2006年夏期集会講話
受肉の出来事
先ずヨハネ福音書の1章1〜18節を読みます。この序の言葉は、大きく分けますと、1節から13節までと14節から18節までとに分けて見ることができます。1章1節に「初めに言があった。」とあって、宇宙創造の初めに、み言が存在していたと語ります。ところが、14節では、そのみ言が「わたしたちの間に宿った」と告げられます。1節ではみ言は「神と共に」あったと語られます。ところが14節では、み言は「わたしたちと共に」あるのです。1節ではみ言は「神であった」とあります。14節では、その神が「人間になった」と告げられるのです。「あった」と「なった」というこのふたつの間の落差です。この落差を言い表わすのに一番いいのは、マタイ福音書とルカ福音書に語られているクリスマス物語です。み言の出来事を言い表わすのに最もふさわしい物語です。このクリスマスの物語では、超越しておられる神から遣わされた御子が、わたしたち人間の間に入り込んで来られたという、この不思議が実にみごとに表現されているからです。
宇宙と人間を創られた神は、この自然界の「外に」おられるわけですから、超越した存在です。この超在の神が、その神性を宿したままのお姿で、わたしたちの内にあるいはわたしたちの間に宿るのですから、これは自然界に内在したことになります。世界を超越する方が、世界に内在するというのは、これは矛盾ですね。けれども皆さん、福音の本質は、この出来事に含まれる神秘に深く関わっています。わたしたちが福音を正しく理解するかどうかは、ここで語られている秘義、神秘です、これをどこまで深く洞察するかにかかっている。こう言ってもいいです。
み言が肉となった。この「なった」は、原語では「生じた」「起こった」です。したがってこれはひとつの出来事です。わたしたちは地上に生まれました。そしてわたしたちは皆、今の世からいなくなります。これは理屈ではない。わたしたちに起こる出来事なんです。だからこれは、考えたって分からない。受肉もこれと同じで、歴史上のひとつの出来事です。モーセの律法はそうじゃないよ。これは教えです。「殺してはいけない」「盗んではいけない」。これは教えです。でも、「み言が肉となった」というのは教えではない。これは出来事です。しかもこの出来事は、人類の歴史において、一度限りの出来事です。神様のロゴスが、イエス・キリストと成られて人類に啓示されたというのは、こういう意味です。だから、このイエス様のお生まれになった出来事を境にして、歴史を紀元前と紀元後に分けていますが、これもこの啓示から来ています。
この受肉の出来事は、一回限りと言いましたけれども、ヨハネ福音書では、同時にそれ以後のあらゆる人々にも生じる出来事として伝えられ、語られます。だからこれは、歴史上に一回限り生じた出来事が、実は、それ以後の多くの人々に生じる出来事の「しるし」です。「しるし」は、ギリシア語で「セーメイオン」で、「奇跡」とも言います。これは独特のことです。
神と人との出会い
では、永遠のみ言が、肉となってイエス様の内に宿ったというのはどういうことかと言いますと、歴史上の肉のイエス、この内にみ言であるロゴス・イエス様を観ることになります。これは「観」のほうです。外から見ているだけではどうにもならないから、霊的に観る。無限なお方が有限な世界に入り込んできた。人間の肉体に神様ご自身が宿った。超越的な存在が、内在的な存在になった。いろんなことが言えますが、そういう言い方では実はまだダメです。神様はそのみ言であるイエス・キリストをお遣わしになって、人間の弱さと罪深さ、これをご自分の問題として背負ってくださった。受肉とはこういうことを指しています。神でおられたキリストが、わたしたちと同じレベルの肉体的な存在となることによって、初めて、わたしたちの罪を赦し、弱いわたしたちを助け支える。こういうことができるのです。
