2006年東京集会
イエス様の聖霊
■「あった」と「なった」
先ず一緒に御言葉を読みたいと思います。ヨハネ福音書1章の1節から13節までと14節から18節までとをお二人の方に朗読をお願いします。ここは、これが分かればキリスト教が分かると言ってもいいところです。皆さんはかなり長い間信仰を持ってこられたので、少し難しいけれども、福音の根本的なところをお話ししたいと思います。特に14節の「み言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」が、真ん中の軸になっています。ここで「肉」とあるのは「人間」と置き換えてもらっていいでしょう。1節と14節とは対応しています。1節は「初めにみ言があった」です。「み言」は「ロゴス」で、永遠の神様の御言葉のことです。これに対して14節では、「み言は人間となった」です。次は1節で、「み言は神と共にあった」です。14節では「み言はわたしたちの間に宿った」です。「宿った」は、「み言はわたしたちと共になった」と読んでもいいです。1節では「み言は神であった」です。14節のほうは、「わたしたちは父の独り子の栄光を見た」(原文訳)です。1節と14節とが、「あった」と「なった」で対応しています。
「あった」のは永遠の神様の世界。「なった」のはこの世の人間の世界です。この「あった」と「なった」、この間がなかなかつながらないのですね。「み言」とはイエス・キリストのことです。だからキリストは神であったと言うのです。「イエス」は名前です。「キリスト」は名字ではないですよ。これはギリシア語で「救い主」のことですから、「イエス・キリスト」は「救い主イエス」のことです。イエスは人間です。紀元前4年頃にお生まれになって、十字架でお亡くなりになったのは、多分30年くらいです。だからおよそ33年の生涯です。でも、この当時は平均寿命が短いですから、今から考えるほど短命ではなかったのです。
この「あった」と「なった」の関係が難しい。なぜかと言いますと、「なった」は「なること」ですから、「病気になる」「悪くなる」「よくなる」のように、これは出来事なんです。だから「教え」ではないのですよ。どうして「よくなった」のか、その理由はいろいろあります。ギリシア語の原語は英語の“happen”です。だからわたしたちが生まれて、いつかいなくなるのと同じ出来事です。「なぜ生まれたのか?」と聞かれても答えられませんね。これは出来事ですから、そのわけを尋ねられても分からないのです。だから難しいのです。「あった」が「なった」とつながるのは、出来事です。先ほど異言が出たことを話していましたが、あの異言も出来事です。なんだか分からないけれども「起こった」のです。「なんだか分からないこと」が起こったのです。
■人間イエス
では神様が人間に「なった」というのは、いったいどういうことだろう? こういうわけです。イエス様が偉いお方だということは、誰でも分かります。でも偉いお方が、神とは限りません。偉い人たちは多くいても、その人たちが神だとは言わないのです。お釈迦さんは偉い人ですが、お釈迦さんは人間です。お釈迦さんは「悟った」のです。「み言が人間になった」のは、イエス様の内に神が霊となって宿られたことです。この霊を「聖霊」と言います。聖霊は神様の霊のことです。「聖霊」は人間や妖精のような「精霊」ではありませんよ。「怨霊」という呪いの霊もあります。でもヨハネ福音書では、1節にある神様の霊がイエスという人間に宿ったことです。ですから神の聖霊が宿ることでイエス様が「できた」、赤ちゃんができたと同じ意味で、「生じた」「生まれた」のです。神様の聖霊が宿ったお方がイエス様です。
でも現代では、「人間イエス」と言って、イエスは人間にすぎないと考える人たちも多くいます。この人たちはイエスを偉い人として尊敬します。このように言う人は日本にもけっこういます。こういうイエスのことを「史的イエス」と言います。歴史に存在したひとりの人間としてのイエス像です。これに対して、信仰するイエス様のほうは「信仰のキリスト」と言います。クリスチャンのイエス様がこのイエス像です。イエス様を尊敬するのはそれでいいです。でもそれではまだ十分ではないですね。何が十分でないかと言えば、それは人間のレベルでイエスを見ているからです。そのイエスという人間に内に神様の聖霊が宿っていること、これは見ていないんです。だからそういう見方をしている人には、イエス様の御霊は働かないのです。いくら聖書を学んでも、イエス様の霊はその人には働かない。英文学の先生たちは、キリスト教の詳しい知識を持っています。でも、その人たちはクリスチャンとは限りません。その人たちの内にイエス様の御霊が働いているわけではないのです。いくら知識があっても、人間としてのイエスを研究している間は、その人に聖霊は働かないのです。例えば、レオナルド・ダヴィンチを研究しているのと同じで、レオナルド・ダヴィンチをいくら研究しても、その霊がその人に宿るとは言わないのです。
