2005年コイノニア会夏期集会
御霊にある霊知
2005年8月28日
【聖句】
(1)世界が創造されたとき以来、目に見えない神は、すなわち神の永遠の力と神性は、被造物において霊知(英知)によって認識できます。したがって、彼らには弁解の余地がありません。(ローマ人への手紙1章20節)
(2)わたしたちは、信仰によって、もろもろの世界が、神の言葉によって完成され、その結果、現われていないものから目に見えるものが成ったことを霊知(悟り)します
(ヘブライ人への手紙11章3節)
(3)たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(第二コリント人への手紙4章16節)
(4)21なんとここで分かった律法とは、自分は立派なことを行なおうと思っても、その自分に悪が宿っていることです。22だからわたしは「内なる人」のほうでは神の律法にあって喜びます。23だがわたしの肢体には別の律法があって、わたしの霊知の律法に戦いを挑み、わたしの肢体に働く罪の律法となってわたしを捕虜にしているのです。24このわたしはなんと惨めな人間だろう。このような死の体から、わたしを助け出してくれるのはだれなのか?25だからわたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します!こうしてわたし自身は、霊知では神の律法に従いつつも、肉では罪の律法に従うのです。
(ローマ人への手紙7章21節〜25節)
(5)わたしが異言で祈る場合、わたしの霊は祈っていますが、わたしの霊知(心)は実を結ぶ状態にありません。わたしは霊で祈ろう。霊知でも祈ろう。霊で歌おう。霊知でも歌おう。(第一コリント人への手紙14章14〜15節)
(6)この世の流儀に流されることなく、霊知を新たにされることによって変容して、何が神の御心か、何が善で神に喜ばれる目標であるかをわきまえなさい。
(ローマ人への手紙12章2節)
(7)あなたたちは、朽ちゆく古い人を、以前のような振舞いと共に、また偽りの欲望と共に脱ぎ捨てて、あなたたちの霊知によって新しくされ、真の義と清さによって神に象(かたど)って創造された新しい人を身にまといなさい。」
(エフェソ人への手紙4章22〜24節)

(1)「霊知」の意味
   「知性」はギリシア語では「ヌース」と言います。これは「心の思い」とか「心で分かる」ことです。心で思ったり、分かったりするわけですから、これは「考える」ことよりも、日本語ではむしろ「悟る」に近いですね。通常これは「知性」とか「理性」のように訳されます。けれども今日お話しするのは、特に神様からの聖霊によって導かれる「霊的な知性」のことですから、これを「霊知」と訳しました。キリスト教では通常「知性/英知」と訳しています。これとよく似た言葉で「理性」があります。これはギリシア語で「ロゴス」です。ロゴスは、「ことば」と訳されますが、ギリシアの哲学では、もともとは「天地の理法」「宇宙の法則」です。ただし宇宙には霊が宿ると信じられましたから「宇宙の霊法」でもあります。この「霊法」は、宇宙に宿っていますから、当然人間にも宿っています。だから人間に具わる「理性」という意味になりました。「ロゴス」に対して「知性」の「ヌース」のほうは、宇宙ではなく、人間にほんらい具わっているものです。ただし頭で考えるよりは「心で」知る、洞察する、覺知することです。このほかにもうひとつギリシア語で「エピステーメー」(真知)というのがあって、これは体験で「認識する」「理解する」の意味です。現在の科学的、学問的な知力がこれに近いと言えましょう。「知性」と「理性」と「真知」、この三つのうちで、今日は霊的な知性、霊知についてお話しします。
(2)神の創造を霊知する
   引用はほとんどがパウロからです。なぜパウロかと言いますと、この「霊知」は、新約聖書では、ルカ福音書やヘブライ人への手紙やヨハネ黙示録にもありますが、ほとんどがパウロ系の書簡に表われます。では引用(1)を読みます。ここでは「霊知」の動詞の「霊知する」で出てきます。目に見える天地万物が、見えない神によって創造されたことを「霊知で認識する」、心で悟ることです。引用の(2)はヘブライ人への手紙からですが、同じことを言っています。皆さんは、宇宙万物を観て、そこに神が働いておられることを感じ取ることができるでしょうか? ここにおられる方は、信仰を持っておいでだから、自然の中に神様のお働きを感得することができると思います。でも一般の人は、できる人もいればできない人もいます。なにしろ「見えないものを観る/悟る」のですから、これは矛盾です。だからこれができない人がいます。大事なのは、霊知が「見えない神の創造の業」を知る/悟る働きをすることです。神様のみ業は見えないこと、そして、そのみ業とは「創造する」働きだということ、このふたつを悟るのが霊知です。聖霊に満たされると嬉しくてたまらない。周りの自然が輝いて見えたなどとよく言いますが、実はこれが霊知の大事な働きなのです。