だから、序の始めのほうは、創造のみ言、この14節からは、人間となったみ言。こういうことです。人間となったというのは、創造者である神が、創られた人間と出会うこと、「出会う」というのは「交わる」ことです。出会い方にもいろいろありますからね。肉の存在である人間が神様と出会って、み言を通して神と交わる。ここに福音の根本があるのです。だから、神様がイエス様を人間の肉体の姿でお遣わしになったのは、神様の偉大さと優越性、あるいは超越性、これを人間に見せつけるためではないのです。こういう解釈をする人もいますけれども、これは福音を全く理解していない。そうではなく、わたしたちと同じ肉体の姿で、地上を歩まれたイエス様です。だからこれは、パウロの言うとおり、「目いまだ見ず、耳いまだ聞かない」事態です(第二コリント2章9節)。こうしてわたしたち人間の側からは越えることのできない溝を神様のほうから踏み越えてこられたのです。人間と同じ姿になられたというのは、人間としてわたしたちが受けなければならない肉体にまつわるあらゆる苦悩をイエス・キリストを通して言わばご自分の苦しみとされた。神様がわたしたちの内に宿りわたしたちの間に御臨在くださることで、一人一人の苦悩を内側から支えてくださる。このような人間の姿をしたまことの神が、ここに啓示されたのです。造り主が造られた人間と出会い、そこに交わりが生まれるのです。
弱さの恵み
暗い部屋に光が射し込むと、今まで目につかなかったほこりが目につきます。このように、神様の御言葉が聞かれ、御霊が働きますね、わたしたちの内に潜むいろんな罪が、逆に甦ったように目に見えてきます。ちょうどレントゲンの放射線が、肉体の隠れた部分の患部を探り当てるように見えてくる。わたしたちの内に潜む醜い部分を映し出してくれるのは、ちょうどお医者さんが、レントゲンで肺結核の患部や癌の部分を探ったりするのと同じで、これを除去して治すためです。御霊がわたしたちの罪を照らし出す時には、わたしたちの罪を赦して、赦すことでこれを除去する。あるいは罪に負けない力を与えてくださるためです。
でもね皆さん、よく考えてみてください。レントゲンの放射線は、強すぎると大変危険なんです。同じように神様から差してくる御霊の光は、強すぎるといけないんです。暗い部屋に、すーっと光が差し込む。ああ、光が差し込んできた。光が見えるんです。光が見えるのはどうしてかと言えば、暗い中に少しだけ入ってくるから見えるんです。太陽光線をまともに見たら強すぎて見えるどころではないです。適当に弱いから見えるのです。人間が自分の目で光を認める。そして暗さを感じる。明るさで暗さを感じるのですから。おかしなことだね。ああこんな罪があるんだと見える。これは、イエス様という肉となった神様からの光が、「適度な明るさ」で照らしてくださるからです。神様は、人間の身の丈にあるやり方で、わたしたちの罪を赦し、わたしたちの肉の存在を贖い、一歩一歩と成就してくださる。ですから、「見える」というのは、おぼろです。ぼんやりとしか見えません。もう少しはっきり見えればいいのにと思うかもしれませが、そうではないのです。これが神様の深い配慮です。ですから、イエス様を通じて輝く恵みは、ぼんやりとしか見えない。だから「恵み」なんですよ。強かったら恵みにならないのです。「恵み」とは弱いこと。はっきりとは見えないことです。ああ、なんだかあるんだなと分かってくる。そして少しずつ少しずつ、子供が成長するように、「恵みの上にさらに恵みを受けて」、だんだんと大きな恵みへと導いてくださる。「恵みと真理に満ちたお方」だということが、だんだんと示されてくるのです。
このようにして、み言の光に照らされて、御霊の御臨在に触れた人は、自分の身に生じたことを何とか人に証ししたい。こういう気持ちに迫られてきます。洗礼者ヨハネが、イエス様の栄光を自分の目で見た時に、「声を張り上げて叫んだ」とあります。彼は叫ばざるをえなかった。わたしも時々叫びますが、もう叫ばないようにします。彼が叫んだのは、イエス様の内に神の御栄光を観ることができたからです。だからみ言の御栄光を観た者はだれでも、この洗礼者ヨハネと同じに、証しする者にならずにおれないのです。
み言の超在と内在
超在の神が、み言をお遣わしになってわたしたちの内に内在してくださる。これは大きな矛盾です。もしもみ言が、超越のまま留まっているのならば、人間の歴史の中に、具体的な肉体を採って顕われるなどということはありません。超越したままで、人間の世界に入ってくるとすれば、イエスという人間は、超越のみ言であるロゴスが、仮に肉体をまとっているだけの姿だということになります。こうなりますと、十字架にかかったのは、肉体のイエスのほうで、み言のキリストは、すでにその時にそこにいなかった。こういうことになります。これではみ言は、雲の上から人間界を見下ろしている存在になってしまいます。こういう考え方をした人たちもいました。でもみ言の受肉とは、そうではないのです。