ヨハネがここで言うのは、神様の聖霊が、イエス様に「宿った」ことです。先ほどの方が異言が出たと言いました。その時、イエス様の聖霊がその人に働いたのです。だから、イエス様の内に聖霊が宿っていることが見えるか、見えないか。これがほんとうのクリスチャンになるかならないかの境目です。これは出来事です。「ああ、そうか」と分かる。見るは見るでも、ただ見るのではない。こちらは「観る」ほうです。「わたしたちはその栄光を観た」と訳したほうがいいですね。「見て信じる」のを「観る」というのです。人間イエスの内に神様の聖霊が宿り、それが「恵みと真理である」ことを観たのです。聖霊のお働きをイエス様の内に見るか見ないかが大事なのです。
■キリストは十字架にかからず
イエス様を人間としてしか見ない場合をお話ししましたが、もうひとつ別の場合があります。イエスという人間とそのうちに働く聖霊、この「人間」と「聖霊」、この二つをはっきりと分けてとらえる人たちです。「あった」と「なった」が、これでは結び付いてきません。だから人間としてのイエスとそこに宿る聖霊とを分離してしまうのです。こうなると、十字架にかかったのは肉体を具えた人間としてのイエスのほうであって、イエスの内に宿る聖霊、キリストのほうですね、これは十字架とは無関係で、無傷で天へ帰ってしまった。こういうことになるのです。だから「十字架にかかって死んだ」のは人間のほうのイエスであって、そこに宿る「キリスト」は、それ以前に肉体を離れてしまっています。2世紀に、「グノーシス」という異端がでてきましたが、この人たちはこのように二つに分離して考えました。だからこの人たちに言わせると「キリストは十字架にかからず」です。
■働く神
ところが問題はここからです。イエス・キリストが神である。人間イエスが神である。さあ、ここが分からないのです。「ユダヤ人には躓きとなり、異邦人には愚かに聞こえる」とパウロが言ったのがこれです(第一コリント1章23節)。わたしが先ほど、これは、分かる、分からない、ではないよ。これは出来事だよと言ったのはこれです。聖霊と言いますが、「聖霊」とはなんですか? 皆さんはこれを訊きたいだろうし、わたしも説明したいのです。でも「神様とはなんですか?」こう言われても説明できません。「なんですか?」と言われても説明できませんが、神様の聖霊が、どんな風に「働くか」ということ、これについては語ることができます。イエス様は「わたしの父は今も働いておられる。だからわたしも働く」と言っておられますが(ヨハネ5章17節)、この「働く」ですね。イエス様はここで、「わたしの父はこういう方だと」説明しているのではありません。イエス様は父が「働いておられる」と言っているのです。
命とは何か? こう聞かれてもわたしには答えることができません。でも、命がどんなふうに「働くか」? こう聞かれればわたしでも言うことができます。「今日は調子がいい」とか、「今日はどうも体の具合が悪い」とか、「元気そうに見える」とか「なんだか顔色が悪い」とか、その人に働く命の働きは、わたしたちにも分かるのです。このように、わたしの命、あなたの命の「働き方」についてなら、言うことができるのです。説明はできなくても働きは分かるのです。聖書の神は、哲学的に理解できません。「なる」神様、「起こる」神、ヘブライの神様は、常に動いて働くのです。だからこの神は、創造する神です。常に創り出し続けておられる。わたしたちの心臓の鼓動のように、刻一刻と働いて、命を創り出しておられるのです。
■イエス様は聖霊の神殿
ですから、人間イエスの内に聖霊が宿ったというのは、イエス様を通して神様が聖霊となって働いておられることです。イエス様の肉体を通して、神様の御霊が顕われたことなのです。どうしてそうなのか? そのわけはなかなか分からない。「あった」から「なった」へ、この結びつきを哲学的に説明してくださいと言われてもこれは難しいです。でも、何が起こったのか? これは分かるのです。イエス様という人間を通して、神様の聖霊が「働いた」ことは分かるんです。信じることができるのです。福音書が伝えているのはこのことです。人間イエスなら分かる。これではまだダメです。キリストの精神は理解できる。これでもまだダメです。「人間」を「肉体」と「精神」とに分けて考えて、肉体のほうは滅びるけれども、精神のほう理解できるではまだダメです。
精神も肉体もどちらも「人間のもの」です。この人間イエスに神様の聖霊が働くのですから、イエス様の精神と肉体の両方を通じて、神様の聖霊が顕われることです。これをイエス様の「霊性」と呼びます。ですから「霊性」には、その人の肉体と精神が両方とも含まれます。イエス様は、神様の聖霊が宿る神殿なんです。だからイエス様は、ご自分の「からだ」をエルサレムの神殿にたとえられたのです(ヨハネ2章21節)。人間イエスを通して神様が働いたこと、聖霊が働いたこと、これが分かること、信じること、これがクリスチャンかどうかの分かれ道です。これを信じている人は、クリスチャンです。その人の内に聖霊の宿りがあるからです。イエス様の御霊が働いているからです。
