ナザレのイエスの御名によって
■神と人との出会い
先ほど司会の方が、ペトロが美しの門の前に座っていた足の萎えた人に向かって、「ナザレのイエスの御名によって歩け」と命じると、その人が歩き出したとあるのを引いてお話くださいました。これは実に不思議な導きで、わたしのこれからの話の何よりもいい前置きになります。先ず、ヨハネ福音書の1章1節から18節までをお読みします。
ここの14節に、「言葉は肉となってわたしたちの間に宿った」とありますが、これはどういうことかと言いますと、かつてこの地上におられた歴史上のイエス様ですね、このイエス様の内に、永遠のみ言がね、神様のみ言(ことば)であるロゴスが、聖霊となって宿られたという意味です。だからわたしたちは、イエス様の内に神様を観ることになります。これは「観」のほうです。外から見ているだけではどうにもならないから、霊的に観る。神様という無限なお方が、わたしたちの住んでいるこの有限な世界に入り込んでこられたのです。人間の肉体に神様ご自身がお宿りになったのです。哲学的に難しく言えば、超越的な存在が、内在的な存在になった。こういうことになります。しかし、実はそういう言い方ではまだダメなんです。神様はそのみ言であるイエス・キリストをお遣わしになって、人間の弱さと罪深さ、これをご自分の問題として背負ってくださった。「受肉」というのは、こういうことを指しているんです。神でおられたキリストが、わたしたちと同じレベルの肉体的な存在となることによって、初めて、わたしたちの罪を赦し、弱いわたしたちを助け支える。こういうことができるのです。
「すべてのものがこれによってできた」とあるように、創造の神様のみ言が、人間となった。こういうことです。人間となったというのは、創造者である神が、創られた人間と出会うこと、「出会う」というのは「交わる」ことです。出会い方にもいろいろありますから。肉の存在である人間が神様と出会って、み言であるイエス様を通して神と交わる。ここに福音の根本があります。だから、神様がイエス様を人間の肉体の姿でお遣わしになったのは、神様の偉大さと優越性や超越性、これを人間に見せつけるためではありません。そうではなく、わたしたちと同じ肉体の姿で、地上を歩まれたイエス様のことです。だからこれは、パウロの言うとおり、「目いまだ見ず、耳いまだ聞かない」事態です(第二コリント2章9節)。こうしてわたしたち人間の側からは入っていくことのできない世界へと、神様のほうからわたしたちの所へ来られて、導き入れてくださるようにしてくださったのです。人間と同じ姿になられたというのは、人間としてわたしたちが受けなければならない肉体にまつわるあらゆる苦悩をイエス・キリストを通して言わばご自分の苦しみとされたことです。神様がわたしたちの内に宿り、わたしたちの間に御臨在くださることで、一人一人の苦悩を内側から支えてくださる。このような人間の姿をしたまことの神が、ここに啓示されたのです。造り主が造られた人間と出会い、そこに交わりが生まれるのです。
■み言の超在と内在
超在の神が、わたしたちの内に内在してくださる。これは大きな矛盾ですね。もしも超越したままのお姿で、人間の世界に入りこむことになりますとね、イエスという方は、人間ではないことになります。これは「ナザレのイエス」のことではないね。ギリシア神話のゼウスだとか、ローマ神話のジュピターだとか、日本の神話のアマテラスオオミカミのように、この地上に実際に存在したこともない「カミ」になってしまいます。だから、こういう「イエス・キリスト」というのは、「仮の姿として」人間の肉体をまとっているだけだということになります。こうなりますとね。十字架にかかったのは、「肉体の」イエスのほうだけで、肝心の霊的なキリストは、そこにはいなかったことにもなります。これではわたしたち人間の罪の赦しも、十字架の贖いも働きません。これでは、神様もイエス様も、雲の上から人間界を見下ろしているだけの超越の存在になってしまいます。「み言の受肉」とは、そういうことではないんです。