(3)内なる人
   引用の(3)を読みます。先の引用は一般の人のことで、神様のみ業を悟る人も悟らない人もいます。でもここは、イエス様の御霊を宿している人たちのことです。聖書は、人間を「からだ」と「心」と「霊」の三つに分けて見ています。おおざっぱな言い方ですが、「からだ」は肉体に宿り、心は心臓/肝臓に宿り、霊は骨に宿ると考えられました。エヴァはアダムの脇腹の骨から生まれましたね。これはアダムの「霊」からエヴァが生まれたという意味です。
   ところが、パウロは、人間を三つに分けていません。パウロは、人間を「霊」と「肉」に分けています。ここがちょっとややこしい。人間がイエス・キリストを信じて、神様の方を向いている時に、その人を「霊の人」と言います。これはその人の体も心も霊も、全部が「霊」なんです。これに対して、キリストを信じないで神様に背を向けている人を「肉の人」と言います。ですから、からだも心も霊も全部が、どちらの方向を向いているかで、霊か肉かが決まります。人間それ自体を「霊魂」と「肉体」のふたつに分けるのではありませんから注意してください。どこまでも神様との「関係で」霊か肉かが決まるのです。ここで「内なる人」とあるのは、霊の人のことです。イエス様の御霊に導かれる人です。御霊に導かれる人は、霊の体、霊の心、霊の霊(ちょっと分かりにくいですが、第一コリント人への手紙2章11節を見てください)の人です。
   では自分はいったいどちらだろう? 「霊」のほうか? 「肉」のほうか? 皆さんそう思っておられるかもしれません。ここにおられる方は、全員その両方です。パウロもその両方だから安心してください。でも「霊」のほうのわたしは、どこにいるのだろう? さあ、これが心配です。「霊のあなた」は、見える姿で存在するのではない。それは創り出されているのです。霊か肉かは、イエス様を通じた神様との「関係」です。「交わり」です。「交わり/関係」は「ある」ものではない。関係は「創り出されている」ものです。ですから「内なる人」と「外なる人」をただ内側(inside)と外側(outside)のように考えないほうがいいでしょう。これは「内に向かう人」(inward)と「外へ向かう人」(outward)の意味にとるほうがいいと思います。イエス様に導かれて、イエス様の方に向いて歩む人は霊の人です。外からは見えませんが、霊的に成長しているのです。これに対して、外へ向いている人、外面ばかりを気にする人は、自分を見失う恐れがあります。この地上の歩みの中で、神様によって創り出されていく自分、霊の自分、新しい自分を見失う恐れがあります。
(4)罪の律法
   では引用の(4)に入ります。ここがメインなところです。親が子供に自分の理想を押しつけて、強制的に勉強させたり、習い事をさせたりする。これは子供にとって辛いことです。子供は、一生懸命親の言うことを聞こうとする。でも親の期待が大きすぎます。だから、終いに疲れきって何もする気を亡くしてしまうか、親の言うことなど聞かないで反抗して非行に走るか、そうでなければ、親の目につくところだけ勉強しているふりをして、親の目をごまかして適当にやるか、この三つしかありません。非行に走れば律法違反。がんばって疲れきってしまえば律法主義から来る律法衰弱、適当に上辺だけごまかせば律法主義的な偽善、こういうことになります。こういうのを「罪の律法」、と言うより「罪<な>律法」ですね。外側から押しつけられた最悪の律法です。
皆さんは、律法から福音へ、律法の束縛からイエス様の赦しへというパウロの福音の基本構造をよくご存じだと思います。この場合の「律法」とは旧約の律法で、いわゆる「モーセ律法」のことです。今お話しした「罪の律法」がこれです。ところが、ローマ人への手紙7章の後半では、それまで語られなかった「律法」が表れます。それは、イエス様を信じている人、福音を信じている人が御霊の導きを受けることで新しく知る「律法」です。これは旧約の罪の律法とは違って、御霊にあって知る「律法」です。ここの解釈はいろいろありますが、カルヴァンやルターや内村鑑三や最近の聖書学者たちに沿ってお話しします。