逆に言えば、クリスチャンかどうかは、これで決まるのです。そのほかのことはどうでもいいのです。教会へ行っているか、いないか。洗礼を受けているかいないか。異言を語るか、語らないか。どの宗派、どの教団に属しているか。どれだけ知識があるか。何年信じているか。どの民族か。こういうことはどうでもいいのです。「このような人は血筋や人の欲によるのではなく、ただ神によって生まれた」からです(ヨハネ1章13節)。
■復活の御霊
そこで、人間イエスを通して神様の聖霊が働くことが、どうしてそんなに大事なんですか? どうしてそのことにそんなにこだわるのですか? それにこだわらなければ、もっと分かりやすいのになぜですか? こういう疑問が湧いてきます。レオナルド・ダヴィンチなら、死んだらその人の才能はそこで終わりです。彼の書いたもの、その絵や数々の業績はもちろん遺ります。これが普通の「偉い人」のすることです。でも死ねばその人の才能はそこでなくなります。ところが、イエス様は、人間でありながらそのうちに神の聖霊が宿っておられた。この方が十字架につけられてお亡くなりになったのです。イエス様はここで終わったのでしょうか? そこに宿るのは「神様の聖霊」なのです。レオナルド・ダヴィンチの才能ではないのです。だからイエス様は、その十字架で終わらなかったのです。神様の聖霊はイエス様を復活させたのです。それはイエス様に働く神の聖霊が、今度はわたしたち一人一人にも働くための神のご計画だったからです。
イエス様に働く神の聖霊ですから、聖霊は、イエス様の復活によって、わたしたちの内に働いてくださるようになった。ここが大事なんですが、わたしたちの精神だけではなく、わたしたちの肉体、わたしたちの「からだ」にも働いてくださるのです。これが、イエス様が成し遂げてくださった、わたしたちのための十字架の贖いの御業です。だからイエス様は、わたしたちに、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とものすごいことを言われた(ヨハネ6章54節)。人間イエスしか見えない人は、この御言葉を聞くと、とてもまともに聞いておれないと言って、立ち去っていったのです。
起こった出来事は、人間イエスに聖霊が宿る→十字架→復活→聖霊による救い、この順番です。でもわたしたちが御霊によって救われるのは、ちょうどこれと逆の順序です。御霊の働きによって、イエス様の復活を知る。そこから十字架のイエス様の贖いの愛を知る。そして、イエス様のおからだを通して働いた聖霊の宿りを知るのです。後になって先のことが分かるのです。これを「想い出す」と言うのです。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたに話したことを、ことごとく想い起こさせる」とあるのはことです(ヨハネ14章26節)。
だから、イエス様の御霊は、わたしたちのような人間にも働いてくださる。ここが大事なところです。そうでなければ、神様の聖霊が、こんなわたしたちのような人間の心と体に働いてくださることなど、とても信じられません。これが御霊の働きです。これが命なんです。精神ではないのです。人間の全存在に働く造り主の神様の聖霊なんです。説明できないのです。訳が分からないのです。でも働いてくださる。「万物はこれによってなった。なったものでこれによらないものはない」からです(ヨハネ1章3節)。
■恵みの弱さ
だからわたしたちがどんな状態になっても、大丈夫です。どん底から救ってくださるのです。あなたが祈る時、あなたはあなたの造り主様に向かって祈っているのです。あなたの髪の毛の数さえご存じの方です。だからわたしたちの調子がいいとか悪いとか、わたしたちが人間的にどうだとかこうだとか、そういうことは聖霊さまのお働きには関係がないのです。極端に言えば、どこに御霊が働いていてくださるのか、さっぱり分からない。こういう人でも、ちゃんと御霊は支えてくださるのです。信じていると意識するのもいいですよ。でも意識しなくても聖霊さまは働いてくださるんです。ものすごいことが起こったんですよ。
でも、御霊の働きが心に働く時には、いろいろなことが見えてきます。自分の内に潜んでいる罪が見えてくるんです。レントゲンの放射線みたいに、体の中にある患部や癌を写し出してくれます。でもあわててはいけません。医者に頼るように、造り主の御霊にお委ねするのです。レントゲンの放射線のたとえを出しましたので、言いますが、この放射線は、あまり強いと危険です。雷の電気みたいに強すぎると怖いです。強すぎるのは危険なのです。でも「適度に弱い」ととても役に立ちます。聖霊の働き、神様の働きは、強すぎてもいけないのです。神様は、一人一人に応じて適度に働いてくださるのです。これが神様の「恵み」です。聖霊さまと言うけれども、ぼんやりとしていて、なんだかよく分からない。皆さんは、よくこう言います。でも、その「ぼんやり」が恵みなんですよ。だからあまり急がない、焦らなくていいのです。「恵みとは弱いこと」なのです。だから心配要りません。天のお父様は、ちゃんと働いて、わたしたちを支えてくださるからです。だから一歩一歩と歩んでください。主様は御霊を通して必ずあなたを導いてくださいます。