イエス様の愛と命
■イエス様にある交わり
「神は愛である」という言葉が、第一ヨハネの手紙の4章8節にあります。神様が愛であるというのは、神様が人格“person”である、ということです。愛は、神様とわたしたちの間の交わりを表わします。その関係を「契約」と言います。どうして「人格」と「愛」と「契約」とがつながってくるのか? これは結婚のたとえが一番分かりやすいです。結婚は、男と女という互いに異なる人格が、結婚の誓いによって、愛を創り出す生活へと入ることだからです。だからこの契約というのは、生命保険の契約のことではありません。あれはビジネスのコントラクト“contract”ですね。結婚の誓いは、「契約」よりも「聖約」のほうがいいでしょう。「聖」とは神様のことです。これはコヴナント“covenant”です。聖約によって、神様との交わりに入るわけです。これが聖約による人格的な愛です。
ではその聖約というのはどういうことかと言いますと、ヨハネ福音書13章(3〜17節)で、イエス様が弟子たち一人一人の足を洗ってくださるという「洗足の御業」をなさいます。共観福音書では、これがパンとぶどう酒の聖餐になります。どちらもイエス様を通して神様とわたしたちとの間に交わりが生じることです。足を洗ってもらうというのは、汚いところも全部洗っていただくことです。全身全霊を主様にお任せする。お委ねする。水は洗礼の水を現わすだけではありませんよ。イエス様の御霊の水(ヨハネ福音書7章38節)です。
だから聖約に入ったら、自分からはなんにもやらない。全部お任せる。全部お委ねする。ここから始まるんです。イエス様の愛の御霊の働き、神様の創造の力がね、あなたに働きかけてくるんです。こういう不思議なことになる。わたしたちは、この神様の働きかけに応じて、ただ御霊の導きに委ねて歩んでいく。それだけです。
どうしてなんにもしなくても、ただ任せるだけで、神様が働いてくださるのか? これはヨハネ福音書1章13節にあるように、イエス様を通して働く神様の愛は、人間の欲や肉の努力ではなくて、神様からくるからです。神様から「生まれる」とあるのは、神様によって創られることです(ヨハネ福音書1章1〜3節)。神様のみ言(ことば)であるイエス・キリストの御霊の働きによって創られることです。
■生きておられる神
イエス様は復活についてお話された時に、「主なる神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神で、生きている者の神である」と言われました(ルカ福音書20章34〜38節)。「生きておられる」というのは、今わたしたちに働いている命そのもの、これが神様の働きだと言うことです。「神は愛である」とありますが、「神は命である」とも言えます。神様のみ名は「ヤハウェ」です。これは「ハイヤー」、「生きる」という意味の動詞で、ここから「ヤハウェ」のみ名が出てきました。「ヤハウェは生きておられる」というのは、神様とは、わたしたちを生かす命そのものだということです。だからイエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました(ヨハネ14章6節)。「道」とは、今のこの時を一歩一歩と生きること。「真理」とは、永遠に変わらないことという意味もありますが、それだけではありません。真理とは、その時その時に、生きて働いてくださる主様の真実を意味するのです。「命」とは、わたしたちの心臓の鼓動のように、刻一刻とわたしたちを生かし続けること。イエス様の命とは、わたしたちを造り続けていく神のお働きのことです。イエス様の父は宇宙を動かし造り続ける創造の神ですから(ヨハネ5章17節)。
だから、自殺は、自分に働く命の神様を殺すことだから罪です。自分に働く神様を殺すと言いましたが、このことは、そういう殺す力もまたこの世の中には働いているということなんです。この世では、命を殺そうとする力が働いている。生きる力が働いているけれども、殺す力も働いています。でも、イエス様が与えてくださる命、これがイエス様からの「愛」ですね、この命は決してなくならない。
■輪廻や浄土でない