逆にそういう超越した存在ではなく、宇宙と自然の中に内在して、組み込まれている。こうなりますと、自然のありのままの姿ですから、これは繰り返し地上に現われてきます。自然の現象として繰り返し出てくることになります。だからヨハネ福音書の受肉では、歴史上に一度限り啓示されていて、しかもそのことが、それ以後の一人一人の内に生じて来るという、この二つの面を具えているのが受肉の出来事です。超在即内在です。
欧米のキリスト教は、大体において、超在のほうから内在を見る傾向があります。「超越的内在」です。超越と内在とを結ぶのですが、これを超越の側から見る。唯一の真の神、この神がイエス・キリストとなって、人間の世界に降った。父→御子→聖霊のように、上から順番に見るのです。だいたいこれが、欧米の伝統的なキリスト教神学です。ところがこれを逆に見ると、わたしたち内在の側から超越の神を見ることになります。これは「内在的超越」です。超越的内在か。内在的超越か。なんだか言葉遊びみたいですが、これは同じことをちょうど反対側から見ているのです。受肉を超越から見るか、内在から見るか、です。実は、「内在的超越」という言い方は、西田幾多郎の論文に出てくるのです。三位一体の神と言いますが、超越的内在から見れば、父から御子へ御子から聖霊へと、上から下へ降ってくる。ところがこれを逆に見るならば、わたしたちの側から、祈りと御霊に感じて復活のイエス様を観る。そのイエス様を通して初めて、超越の神、超在の神を信じることになります。
ヨハネ福音書14章(8〜9節)で、フィリポがイエス様に、「わたしたちに父を見せてください。そうすれば納得します」と言いました。するとイエス様が言われた。「フィリポ、あなたはまだ分からないのか。わたしを観た者は父を観たのだよ」と。イエス様は、ご自分を通して超越の神が見えてくるよと言われたのです。ほんとうの意味での唯一まことの神、「この神を見た者は、いまだかつていない」のです(ヨハネ1章18節)。ただ、父の独り子であるみ言のイエス様だけが、ひとりひとりに父を顕わしてくださるのです。これが聖霊のお働きなのです。聖霊にあって御子を観る。御子を通じて父の神を知るのです。
この間の『コイノニア』(2005年52号)のヨハネ福音書の講話で、わたしは、人類共通の唯一の神は、まだ現実には顕われていないという意味のことを書きました。御霊から御子を知り、御子を通じて初めて、超越の神へといたる道が示されると。聖書は唯一神教を教えてはくれない。御霊とイエス様の導きによって、人類は唯一の超越の神へと導かれていくからです。聖書はこの意味で、唯一神教を「創り出していく」書であると書いたのです。それもひとりひとりの内に働く御霊を通じて、神はこの啓示の業を成就していかれると書きました。するとある方からメールが来ました。聖書の神が唯一の神でないのなら、どうして聖書には、神は唯一であると書いてあるのか。こういう批判をいただきました。この方は、おそらく教会で、聖書の神は唯一の神であると聞いて、これを信じておられるのだと思います。この方の言うのは、もっともです。けっして間違いではありません。超在の神から、現実の世界を見るとこう見えるのです。ところが、現実の世界から見ると、唯一の神などどこにも存在しません。キリスト教の神、イスラム教の神、ヒンズーの神々、日本の「やおよろず」(八百万)の神々、仏教の諸仏、こういうものは存在しますが、唯一の神はどこにも見あたりません。内在の側から見るとこう見えるのです。
この方もわたしも同じことを言っているのです。けれども、超越から内在を見るのか、内在から超越を見るのか、これによって全く違う見方になるのです。わたしは、一人一人の内に内在する御霊の働きから出発するのです。教会や教団もあっていいです。けれども、具体的な一人一人の存在を抜きにして、抽象的な「教会」や「宗団」を信じないのです。なぜなら、神は御子を遣わし、御子は聖霊を遣わして、わたしたち一人一人の内に内在する方として働いておられるからです。個人個人の固有の霊性を通してしか御霊は働かないのです。わたしたち一人一人の固有の霊性を抜きにして、教会が全員一体となって動く。こういう「聖霊運動」は、よほど注意しないと危険を伴います。そうではなく、どこまでも自分自身の内から出発する。コイノニア会はここが違うのです。一人一人の内に宿るイエス様の御霊、これです。これがコイノニア会の霊性です。