2004年夏期集会講話
キリストの御霊の5つの特長

   この集会には実に様々な人たちが来ています。でも、集まった時にはばらばらでも、帰る時には同じひとつの御霊の想いを抱いて帰ることができれば幸いです。それでこれから、イエス・キリストの御霊について大事なことをお話ししたいと思います。〔T〕から〔X〕まで、項目別に分けてあり、さらにそれぞれの項目を分けてありますが、これらはことごとく、「ひとつの御霊」の側面を表わしているもので、決して別々のものではありません。また、このどれかが失われるなら他のものも失われる。そういう関係にあります。

〔T〕人格(ペルソナ)の御霊
(1)御霊は、父と子と聖霊の三位一体の神のひとつの位格(ペルソナ)です。すなわち、イエス・キリストの御霊ですから人格(ペルソナ)を具えた御霊です(ヨハネ14章21節)。ですから、「イエス様!」と言って、「み名を呼び求める」者を救う神です(ローマ10章12〜13節)。人格の御霊ですから、「語りかけ・語りかけられる」ことができます。人に語りかけるのと同じように、神に語りかけるのです。これを「信仰」と言います。独り言を言うのには信仰も勇気も要りません。どうか、イエス様に語りかけてください。また、語りかけられることを期待してください。もしも、主様からなんらかの「語りかけ」があったならば、どうぞそれに「聴き従って」ください。人の場合もそうですが、神からの「語りかけ」に「聴き従う」のは勇気が要ります。パウロが「信仰の聴従」というのはこのことです(ガラテヤ3章5節)。まだ祈っていない人、あるいはどう祈っていいのか分からない人は、朝起きたときと夜寝るときに、必ず「イエス様」に呼びかけてください。もしも、あなたに、なんらかの「語りかけ」があったら、必ず実行してみてください。
(2)イエス様が、御霊は「わたしが語ったことを思い起こさせる」(ヨハネ14章26〜27節)と言われました。このことは、聖書に書かれたお言葉が、御霊によってわたしたちに解き明かされることです。聖書は御霊によって書かれた神のお言葉であるというのは、この意味です。それだけではなく、聖書全体が、イエス様ご自身のあなたへの語りかけです(ヨハネ5章39節)。人は誰かに出会って、その人の言葉を聞くときに、その人の想い全部を一度に聞くことも知ることもできません。また、その必要もありません。聖書を通して、イエス様が、その時々に、「あなたに向かって」語るお言葉、これを聞いて、そのお言葉に従うこと。これが御霊の働きです(第一ヨハネ2章27節)。
   人格の言葉には、必ず「いつ」「だれに」があります。活字は人格ではありません。「その時」に、「あなたに」向かって与えられる聖書の御言葉、これが御霊にある聖書です。あなたは、御霊にあって聖書に向かうときに、イエス様に直接お会いして話し合っているのです。揺るがない信仰を保ち続けたいのなら、必ずお言葉を読んで、そのお言葉を心に留めてください。これが、信仰の秘訣です。いろいろな人からイエス様の話を聞くのもいいです。けれども、自分で直接イエス様のところへ行く。これが一番いいやり方です。

〔U〕赦しの御霊
(1)御霊は赦しの御霊です。どんな罪人でも、その罪に応じて扱うことをされない。どこまでも赦しの慈愛をもって迫ってきます。だから、自分の至らなさ。自分の欠点。自分の罪にとらわれないでください(ローマ5章5〜6節)。でも、赦されるのは、罪を犯してもいいからではありません。「憐れみ」や「赦し」は、教義や理論ではありません。神様とその人との間の人格的な関係において起こることだからです。
   シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の中で、シャイロックという金貸しがアントニオという友情篤い人に、胸の肉1ポンドを抵当にしてお金を貸した。しかし、期限までにお金が戻らなかったから、約束通り、アントニオの胸の肉1ポンドを切り取ると主張します。すると裁判官に扮したポーシャが言います。「それならユダヤ人は憐れみをかけてやらなければなりません。」“Then must the Jew be merciful”と。するとシャイロックが答えます。「どういうよんどころない理由で、かけてやらねばならないのですか?」“On what compulsion must I?”と。するとポーシャが言います。「憐れみは無理強いするものではない。それは穏やかな雨のように天から大地に降る」と。慈悲は、「ねばならない」から施すものではないとね。そうです。慈悲や赦しは、教義や理論では決められないのです。それは、神様と人間との人格的な関係の中で決まるからです。だから主の赦しと慈愛は「有り難い」(めったにないこと)ものなのです。でも、その「有り難い」が「あたりまえ」になったら、その人と神様との関係は危ないですよ。
