2006年
コイノニア会復活節講話
成長すること
  今年も復活節の時節がめぐってきました。「めぐってきた」というのは、実は復活節にはあまりふさわしくない言い方で、わたしたちの歩みは真っ直ぐに未来へ向かって進んでいます。ですからわたしの言う「節」は竹の節(ふし)のことで、これは実にいい言葉です。嵯峨野には竹藪がありますが、春に芽生えた筍が、ものすごい勢いで空に向かって真っ直ぐに伸びていきます。初めは竹の皮に包まれていますが、その中から美しい青竹がでてきて、時が経つとこれが段々と黄色になってきます。わたしなんかだいぶ黄色ですね。でも皆さんは青竹でみずみずしいです。まだ竹の皮に包まれている方もおられるかもしれません。
  そんなわけで、今日は「成長」についてお話ししたいと思います。「竹を割ったような人」という言い方がありますが、真っ直ぐで嘘がない。中になんにもないからカラッとしている。こういう人ですね。ナタナエルという人が、イエス様の所へ来た時に、イエス様が彼をご覧になって、「あなたは、ほんもののイスラエル人だ。その中に嘘がない。」こうおっしゃった(ヨハネ福音書1章47節)。
  「成長」と言いましたが、わたしの言うのは霊的な意味です。霊的な成長というのは、有り難いもので、歳をとっても少しも衰えません。身体的には衰えを感じますけれども、霊的には少しも衰えません。先へ先へと進んでいく。これは本当に不思議です。皆さんも、歳をとればわかりますよ。記憶力や体力は衰えますが、祈ったり、霊的なことを想ったりする力は逆に段々強くなってきます。
コイノニア会の霊性
  そこで霊的な成長というのはなんだろうと考えますとね。これには三つあると思います。英知と霊知と神智。この三つです。これを育てるのが、学ぶこと、祈ること、信じることです。
(1)学ぶことで育つのが「英知」です。もちろん祈りと信仰も必要ですよ。だから聖書を学ぶのですね。英知というのは、自分のあるべき姿を知ることです。これはイエス様の御霊によって与えられるあなた自身の姿です。「あなた自身」ですから、これはあなたに具わるものです。イエス様のお顔を描いた聖画を見ますとね、白人は白人らしく、黒人は黒人のように、メキシコ人はメキシコ人らしく、ジャワやフィリピンの人はアジア人のようにイエス様の顔を描いています。それぞれの人たちの顔でイエス様像を描きます。どれがほんものだろうなどと考えなくていいです。その人その民族に合うイエス様像がちゃんと与えられますから。だからあなた自身の歩むべき道、これを見失わないことです。イエス様のお姿を見失わないこと、これがあなたの英知を育てます。イエス様を英知するのです。「霊的に成長する」第一歩がこれです。コロサイ人への手紙1章9〜10節にあるとおりです。
(2)祈りによって育つのが「霊知」です。霊知というのは、いわゆる「霊の賜」に属することです。通常の人間の知恵ではない神様からくる知恵です。病気の癒しや預言やヴィジョン(幻)などがこれに入ります。これも基本的にはその人に与えられるものです。でもこういう「霊の賜」には危険も伴います。なぜなら、真の意味で神の霊から来る知恵なのか、自分の勝手な思いこみや妄想から出るのか、見分けるのが難しい場合が多いからです。ですから他人のことにこの霊知を働かせるのは控えるほうがいいです。少なくとも、初期の段階ではこれは止めるほうがいいです。他人を霊的にあれこれ言う人に対しては、警戒するほうがいいです。だからまず自分自身のことから始めて下さい。自分の未来について、ちょっとした日常の出来事でもかまいません。祈って、祈ったとおりになるかどうか体験してください。その結果、ああ、やはりこれは主の導きだったと分かる。こうやってだんだんと未来のこと、判断に迷うことを決めていくのです。間違えないでくださいよ。神様を試すのではありません。自分を試すのです。だから、わたしたちは占いやオミクジなどには一切頼りません。その代わりイエス様のみ名によって祈るのです。すると不思議なことが起こる。普通の人の目からは、別に不思議とも思わないことが、主様から出ていることがその人には分かる。霊知するのです。逆に今度は、人からとんでもない誤解を受けることがあります。わたしはかつて、「老獪な人だ」、こう言われたことがあります。「老獪」とは悪賢くて、世知に長けた人のことです。御霊の導きはそれくらい賢いです。物事の裏の裏まで見抜くからです。でもそれが御霊の賢さであることは、霊知できない人には分からない。だから、わたしが自分で謀ってやったと思われたのです。コロサイの信徒への手紙2章3節にあるとおりです。