   この中にも長い間、イエス様の福音を信じて歩んでこられた方々がおられます。その中には聖霊のバプテスマのように、異言を語る体験をされた方もいます。ところがそういう体験をしない方もここにおられる。また、聖霊体験をして異言を語ってもそれだけで自分の悩みや矛盾が一挙に解決したわけではない。こういう方々は、旧約聖書のモーセ律法から、いきなり罪の赦しで全部解決というわけにはいかないことを身をもって体験しておられます。聖霊はイエス様の名によって神様がお遣わしになる神ご自身です。ところがそれを受けるわたしたちは人間です。しかもキリストを信じる人間です。この場合、人間としてのキリスト者にいったい何が起こるのか? これがここローマ人への手紙7章の後半で語られている「霊知の律法」です。

(5)霊知の律法
   親からの「押しつけ」ではなく、親の愛情を感じ取ってね、子供自身もその気になってがんばる場合があります。親子一体のスポーツ選手などですね。この場合は、子供が心から納得してやりますから強制ではない。自分もその気になってやるからです。だから子供は、心からそうなりたいと憧れる。親のような選手になりたい。あるいは誰かほかの選手に憧れる。つまり子供は「心から立派だ」と思って憧れるのです。これは自分を思い描くこと、いわゆる「シミュレーション」と言います。自分の理想像を思い描くことです。これはとてもいいことで、大事なことです。これがここでパウロの言う「立派なこと」です。どうかここにおられる皆さん、それぞれに、ご自分で、「立派なこと」を思い描いてください。自分が心から「立派だ」と思う。そういう理想の姿を思い描いてください。これが、主から与えられる霊知の働きです。これがここでパウロの言う「霊知の律法」です。イエス様の御霊に導かれますとね。皆さんそれぞれに、こういう「立派なこと」が示されます。そこには、過去のキリスト教の価値観、皆さんが先祖から受け継いだ価値観、自分の体験や希望、自分の失敗、いろんなものが含まれています。御霊によって皆さん一人一人に授与される「霊知の律法」です。
   ただし、この「律法」という言い方は、どうしても「罪の律法」と同じように、強制したり裁いたりする働きを思わせます。パウロの原語は全部「ノモス」なので、 「霊知の律法」と訳したのですが、ここは「心の法則」とか「知性の律法」とか、いろいろ訳があります。しかし「心の法則」では心理学になりますし、「知性の律法」だと、神様とは関係のない人間一般の倫理・道徳の意味になってしまいます(ここをそういう意味にとる解釈もあります)。「霊知の律法」は、わたしたちイエス様を信じる者たちが、神様から与えられるものです。ですから、イエス様によって罪赦された者となり、自由にされた人に対して示される価値観のことです。だからこれを「霊知による価値観」と訳すほうがわかりやすいかもしれません。この価値観は、イエス様を信じるわたしたち一人一人に、神様から示されるものですが、この霊知の価値観それ自体が、イエス様の御霊ではありません。なぜなら、この価値観は「わたしたち」が抱いているものだからです。だから、ガラテヤ人への手紙5章にもあるように、わたしたちは、いろいろな「肉の欲」に誘われて、この価値観から離れる場合もあるのです。
(6)霊知の律法と罪の律法
   「霊知の律法」といい「霊知による価値観」と言っても、なかなかこの自分の思い描くとおりにはいかないものです。わたしの知っている人で、息子がトップクラスの国立大学を出て、有名会社の研究所に入った。そこで成果を上げた。けれども会社は自分の業績を十分認めてくれない。そこで会社を辞めて、自分でベンチャー企業に乗り出そうと一生懸命にやっています。けれども、全く新しい発明、発見をやろうとしても、これはなかなかできません。これは新しい創造ですからね。ある程度までは、人間の力でやることができます。けれども、新しい創造は、努力だけではどうにもならないのです。世間で言う「運」とか「ひらめき」とかがなければできません。創造は、人間の努力がなければできませんよ。けれども、全く新しいものを創造するのは、人間の努力や力ではどうにもならないものがあるのです。なぜなら創造は、神様のお働きだからです。だからせっかく理想を求めても、失望したり落胆したりします。自信をなくしたり傷ついたりします。