   けれども、罪を犯したくない。悪い人になりたくない。こういう人は、たとえ失敗しても、7度を70倍するまで「赦されて」、繰り返し、繰り返し「やってみる」ことができるのです(マタイ18章22節)。なぜなら、あなたの罪、あなたの弱点、あなたの悩みは、すでに主様の十字架によって解決されているからです。ここから、力が湧くのです。赦されているから、安心して赦しを求めることができるのです。ここから、失敗してもまたやろうという勇気が与えられるのです。イエス様に出会って救われたサマリアの女は、身持ちのいい人ではありませんでした。しかし、イエス様は彼女に、いつまでも湧き上がる命の泉を与えてくださったのです(ヨハネ4章14節)。これが赦しの泉です。
(2)自分はだめなんだ。こう思うと、「そのままでいいんだ」は、本当にそのままになってしまう。こうなると「悪くてもいい。いや、悪いからこそ阿弥陀さんの本願で救われる」ということになってしまいます。実は、これも悪から救う阿弥陀の慈悲の力を言い表わす言葉なんですが、これが、間違って受け取られてしまうのです。赦されたら何もしなくていいのか? 悪い人間は悪いままでいいのか? そうではありません(ローマ6章1節)。人は、悪いことしかできないから、そのままでもかまわない。ここまで来ると南無阿弥陀仏は「本願誇(ぼこ)り」に陥ってしまいます。かつて中国へ日本軍が攻め込んだ時に、「念仏少尉」というあだ名の将校がいました。彼は、捕虜の首を切り落とすたびに南無阿弥陀仏と唱えたそうです。成仏せよという意味か、殺生をしても念仏で赦されると意味か、おそらくその両方でしょう。これが本願誇りです。
(3)ですから、悩みを持つ人、悪い癖の直らない人、こういう人たちに「そのままでいい」と言うのは、「諦めなさい」ということです。「そのままでいたくない」からイエス様のところへ来る。そうではありませんか? 自分自身を見くびったり、人間をくだらないと思ってはいけません。人間は、神様がお造りになった「人格」です。だから、よい人間になりたい。正しい人間になりたい。だれでもそう想うのです。でも、自分の力ではどうしてもそれができないのです。では、どうすればいいのか? これがイエス様のところへ来る理由です。体も心も健康でいたい。神を愛し、人を愛する人間になりたい。人は神様によって創られた人格ですから、だれでもそう願っているのです。
(4)ところが、願っていてもそれができない。できなくてもやらなければならない。こう思うとそれは「律法」になります。律法は、分かっていても守れない。守れないから苦しくなる。これがパウロの苦しみでした(ローマ7章18〜21節)。こうなると「お前はダメだ」というサタン(敵対者・非難する者、非を訴える者)の言葉に惑わされてしまいます。
   英語を学ぶ時に、減点法と加点法があります。減点法だと間違いをひとつずつチェックして減点します。英語の文法通りに書かれていないとあちこち減点されて、たちまち零点になります。全くダメでも、少しできていても、その差はありません。入試の採点がこれですね。落とすための試験ですから。律法から判断すると、人は皆零点の罪人になってしまいます。どんなに頑張っても、文法に照らして間違いがあれば、だめです。これでは英語をやる気がなくなってしまいます。英語が嫌いになります。けれども、たとえ間違いがあっても、少しでもできていればほめてあげる。そうすれば、初めは間違いが多くても、だんだん正しく話したり書いたりできるようになります。間違えてもいいから、何度でも根気よくやれば、だんだん正しい英語が話せるようになります。すると英語が好きになります。そうするとだんだん文法を意識しなくなります。「自由に」英語が話せるようになる。
   文法は律法です。正しいけれどもなかなか守れない。するとサタンは、お前はダメだとささやくのです。イエス様の愛を信じて御霊の赦しに与っていれば、そういうサタンの批判する声に惑わされなくてもいいのです(ローマ5章20節)。こういう苦しみから救ってくださるのが、十字架の赦しなのです。

〔V〕創造の御霊
(1)イエス様の御霊は赦しの御霊です。この赦しは、日々その人のうちに働いてくださる。命のエネルギー(「働く」のギリシア語)を注いでくださる(フィリピ2章13節)。だから、自分にはできなくても、御霊にお委ねして歩むうちに、少しずつ変わってくる。気がついたら、すっかり変わっていた。なにか新しい自分がいつの間にか自分の内で育っていた。こういうことが起るのです。それは新しい自分が、いつのまにか、創造されていたのです(第二コリント5章17節)。人間の体は、何年か何日かで全部入れ替わるそうです。わたしたちの体の細胞は、日々死んでいるのです。だからこそ、日々新しい細胞が生まれてくる。創り出されるのです。創造は死がなければ成り立ちません。わたしたちの霊的な世界でもそうです。イエス様の御霊にあって、わたしたちは少しずつ、日々変えられていく。新しい創造が日々行なわれているからです。
