聖書を読む、人生を読む
コイノニア会夏期集会講話 2008年8月
■客観的・歴史的な読み方は正しいか?
先の東京集会でもお話ししたことですが、わたしの福音は、ある意味でとても単純です。ナザレのイエス様は復活されて、今でも信じる一人一人と共にいてくださる。これだけです。イエス様が御霊となって御臨在くださるからです。ですから、ナザレのイエス様の霊性こそが、福音の原点なのです。今日は、イエス様の霊性の意味を考えてみましょう。
ヨハネ福音書には、イエス様に敵対する者として「ユダヤ人」がしばしば登場します。ところが、イエス様もイエス様の弟子たちも「ユダヤ人」です。ヨハネ福音書を書いた(編集した)人たちもまたユダヤ人です。ですから、ユダヤ人がユダヤ人と敵対していることになります。そのことをまたユダヤ人が書いているのです。イエス様の出来事はユダヤを含むパレスチナで起りました。だからイエス様の十字架刑も当然ユダヤのエルサレムで起こりました。イエス様の出来事を「客観的に」、すなわち学問的、歴史的に見るならば、これ以外の見方はできません。だから、イエス様を殺したのは「ユダヤ人」だ。客観的に、歴史的に観るとどうしてもこうなるのです。でも、このような見方は、はたして正しい聖書の読み方でしょうか?
今述べたような「客観的」で「歴史的」な聖書の読み方がもとになって、ユダヤ人が悪者にされました。その結果ナチスによるユダヤ人の虐殺が行なわれたのは、皆さんもよくご存知だと思います。これに似た出来事は、キリスト教の歴史でも、他の宗教の歴史でも、幾度となく起きています。こういう聖書の読み方は、どこか間違っています。「歴史的、客観的には」正しいけれども間違っている。こう言わなければなりません。「正しいけれども間違っている」、いったいこの「正しい」と「間違い」との間に何が潜んでいるのでしょうか? これが大事なところです。イエス様がユダヤで十字架されたという客観的な「事実」と、その事実に含まれている意味あるいは意義ですね、これを正しく洞察して区別することが、ここでとても大事になってくるのです。
■客観的に人間イエスを見る
では今度は、イエス様個人について考えてみましょう。歴史上のイエス様を客観的に見るなら、そこに見えてくるのはどこまでも「人間イエス」です。地上の人間であるイエスが語ったり行なったりしたことなら、その言動の範囲も地上に限定されます。だから、歴史的、客観的にイエスを理解するためには、人間として理解できる範囲に彼の言動を限定しなければなりません。そうしなければ、イエスを歴史的、客観的に「正しく」見ることができないからです。
では、ユダヤの国で起こった人間イエスの言動は、どのように「意義づける」ことができるでしょうか? そこからは、イエスが行なおうとしたのは、地上に神の王国を建設するための革命家の行為である、という意義づけが当然出てきます。あるいは、イエスの言動がもたらした十字架刑は、「ユダヤの農民と大土地所有の貴族階級との対立の結果である」というように、社会問題に置き換えることもできましょう。また、ユダヤの民衆の宗教イデオロギーとローマ帝国の権力との衝突という政治的、宗教的な問題に置き換えることもできます。こういう意義づけに従って、現在、歴史的に詳細なイエス研究が行なわれたり出版されたりしています。今度は心理学的に見て、イエスの伝えた「神の国」は、人間の心理的な産物にすぎないと判断して、「神の国」は、人間の主観的な心情が想い描く幻想であると意義づけることもできましょう。現在の学問的な方法論でイエスを人間として外側から見る限りでは、これら以上のことを言うことができません。どんなに細かい事実を積み上げていっても、客観性を保つという学問の性格上、これ以上に出ることが許されないからです。だから、目に見える範囲内で、イエスに対する意義づけをしなければなりません。はたしてこのような意義づけは正しいのでしょうか? 客観的、歴史的に正しいことが、先ほど述べたように「正しいけれども間違っている」ことにはならないでしょうか?