   ここの引用では「霊知」が「わたし」と結びついているのに注目してください。この霊知こそ、7章22節の「内なる人」にとって大事なのです。この霊知の指し示すところに真の自分の姿があります。イエス様の御霊によって示された自分の姿が見えています。しかし、自分の新しい姿ですが、自分では到達できない姿です。だからパウロは24節で嘆いていますね。こういう状態はキリストにある人なら、誰でも経験することです。わたしもずいぶんこれで悩みました。なぜでしょうか? これは「霊知の律法/価値観」でも、「わたしたち」が抱いている「律法」であり「価値観」だからです。たとえ御霊に示されても、イエス様の御霊によって与えられても、これを「律法」として受け取ると大怪我をします。まずせっかく与えられた霊知の律法、すなわち自分の真の有り様ですね、これを離れたり、捨てたりするおそれがあります。これとは逆に、自分の力で守ろう、自分の力で到達しようと焦るおそれもあります。知性は、たとえ霊的な知性でも、人間にほんらい具わったものであると言いました。ですから霊知は、神様の御霊それ自体ではありません。御霊に「導かれて」いても、御霊それ自体ではないのです。だからわたしたちは祈ります。霊知とは「祈る知性」です。
   わたしたちは神様によって創造された人間です。だから自分の力で創造することはできません。芸術家もそうです。発明家もそうです。神様の創造のみ業に参与すること、与ることができるだけです。人間である限りは、どんなに「立派なこと」でも、それは「律法」の段階です。律法は立派だと思わせてくれます。どうすべきかを教えてくれます。しかし、律法は、それだけでは創造を実現する力として働いてはくれないのです。本当の意味での創造は、人間の努力の及ばないことだからです。パウロは「霊知の律法」を与えられた。しかし自分の中には、「肉の無力」が宿っている。それどころか自分の内に「罪の律法」が働いて、悪いことを考えたり行なったりするように仕向けてくる。「自分は立派なことを行なおうと思っても、その自分に悪が宿っている。」ことを発見するのです。だからパウロは悟ったのですね。人間は造られたものであること。創造は造り主がなさること。神様の御霊が働いて初めて創造のみ業が成就することです。
(7)霊知と御霊
   ではいったい、霊知と御霊とはどういう関係にあるのでしょう? 引用(5)を読みます。ここは、考えだすと難しいですが、あまり難しく考えないでください。まず「わたしの霊は祈る」とありますから、この「霊」はキリストの御霊のことではありません。御霊に導かれて祈る時に、御霊に支配されますとね、自分でもよく分からないままに霊的に動かされている状態になります。異言もそうですね。自分でも分からないけれども、舌が勝手に動いて語ります。ところがパウロは、「わたしの霊」では祈っても「わたしの霊知」は実を結ぶ状態ではないと不思議なことを言っています。自分の「霊」と「霊知」とを区別するのがややこしいので、ここの「霊知」は「心」と訳すほうが分かりやすいでしょう。「わたしの霊は祈るが心は祈っていない。」こういう状態があるのですね。「ああ、なんだか勝手に舌が動いている」なんて、異言で語りながら心で思っている。
   実はここのところを「霊」よりも「霊知/心」のほうを上に置いて、「霊で祈るのではなく、むしろ理性のほうで祈ろう」と解釈する人がいます。異言は聞いても分からないから、分かる言葉、すなわち人間の「理性の」言葉で祈るほうが大事だという解釈です。霊よりも理性ですね、これを上に置こうというわけです。これではうっかりすると御霊よりも自分の理性を上に置いてしまうことになります。パウロの言う意味と逆ですね。この解釈では、そのすぐ後の「霊でも祈り、心でも祈ろう」と続きません。ここでパウロが言いたいのは、キリストの御霊に導かれて祈る時には、わたしたちの「知性/理性」をも御霊の導きに委ねなさい。「心から」御霊に委ねて従いなさいという意味です。「御霊に導かれる」というのは、ガラテヤ人への手紙(5章16節/25節)に出てきます。「舌」は言葉を語る働きですから、舌を御霊の導きに委ねるのは、自分の言葉を御霊に委ねることです。異言だけでなく預言をする人がいますが、預言は、文字通り、自分の言葉を神の導きに「預ける」ことです。逆に言えば、神様から言葉を「預けられる」ことです。
