2007年夏期集会講話
もう一人のイエス様
■時の中を歩むイエス様
今回は、ヨハネ福音書14章15〜17節からです。ここは皆さんご存じの通り、イエス様が弟子たちと別れて十字架へ向かう直前の「別れの説話」の御言葉です。イエス様は、今は弟子たちと別れて行くけれども、その代わりに「もう一人の弁護者」をあなたたちにお与えになるよう父にお願いしよう。こう言っておられます。「弁護者」とあるのは、ギリシア語で「パラクレートス」です。「パラクレートス」というのは、法廷で訴えられた人を弁護する人のことですが、もっと広い意味で、助ける人、慰め励ます人という意味も含まれています。新共同訳では「別の弁護者」となっていますね。これでもいいんですが、「別の」は「別に」のことではありませんから注意してください。「別に」であれば、今おられるイエス様の「ほかに」、別にいることになります。そうではなくて、ここは「別の」弁護者です。これはイエス様以外の弁護者のことではなく、イエス様の「代わりの」です。だからイエス様は「弁護者」ですね。
イエス様は、弟子たちと一緒に地上におられた間、弟子たちに向けられる様々な非難やそしりをご自分のものとしてかばってくださった。それだけではく、人びとから非難された人たち、権力者から蔑まれた人たちをかばい、彼らを助け、慰め励ましてくださった。なによりもイエス様は、悪霊や悪魔の苦しみや攻撃から人びとを護ってくださった。だからイエス様は、「パラクレートス」の役割をしてくださったのです。なぜイエス様はこのようにされたのでしょう? それは、イエス様の父なる神がこのようにされる方だからです。イエス様の父なる神は、己を低くするものを高くし、己を高くするものを低くする神です。「高い者を低くし、低い者を高くする」(ルカ1章51〜53節)のが聖書の神様の特長です。
このイエス様が今弟子たちから離れ去って行こうとされている。でも大丈夫だよ。わたしは父にお願いして「もう一人の弁護者」を遣わしていただくからと言われるのです。これがパラクレートス。「もう一人のイエス様」のことです。ですから、「パラクレートス」とは、第一に地上を歩まれたナザレのイエス様のことです。このイエス様が復活された。そしてパラクレートスの御霊として遣わされて、わたしたちといつまでも共にいてくださる。でもそのお姿は、わたしたちにはまだはっきりとは顕われていません。世の終わりには、はっきりとしたお姿で、人びとの前に顕現します。だから、
(1)地上におられたイエス様。
(2)復活されたイエス様。
(3)聖霊となって降られて、わたしたちと共におられるイエス様。
(4)世の終わりの時に再臨するイエス様。
これらの過去・現在・未来のイエス様がひとつになって、パラクレートスのイエス様として、わたしたちと共に御臨在くださる。共に歩んでくださる。これが新約聖書の伝えるイエス・キリストです。キリストの教会は、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、ギリシア・ロシアの東方教会であろうと、この同じイエス様をキリストとして礼拝し、信じつつ歩んできました。今も歩んでいます。これからも歩んでいくでしょう。「イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることがない」のです(ヘブライ13章8節)。
■三位一体の宿り
ところで、今回の箇所で、もうひとつ大切なことがあります。それはパラクレートスの降臨が、イエス様から「父にお願いして」とあることです。だからパラクレートスは、イエス様の一存で遣わされたのではありません。父がイエス様のみ名を通してわたしたちにお遣わしになった。これがパラクレートスです。パラクレートスとイエス様はひとつです。しかもパラクレートスは、父がお遣わしになる真理の霊です(ヨハネ15章26節)。だから聖霊とは、主ご自身のことです。聖霊はただの「霊能」ではありませんよ。それはイエス様ご自身です。だから自分も「霊能」を身につけて、人びとに大いに訴えかけよう。こう思う人は注意したほうがいいです。霊能に溺れたり、霊能を私(わたくし)しようとしたり、うっかり霊能を自分の能力だと思い違いをすると大変なことになります。霊能がイエス様から切り離されると、そこらの新興宗教の教祖様の霊能と同じレベルになってしまいます。お金儲けの道具になる恐れもあります。霊能ビジネスになっては大変です。だから、聖霊と御子とは一つ、御子と父とはひとつ、御父と御子と聖霊様、これらは三位一体、ひとつになって働いておられます。三位一体というのは、宇宙の創り主の神様の有り様ですね。創造する神は、宇宙を造り、宇宙に宿り、宇宙の中の人間に宿ってくださる。これが神様の創造の御業です。だからこのイエス様の御霊を宿す人には、宇宙万物を造られた神ご自身が宿り、働いておられる。このような三位一体が、キリスト教の神のお姿です。
■顕われるイエス様
ところがイエス様は、ヨハネ14章17節で、「世は、この方を受け容れることができない」と言われています。皆さんは今回、わざわざこの集会にお出でくださった。でも皆さんは、この私市を喜ばすためにお出でになったのではない。そうではなく、主様を信じてお出でになった。それ以外にここにお出でになる理由がありません。私市のことはどうでもいいのです。あなたが、主を信じて、あるいは信じようとしてお出でになったこと、このことが<イエス様とあなたとの間で>とても大事なんです。イエス様の御霊とは、交わりの中に顕われるお方です。でも、同時にイエス様の御霊は、人間一人一人に顕われて、その人と共に宿り、その人と共に歩んでくださる。これが、「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる。わたしが父のみもとへ行くからである」と言われたことなのです。こんなすばらしい出来事がありますか。こんな有り難い賜(たまもの)がありますか。