(3)信じることによって与えられるのが「神智」です。もちろん学びと祈りと信仰から来るものです。神智というのは、人間の知恵を完全に離れたものです。だからこれはわたしたちには理解できない。だからこれは「来る」ものだね。これは特にわたしたちの死後にかかわるもの、永遠の命のことです。イエス様を信じる人には、自分がこの世から完全に消え失せても、それでも無くならない命、そういうものがあるのだということを知ることです。「色即是空」と言いますが、わたしたちの存在そのものは、空であって、死ねば一切がなくなります。人は死んでも名を残すと言いますが、残るのは自分で残そうと謀ったものではない。善いにつけ悪いにつけ、残るものは自分では決められません。残るもの、無くならないもの、それはイエス様にある信仰だけです。コロサイの信徒への手紙3章3〜4節にあるとおりです。今日は復活節ですから、このことを特に申し上げておきましょう。
コイノニア会の有り様
  ではこのような霊性を育てるコイノニア会の有り様について見ることにしましょう。コイノニア会の特徴は三つあります。
(1)便宜性です。わたしたちのコイノニア会は、月に一度の集まりですけれども、その代わりインターネットのホームページとメールで連絡を取り合います。最少限の集まりで最大限の連絡ですね。ホームページというのは実に有り難いです。第一にただで日本中に公表できます。第二にただで日本中の人が読むことができます。第三に出した後でもいくらでも訂正ができます。これなんかはわたしにとって実に有り難いです。第四にこれは皆さん案外気がつかないかもしれませんが、色を使えることです。 第五に、CD—ROMで、とても安く出版することができます。わたしが今日いなくなっても、コイノニア会のホームページはそのまま残ります。これだけ残れば、コイノニア会がどんな交わりであったかのかがよく分かります。とても安く出版できて、買う人も安く買えます。その上、活字にしようと思えばいつでも活字にできます。ずいぶん便利な時代になったものだとつくづく思います。コイノニア会は、こういう便宜性に支えられています。
(2)次は交わりです。これを保つことがコイノニア会にとってはとても大事です。今日のように互いに顔を合わせて直接交わりを持つ。どんなに世の中が便利になっても、連絡が緊密になっても、霊的な交わりの原点は今日のこの交わりです。だから、これは便宜性の逆ですね。聖餐は離れていては一緒にできません。聖餐は「コイノニア」(交わり)の象徴です。今まで復活節に聖餐を持ちませんでしたが、来年からは持ちましょうかね。これと、会誌の『コイノニア』です。これも皆さんのご協力のおかげで続いています。どうぞ自分の信仰を自分の言葉で書いてください。時間や場所や回数にこだわらなくても、こうしてコイノニア会は支えられています。
(3)コイノニア会の信仰とその霊性は、はっきりと三位一体の神観に基づいています。その上で、十字架の贖いと復活と聖霊降臨の三相一体です。カトリックであろうと無教会であろうと、これさえあれば、正統のキリスト教です。この一つでも欠けるなら、正しいキリストの福音とは言えません。共に祈り、共に聖餐に与るところ、そこにキリストのコイノニアが霊現します。どうぞ覚えておいてくださいよ。コイノニア会は世界中の正統キリスト教としっかりと結び付いています。皆さんが外国へ行って、聖餐に与るときっとこのことを体験します。だからどうぞお願いします。わたしのために、わたしたちのために日に一度祈ってください。これだけはお願いします。でもこのほかにひとつだけ、絶対に大切なことがあります。
(4)それは、コイノニア会のおひとりおひとりが、主様の御霊を宿して、霊的に成長することです。最初に申し上げたのがこれです。実は、これがキリストの教会の最終目標です。カトリックであろうとプロテスタントであろうと無教会であろうと、教会ではこれが一番大事なんです。教会が大きくなることではない。人数が増えることではない。ひとりひとりが、霊的に成長し続けていく。これです。一節、一節、段階を経て成長する。先ず小さな目標を定めて祈りつつこれに達する。そこからまた次の段階へと向かう。このようにすると、自信と励みがつきます。霊的な成長こそ最も大事です。便利さも交わりも目的はこれにあります。どうか皆さんこれを忘れないでください。

*この講話はコイノニア会東京集会(4月29日)と重複するところがあります。ただし、東京集会では、聖餐を持ちましたので、復活節講話の後半は省きました。
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