死んでもなくならない命と言うと、魂は死んでもなくならないから、人の魂はまたこの世に生まれ変わってきて、輪廻転生を繰り返していく。皆さんは、このように考えるかもしれません。確かにアレクサンドロス大王の時代からイエス様の時代までの間は、「ヘレニズム・ユダヤ教」と言って、魂と肉体とを別個のものと考えるギリシア思想の影響を受けています。したがって、新約聖書にもこの思想が影響しています。けれども、新約聖書の信仰は、人間を魂と肉体とに分けて観ることから肉体は滅んでも魂は永遠に生きるという思想とは違います。聖書の御霊は、神様から来る命であって、これによって生かされる霊性ですから、人間に生まれつき具わる魂という意味ではないんだね。わたしたちの肉体はなくなっても、わたしたちの魂は永遠だからなくならない。こういう思想ではないのです。あるいは、死んだらあの世にいろんな浄土があって、そのどこかに行く。この世とは関わりなくあの世で極楽浄土へ行くという「あの世」思想でもありません。
もっと単純にね、今現在生きているこの命、わたしたちの体に働いている命そのものは、神様の創造の働きから来ている。だから、その命を創り出しておられる神様の創造のお働きですね、それ自体は決して終わることがない。永遠に続く。聖書はそのお働きを「神のみ言(ことば)」と呼んでいます。この「言(こと)」は「事」ですから、出来事です。生まれること、生きること、死ぬこと、これらは人間と自然を創り出しておられる神様の出来事です。神様のみ言の働きです。天地が創られるその前に、初めにみ言(ことば)があった。そのみ言が、人格となってイエス・キリストに宿られたのです(ヨハネ1章14節)。マリアさんの処女降誕は、このことを表わしています。創造の父の神がその御子をこの世に遣わしてくださったのですね。み言は、御子イエス・キリストとしてわたしたち人間の世界へ来られた。これが聖書のみ言です(ヨハネ1章1〜4節)。命を創り出しておられる神様のお働きそのものはいつまでもなくならない。だからこの神の創造の命を宿すイエス様の命もどこまでも続くのです。
■アイオーンの世界
どこまでも続くと言うけれども、わたしたちのこの地球は言うまでもなく、太陽も後50億年くらいでなくなってしまいます。では、今のこの命はなんなのか? さあ、難しくなってきました。魂になって永遠に生きるということではない。あの世へ行ってそこにいつまでもいるというのでもない。今ここに働く命が永遠へとつながる。さあ、ここが問題です。そんなことがあるだろうか? だれもがそう思うのですね。でもね。最近の物理学、量子物理学の世界では、これは決してありえないことではないんです。信じられないかもしれませんが、現在わたしたちが住んでいるこの宇宙のほかに、いろんな宇宙があるらしい。わたしたちの地球があるこの宇宙は、沢山ある宇宙の一つに過ぎない。“one of the universes”ですね。こういう不思議な世界にわたしたちは住んでいます。
わたしはこれをたとえとして話しているので、永遠の命を物理学で証明しようと言うのではありませんから間違えないでください。霊的な命を物理学と混同してはいけません。たとえとしてお話ししているのです。物理学で言う宇宙は、同時に幾つも存在しています。
「世界」「宇宙」というギリシア語は「コスモス」です。この「コスモス」は、目に見える空間的な宇宙のことです。ところがギリシア語にはもうひとつ「アイオーン」という言葉があって、これには時間的な意味も含まれています。だから「アイオーン」は「世/世界/時代」などと訳されます。聖書では、「この世(アイオーン)」「今の世(アイオーン)」「来るべき世(アイオーン)」のように用いられます。だから「アイオーン」は日本語の「世」と通じますね。「この世の中」は空間的です。「世々限りなく」は時間的です。「世」とか「間(ま)」には空間と時間の両方が含まれています。
聖書では「コスモス」も出てきますが、「アイオーン」も多く用いられています。聖書の言うアイオーンは、「時代」という意味を含みますから、一つの世から次の世へのように、「アイオーンからアイオーンへ」と時間的につながります。物理学でも、一つの宇宙が生まれて滅んで、また別の宇宙が生まれるということが言えるのかどうか分かりませんが、アイオーンの世界では、神様の創造の御業によって、一つのアイオーンが創られて、それが終わると、また次のアイオーンが生まれる。こういう見方ができるわけです。このようなアイオーンの連続は、「回帰思想」と呼ばれますが、聖書のアイオーンの世界には、このような回帰思想がその背景にあるのかもしれません。