「ヨハネこの方を受け容れることができない」とある「この方」とは、御霊のイエス様のこと、パラクレートスのことです。ところが、世の人びとには、このイエス様を観ることができません。イエス様の御臨在が「見えない」のです。なぜ見えないのか? この世の人たちは、「この方を見ようとも知ろうともしない」からです。いいですか。「見ようとしない」のです。「信じられない」とよく言いますが、「信じられない」のは「信じようとしない」からです。イエス様を「観る」と言い「信じる」と言い「知る」と言いますが、実はこれは全部同じことです。「見えない方を観て」とヘブライ人への手紙11章27節にありますが、これは「見えない方を信じて」と同じなのです。復活のイエス様を「観た」人、この人は復活のイエス様を「知った」人です。「観る」と「知る」と「信じる」はひとつです。御霊のイエス様の御臨在を「観て」いるのに「信じない」などということはありえません。
では、どうして見える人と見えない人とがいるのか? さあ、これが問題です。イエス様のお姿が見えない場合が、ふたとおりあります。ひとつは、見ようとしない、知ろうともしない人たちです。これがほとんどの場合です。「しない」とは、無視することです。「この世」のほとんどの人は、神様もイエス様も無視するのです。マザー・テレサがいいことを言いました。「愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無視である」と。その通りです。この世はイエス様を「愛さない」のです(14章24節)。
もうひとつ「見えない」タイプがあります。今度は、自分の力でいろいろと努力するタイプです。実はクリスチャンにはこのタイプが多いです。わたし自身もかつてはそうでしたから、これはよく分かります。一生懸命自分で考える。ああだ、こうだと、ひねくりまわす。お終いには、なんだか分からなくなります。これでは見えません。「見ようとする」のはいいです。でも、「自分でやろうとはしない」。これです。聖霊さまはわたしたちに近いです。「近しい」です。でも、聖霊は神ご自身の顕れなのです。だから、見てやろう、信じてやろう、などと思い上がって「努力する」のは逆です。そういうプライドを捨てることから始まるのです。自力で「見る」のではない。「見える」のです。「見える」のは「見させていただく」からです。だから、わたしたちが何かをするのではありません。自分勝手に動き回っていては、見えるものも目に入りません。だから神様に祈る。これだけです。イエス様、み姿を見させてください、顕わしてくださいと祈るのです。これ以外にありません。自分が御霊の前に低くされるほど、イエス様の父は、その人を高くします。
だから「しない」にはふたとおりあります。無視する「しない」と、自力で「しない」。一方は神様を拒む「しない」。もう一方は神様に祈る「しない」です。イエス様の御霊は不思議ですね。人の思いや考えとは逆に「させる」御霊と「させない」御霊です。自分には見えているものが、どうしてあの人たちには見えないのだろう? 皆さんは、時にはこう思うかもしれません。でも、「あなたがたが互いに愛し合うならば」世の人びとはそこにイエス様の御臨在を「観る」ことができるのだよ。イエス様はこう言われています(ヨハネ13章35節)。何が本当に大事なのか? これで分かりますね。
■イエス様の霊能
先ほど霊能についてお話ししましたが、今話したことは、そのまま霊能にも通じます。「この世」の人たちは、神様の霊能の働きを「見ようとも信じようともしない」のです。霊能には実にいろいろありますので、一概に言うわけにはいきません。でも、異言を例に取ってみますと、わたしなんかはずいぶん長らく異言を体験していますから、ごく当然なこととして受け容れています。ところが、世の人びとだけではなく、クリスチャンの中でさえ、異言を否定したり信じようとしない人たちがいます。最近はさすがにそういうクリスチャンは少なくなったけれども、それでも異言を批判する人、あるいは軽蔑して無視する人たちがいます。聖書学の先生方や牧師さんの中にもそういう方がおられます。癒しも同じです。こういう霊能現象を無視するか、あるいは避けておいでになる。霊能を批判する人たちは、はたしてその霊能現象はほんとうなのかどうか? これの真実を確かめるために、正面から向き合おうとはしないのです。ハーヴァード大学のハーヴェイ・コックスという教授は、この人自身は異言を語ったことがないのですが、アメリカだけでなく南米や韓国を訪問して、様々な場所で語られる異言を実際に見て、フィールド・ワークとして研究しています。彼はその成果を『天からの炎』と題して出版しています。
ところが、これとは逆に、今度は霊能を自力で追い求める人たちがいます。一生懸命異言を語ろうと努力する。これもよくあるタイプで、そういう人の気持ちは、わたしにはよく分かります。でも、異言は、語ろうとして出てくるものではないし、語ろうとしなくても、イエス様との交わりの中でひとりでにでてくるのです。大事なのは異言を語るかどうかではないのです。大事なのはイエス様を心から求めるか、同じことですがイエス様を愛するかどうかです。これが「父に愛される」こと、これが一番大事なんです。言うまでもなく霊能現象は異言だけではありません。実にいろいろな場合があります。わたしなんかびっくりするようなことがあるようです。でもね。そういう集会に出ても、わたしは何にも変わらない。自分に与えられたイエス様の御霊にあって感謝して賛美しています。カトリックの大聖堂であろうと、プロテスタントの大聖堂であろうと、ペンテコステの集会であろうと、無教会の集会であろうと、倒されてひっくり返っている集会であろうと、わたしは何にも変わらない。お寺の中だって変わらないよ。いつでもどこでも、イエス様ただひとりです。自分とイエス様の御霊にある三位一体の交わり、このコイノニアのなかにいるだけです。 宇宙万物の造り主である神様の御霊のお働きですからね、それはいろいろありますよ。あって当然。そうでなければ、人間が自分勝手な思いこみで限定している「宗教」や「神学」に過ぎません。神様のお働きではないのです。