   パウロは人間を「肉」と「霊」とに分けていますが、わたしたちの肉は日々死んでいきます。パウロが「肉」と言うのは、肉体のことではありません。わたしたちの人間存在を全体として「肉」と言うのです。また「霊」というのは、霊魂のことではありません。これは御霊のことだと思ってください。ですから、人間を肉体と霊魂に分けて、肉体はダメで霊魂はいいということではないのです。ところが、霊は日々肉を通じて新たな創造を行なっていきます。いいですか、「肉を通じて」です(ローマ12章1節)。「肉」は「霊」とは無関係だ。こう教えられた人は、その考えを改めてください。肉は霊でないのは、その通りです。だから肉は霊的には働きません。しかし、霊は肉を「通して」働くのです。これが、創られたもの(被造物)と造り主(創造者)との関係です。三位一体の聖霊は、造り主の御霊だからです。
   これは考えても分かりませんよ。「歩く」というのは不思議です。右と左の足を交互に出します。では自分は右の足にいるのか左の足にいるのか? 考えても分からない。両方の足に自分がいるのなら、一方の足が動くのに他方の足は動かない。自分は動いているのか止まっているのか? 考えても分からない。自己分裂です。分析すればするほど、分からない。でも、実際の「動き」の中では、不思議に自分はひとつです。わたしたちは、ごく自然に歩いていますね。だから、力を抜いて、自然に歩む。「手思足思」です。「創造」とは「動き」です。三位一体の神は常に動いている。命の御霊は動きの中で創造するのです。聖書の神は名詞ではない。聖書の神は動詞です。瞑想している時でも、動いています。ですから「時」と深くつながっています。わたしたちの肉体は、日々働いている。動いている。イエス様の御霊は三位一体ですから、神様と共に働いて、わたしたちの肉にあって霊の働きを止めないのです。これが、「創造する御霊」(Spiritus Creator)の働き方です。
(2)だから、どんな人でも、神様の救いから漏れることがない。神様は、その人の現状を通じて、全く「新しいあなた」の創造を始めるからです。人はイエス様の御霊にあって、新たに創られ、生まれ変わるのです。だから、イエス様に祈っているときに、あなたに新しい創造が行なわれているのです。創り出す力が働いているのです。その創り出す力が、あなたに今までに見えなかったもの、あなたの知らなかったあなたの姿、あなたの生きる道を見させてくださいます。それが与えられたら、見失わないようにして、祈り続けてください。それは、今のあなたではない。あなたがそう「成る」姿です。「成る」のだから「ある」ではない。ここでは、祈る「自分」とそれによって示される「自分」とがいて、その上にその示された自分にどのように関わるのかを決める「自分」がいます。
   キェルケゴールが「自己とは、自己自身に関わるひとつの関係である。この関係のうちには、関係がそれ自身に関わるということが含まれている。」(『死にいたる病』)と言ったのはこの意味ですね。今はこうだけれども、そう成るのです。「成っていく」自分を大事にしてください。その成っていく方向に祈りと歩みを向けてください(第二コリント3章18節/ヤコブ1章22〜23節)。そうすればそれは必ず実現します。愛は人を変えます。愛されると人は変わります。人は人格だからです。国家よりも会社よりも家族よりも、もっと大切な「あなた」という人格が創造されるのです。これは永遠に無くならない。永遠の命です(ヨハネ5章24節)。
   実は今お話ししていることは、神の御名である「ヤハウェ」にかかわることです。「私はあらしめることによって成る者」“I am what I become.”(出エジプト記3章11節)と読んでください。ヨハネ福音書ではイエス様は「私はある」と言われました。パウロは「私が今あるのは主の恵み」(第一コリント15章10節)と言いました。これは「主の恵みによって、私はあらしめられることによって成る者」”By the Grace of God I am what I am(=become.“という意味です。
(3)わたしたちの救いも、わたしたちの仕事も、わたしたちの福音の証しも、これは人間がやることではない。全部、神様が働いてやってくださる。だから、こういう創造の御霊を通してみると、周囲の自然が、自分とつながっているのが分かります。何か不思議な命が、自分と自然との間に働いているのがわかります。このようにして、神様と自然と人間とが通い合う世界が生まれてくるのです。

〔W〕知恵の御霊
(1)御霊は、日常の具体的な仕事において、その人の生まれながらの能力を活かします。「生まれながら」ですから、その人がイエス様に従う「以前の」能力も含まれますよ。なぜなら、御霊は、天地を創り、あなたを創った方から来る「命の御霊」だからです。だから、あなたが先祖から受け継いだいっさいの文化的、霊的、身体的な遺産を活かして用います。職能、技能、その他いろいろな能力が、御霊にあって発揮されます。ただしこれは、「もしもあなたが、その能力を自分のものとしないで、イエス様に委ねるならば」です。これは、個人の場合だけではありません。民族としての日本人の場合も同様です。だからイエス様の御霊にあっては、日本人の過去の霊的な遺産は、失われるどころが、本当の意味で、人類のために、神様のために、活かされてくるのです。