ヨハネ福音書の伝える受肉とは、歴史上に一度限り啓示されたイエス様が、復活されて、それ以後の一人一人の内に宿ってくださるという、こういう不思議な出来事なのです。ただの超在でもなければ、内在だけでもない。超越した父の神と、地上のナザレのイエス様、それに、わたしたちの内に内在する神からの聖霊、この三位一体が、2000年前に起こった受肉の出来事で実現したのです。これは言葉では説明できない三位一体の神様の不思議です。だから、こういう三位一体の神様は、見方によっては違った姿に見えます。
キリスト教の神は、ひとつには、超在のほうから内在を観ることができます。難しく言えば「超越的内在」です。これを超越の側から見ると、唯一の父の神、この神の御子イエス・キリスト、人間の内に宿る聖霊の順番に見えてきます。父→御子→聖霊のように、上から順番に見るのです。だいたいこれが、欧米の伝統的なキリスト教神学です。もうひとつは、これを逆に見ると、わたしたち内在の側から超越の神のほうへと見ることになります。これは「内在的超越」です。これは同じ神様をちょうど反対側から見ているのです。三位一体の神と言いますが、わたしたちの側からこれを観ると、祈りと御霊に感じて復活のイエス様を観る。そのイエス様を通して初めて、超在の父なる神を信じることになります。
ヨハネ福音書14章(8〜9節)で、フィリポがイエス様に、「わたしたちに父を見せてください。そうすれば納得します」と言いました。するとイエス様が言われた。「フィリポ、あなたはまだ分からないのか。わたしを観た者は父を観たのだよ」とね。イエス様は、ご自分を通して超越の神が見えてくるんだよと言われたのです。ほんとうの意味での唯一まことの神、「この神を見た者は、いまだかつていない」のです(ヨハネ1章18節)。ただ、父の独り子であるみ言のイエス様だけが、ひとりひとりに父を顕わしてくださるのです。これが聖霊のお働きなのです。聖霊にあって御子を観る。御子を通じて父の神を知るのです。
■唯一神教を創り出す御霊
この間の『コイノニア』(2005年52号)のヨハネ福音書の講話で、わたしは、人類共通の唯一の神は、まだ現実には顕われていないという意味のことを書きました。御霊から御子を知り、御子を通じて初めて、超越の神へといたる道が示されるとね。聖書は唯一神教を教えてはくれない。御霊とイエス様の導きによって、人類は唯一の超越の神へと導かれている。聖書はこの意味で、唯一神教を「創り出していく」書であると書いたのです。それもひとりひとりの内に働く御霊を通じて、神はこのような啓示の業を成就していかれると書きました。するとある方からメールが来ました。聖書の神が唯一の神でないのなら、どうして聖書には、神は唯一であると書いてあるのか。こういう批判をいただきました。この方は、おそらく教会で、聖書の神は唯一の神であると聞いて、これを信じておられるのだと思います。この方の言うのは、もっともです。けっして間違いではありません。超在の神から、現実の世界を見るとこう見えるのです。ところがね。現実の世界から見ると、唯一の神などどこにも見えてきません。まるで存在しないようです。キリスト教の神、イスラム教の神、ヒンズーの神々、日本の「やおよろず」(八百万)の神々、仏教の諸仏、こういうものは見えますが、唯一の神はどこにも見あたりません。内在の側から見るとこう見えるのです。
実はこの方もわたしも同じことを言っているのですね。けれども、超越から内在を見るのか、内在から超越を見るのか、これによって全く違う見方になるのですね。わたしは、一人一人の内に内在する御霊の働きから出発するのです。具体的な一人一人の存在を抜きにして、抽象的な「教会」や「宗団」や「超在の神」を信じないのです。なぜなら、神は御子を遣わし、御子は聖霊を遣わして、わたしたち一人一人の内に内在する方として働いておられるからです。個人個人の固有の霊性を通してしか御霊は働かないのです。わたしたち一人一人の固有の霊性を抜きにして、教会が「全体として」働く。こういう「聖霊運動」は、わたしは非常に危険だと思うのです。そうではなく、どこまでも自分自身の内から出発するのです。これがコイノニア会の精神です。