   だからここでは、御霊に導かれて、霊が祈る時には、自分の心でも祈る。心を御霊の導きの方向へ「向ける」のです。わたしたちは自由な人格ですから、導きに心を向けることも向けないこともできます。異言の霊に委ねることも止めることもできます。ですから意志によって心を御霊の導きに向ける。これを「委ねる」と言います。「導かれて委ねる」、受け身と能動とが一緒になりますね。信仰とは受動即能動の不思議な事態です。御霊にある心に働く意志と選択ですから、これを「霊知」と訳すのです。「霊知」それ自体は、聖霊ではありません。それは人間に具わったものです。ここでは自分の「意志」が働きます。ですからパウロは、自分の思いと主の御霊の思いとを区別しています。ただし霊知がだんだんと深まっていきますとね。自分の霊知と御霊の働きとが、ほとんど一つになるような境地に到達することがあります。でもこれは、パウロのように、特別に御霊の導きに与った人たちだけに許されることです(第一コリント人への手紙2章16節参照)。
(8)御霊にある自己変容
   引用の(6)へ行きます。ここでわたしたちは「新しい自分」に出逢うことになります。「霊知を新たにされて変容する」のです。イエス様の新しい創造が、その人に生じているのです。そういう創造が日々新たにされることによって、あなたに霊知の価値観が成就していくのです。イエス様を通してその人に、新しい自分が示される。その示されている方向へ「向かおうとする」ことですね。これが霊的な知性の働きです。イエス様によって、霊知それ自体を新しくされるのです。霊知とはすなわちあなた自身です。あなた自身が変容していくのです。イエス様が復活されたとは、イエス様を通じて、人間が全く新しく創造されたことです。あなたの霊知をイエス様に向ける。これによって注がれるのが御霊です。どんな人でも、その心さえあれば、必ず授与される新しい霊の衣服です。霊知の律法/価値観を通して、これを成就してくださるイエス様ご自身へと向かう。イエス・キリストとの深い交わりに入ることです。イエス様へ向かうとね、そこに働くのは「赦しの御霊」です。たとえ罪の律法のもとにいても赦されてしまう。罪赦されるとは、そういう御霊の力が現に働いてくださることです。あなた自身の現在の有り様に関わりなく、主様の導きに従おうとする時に働いてくださる御霊様がいてくださることです。
   わたしたちは造られた者、主様の御霊は創造する方です。創られた者と創り主。この溝を埋めてくださるのが、イエス・キリストの導きと聖霊のお働きです。だから大丈夫です。神様はわたしの願いをかなえてくださいます。イエス様はわたしの願いを聞き入れてくださいます。これが御霊に支えられた信仰ですね。万一そうは成らなくても、わたしはそれで満足です。だから焦らない。静かに主様のみ手にお委ねする。「あらゆる霊知を超える神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスによって守ってくださる」(フィリピ人への手紙4章7節)のです。「あなたがたの内に働きかけ、意志させ、行なわせていることは、神の御心から出ているからです。」(フィリピ2章13節)
   先に「悟る」と言いましたね。仏教で「悟る」と言えば、「諸行無常」、この世のものはすべて移ろいゆく空であることを悟ることでしょうね。色即是空です。これを諦めという人もいますが、この辺は仏教の大事なところなのでしょう。けれどもここで言う聖書の「悟り」は、少し違います。ここでの悟りは、人間は所詮「造られたもの」だと知ることです。神様は造り主だと霊知することです。ほんとうに新しい創造は、神様がしてくださる。神様からただで与えられる。「ああ、そうですか。有り難うございます。」こう言って戴くものです。自分の努力や自分の力で到達しようとするのではない。賜として受け取るものです。これが聖書の言う「霊知の悟り」です。仏教の言う悟りとはちょっと違いますね。神様は自分の造り主ですから、このわたしもイエス様の御霊によって、新しい姿に変えられていくのだ。どうか皆さん、このことを知っていただきたいのです。なお、 この講話の後で、司会の江里口順一郎さんが、イザヤ書43章1節〜5節と10節〜12節を朗読して締めくくってくださいました。
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