しかし新約聖書の場合には、アイオーンは、「この世(アイオーン)」と「来るべき世(アイオーン)」の二つの関係に重点が置かれています。しかもこの二つが、一つが終わると、また別の世が始まると言うだけではないのです。今のアイオーンが、来るべきアイオーンを創り出す働きをしている。この点にその特徴があります。神様のみ言であるイエス・キリストが来られることによって、今のこのアイオーンにおいてすでに、来たるべきアイオーンが「始まっている」と新約聖書は言うのです。だから、単に生起と消滅の繰り返しではありませんね。このアイオーンが次のアイオーンを創り出しているのです。神様の創造の御業はいつまでも続きます。だから神のみ言である御子イエス・キリストのお働きもなくならない。今のこの世が、その終りへ向かうと同時に、新しい世界が生まれつつあるのです(ヨハネ黙示録21章1節)。だから「わたしは初めであり、終わりである」(ヨハネ黙示録21章6節/同22章13節)。こういう世界観です。
「世」という言葉には、三つのことが含まれています。一つは「時間」です。もうひとつは「場所」です。もうひとつあります。それは「光りと闇」、すなわち善と悪の価値観です。この三つの要素が「世」に含まれています。今現在のこの世、次に来るべき世、聖書はこういう風に見るのです。しかも今のこの世が、次に続く世の準備をしている。イエス様の愛は、この世のものではない。でも新しい世を創り出すために、この世で働くのです。今の世は、光と闇とが渾然としています。ちょうどレンブラントの絵のようにね。でも、来るべきアイオーンがすでにこの世で始まっていて、次の世を準備しているのです(第一コリント15章35〜49節)。こうしてアイオーンが、次から次へとつながりながら継続していく。こういう世界です。“from the ages”“before the ages”“to the ages of ages”「世々限りなく」というのは、この意味です。
■イエス様の愛の命
初めに戻りますと、この永遠のイエス様の愛は、人格的なお方であるイエス様を知ること、イエス様の御霊との交わりから来ます。だからこれは宇宙の原理ではありません。理論ではないのです。近頃いろんな科学めいた宗教がはやっています。アメリカやインドから、いろいろな霊的で科学的と称する宗教が入り込んできています。でも科学めいた宇宙原理ではないのです。ナザレのイエス様に働いていた創造の神の御霊の命です。福音書に証しされているイエス様の御霊の働きです。ヨハネ福音書に「永遠の命とは、唯一の真の神と、その神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることである」(ヨハネ福音書17章3節)とあるとおりです。イエス様の御霊は、愛の御霊です。信仰と希望と愛、この三つはいつまでもなくならない。しかし、最も大いなるものは愛だとパウロが言いました(第一コリント人への手紙13章13節)。信仰は現在のもの。希望は未来のもの。愛はその両方です。なぜならイエス様の愛は、創造する愛だからです。「もしあなたたちがわたしと共にいる(交わりを持つ)なら、なんでも祈り求めなさい。わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ16章23〜24節)。こうイエス様は言われた。そうです。そこから祈りが来ます。そこから力が来ます。
イエス様はわたしたちの命を創り出しておられる方、わたしたちは創られている存在です。わたしたちは間もなく消えていきます。しかし、わたしたちのうちに命を創り出しておられる神ご自身とその御子イエス・キリストのお働きは、アイオーンからアイオーンまで変わりません。たとえこの天地が滅びても、世々限りなく変わりません。「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わらない方」です(ヘブライ人への手紙13章8節)。
*このメッセージは、4月29日に東京集会で語ったものにさらに手を加えて、5月12日に名古屋でも語りました。