(2)だから、日常の小さな事にも注意して、霊的な目で見るようにしてください。特に、なにかまずいことが生じたり、あるいは失敗をしたときには、嘆いたり自己弁護したりする前に、これは自分の信仰的なあり方への警告ではないか? あるいは、自分の歩みに潜む問題点を指し示す「しるし」ではないか? このように見ることが必要です。逆に事がうまく運んだときには、これは自分の歩み方が間違っていなかった事への証しであると受け取ってください。しばしば、自分の歩みに確信が持てないときに、主はこのように「しるし」を与えて、励ましたり警告したりしてくださるからです。御霊の人は、自分の日常生活のことを霊的な目で判断するのです。御霊はその人の長所を活かします。しかし、御霊はその人の欠点を抑えます。例えば私の場合、軍国主義の教育のせいでしようか、日本人としての意識が強すぎるという示しを受けました。御霊はこのようにして、「霊的な個性」あるいは「個人の霊性」を育ててくださるのです。

【X】霊能の御霊
   御霊は霊能を与えます。御霊の賜は、異言、預言、ヴィジョン、癒し、霊的な知力などがあります。御霊は人格ですから、「自由の御霊」です。その人の意志を尊重します。無理に異言を語らせるようなことは決してしません。しかし、「自由」であると言っても、これらが与えられる場合には、注意しなければならないことがあります。
(1)預言やヴィジョンを「他人のこと」に当てはめるのは注意が要ります。特に他人の悪いことや、欠点に関することについては注意が必要です。よほどの場合でなければ、これを口にするのは控えるほうがいいです。御霊に示されたと言って、人を批判する人がいたら、言われた人ではなく、まず先に、言った人のほうに目を向ける必要があります。他人の人格を傷つける霊能は霊能ではないのです。
(2)異言は、「語る自由」が保証されるためには、「語らない自由」も保証されなければなりません。これは全員で祈る場合にもあてはまります。だからこれらを「自分のこと」に限定してください。また、預言が与えられた場合に、自分のことなら、たとえ間違っても、自分がその誤りの結果を受けることで済みます。さらにもうひとつ、自分のことなら、その預言なりヴィジョンが、はたして本当だったかどうか? その結果を「自分で」判断できます。与えられた霊能が、ほんとうかどうかをこのようにして、「自分の小さな日常の出来事で」、実際にやってみてください。多くの場合、それは自分の思いこみや自分の願望にすぎないことが分かります。しかし、そうではない場合もあることが分かります。小さな事で、訓練を積んで見分けがつくようになれば、大きな事で、それが本当かどうかが分かります。だから、小事を大事にしてください。
(3)霊能は、それだけでは実を結びません。能力それ自体は人格ではないからです。計算能力があるからと言って、その人がいい人だとは限りません。力があるから立派な人とは限りません。同じように、霊能者も人間としては、並の罪人にすぎないのです。霊能は、主がその人への憐れみによって授けてくださったものです。ですから、授かった罪人が、「いい人」だったからとは限りません。だから、霊能が与えられたら、なおいっそう謙虚にならなければなりません。「能力」は、それ自体「目標」ではないのです。御霊の霊能は、イエス様のほうを向いて歩むため、イエス様に従うために与えられているのです。「主のみ姿に変えられる」(第二コリント3章13節)。これが霊能の「目的」です。これをはずれると霊能は邪道に陥ります。
(4)霊能はあなたの人格的な霊性と結びつくときに、人の役に立ちます。御霊は「交わり(コイノニア)の御霊」です。御霊は、あなたをただの「私人」ではなく、交わり全体の中で「個人」として、個人の霊性を発揮する人格へと育てるのです。皆さんはこうしてこの集会に集まって来ました。でも、残念ながら、いろいろな理由で来ることができなかった人がいます。でも私はその人たちにいちいち理由を尋ねません。それは、私的なこと、プライベートなことだからです。しかし、昨晩皆さんは、感話と祈り会で、「自分」のことを証ししました。それから一人ずつ祈ってくださった。その時の「あなた」は、プライベートな「あなた」ではないのです。その「あなた」は、この集会のメンバーなんです。「メンバー」というのは、体の一部という意味です。こういう集会の中で、新しい「あなた」が育っていくのです。御霊は交わり(コイノニア)を通じて、共同体(エクレシア)を育てるからです。
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