たちを支え守ってくださいます。どうぞ皆さん、その意味で、聖餐をいただく人も直接にいただかない人も、共に祈りによって主様との交わりに入ってください。
  なお、この聖餐の後で祈っていただきたいのですが、全員に祈っていただくことは時間の都合上できませんので、私の方から指名させていただきます。どうぞその方に心を合わせて皆さんも祈ってください。その後で、自己紹介を兼ねて一言ずつ感話を語っていただきますが、これは全員にお願いします。それではマタイ福音書の26章26〜28節までを読みましょう。
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