■類比と「置き換え」
ユダヤの国で起こったユダヤ人の出来事は、他の国で起こったのなら、その国の出来事になります。日本で起こったのなら、当然、日本人の出来事になります。このように、イエス様の十字架の出来事をほかの場合へ「移して」みること、すなわちユダヤからほかの場所へ「置き換えて」見ると初めて、「ユダヤ人」の問題から離れたところで、出来事に含まれている意義が見えてきます。
こういう「置き換え」による「意義づけ」は、聖書解釈の歴史では、伝統的に行なわれてきました。マーティン・ルーサー・キング牧師は、イエス様とユダヤの権力との対立を現代のアメリカにおける黒人と白人との差別問題に置き換えることで、黒人の市民権運動を指導しました。かつて日本では、イエス様の十字架が、被差別部落の解放闘争という同和問題に置き換えられたことがあります。聖書に書かれたイエス様の言動に対する意義づけは、このようにして無数に行なわれてきたのです。
紀元1世紀のパレスチナと現代のアメリカや明治期の日本とでは、歴史的、客観的に見れば明らかに同じではありませんね。だから、このような置き換えは、歴史的でも客観的でもないから、学問的に見れば、「正しい」とは言えません(反対に「正しくない」とも言えません)。それなら、こういう聖書解釈は「間違い」なのでしょうか? 先に歴史的に「正しいけれども間違っている」と言いましたが、ここでは逆に歴史的に「違っていても正しい」とは言えないでしょうか? 歴史的に「違っていても正しい」のは、聖書の出来事とアメリカの出来事とが、「違っていても同じ」だからです。歴史的に違うのにどうして「同じ」なのでしょうか? それは1世紀のパレスチナと20世紀のアメリカとが、差別問題において「類似」しているからです。このような関係を「類比(るいひ)」(analogy)と言います。
類比によってわたしたちは、客観的に見て違っているものの間にも、類似した関係を見いだすことができます。だから、類比とは広い意味で言えば「たとえ」のことです。この間読んだ奥田先生の講話に、「キリストは太陽である」とありました。人間と太陽とは、自然科学的に見れば明らかに違っていますが、ここでも類比による置き換えがなされています。イエス様とその敵対者たちとの対立を「神と悪魔」の関係に置き換える(たとえる)こともできます。
■客観性と霊性
イエス様とユダヤの権力との関係を「神と悪魔」の関係においてとらえる見方、あるいはイエス様を救い主キリストとして、太陽にたとえる類比、これらは、客観的でも歴史的でもありませんから、学問的に実証できません。ところが、聖書をお読みの皆さんはよくご存知の通り、イエス様のものの見方、あるいは語り方には、今お話しした類比によるたとえが深く入り込んでいます。なぜイエス様は、そのように見たり語ったりされたのでしょうか? それは、イエス様が信じて親しんでこられた聖書(旧約)が、そうだからです。なぜ聖書はそうなのでしょうか? 聖書が言い表わそうとしているのは、客観的に目に見える事実だけではなく、その事実に潜む、目に見えない神様のお働きだからです。イエス様がたとえを用いて神の国をお語りになったのはこのためですね。
このように、聖書のお言葉を読むというのは、目に見えない「霊的な」意味/意義を読み取ることなのです。わたしたちにこの霊的な意味を説き明かしてくださるのが、神様から来る御霊のお働きです。これによって初めて、わたしたちは、聖書を「神のお言葉」として読むことができるのです。ただし、外側から確認できる歴史的な状況も大事ですよ。それは、霊的な意味を正しく読み取るためにどうしても必要です。信仰は、歴史的な「出来事」に基づいたところからしか生まれませんから。ただ、聖書の霊的な意味を読み取る際に、歴史的に見える状況だけに頼ると、「正しいけれども間違う」のです。御霊に導かれて祈りをこめてお言葉を読む。同時に、聖書を歴史的で客観的な視点からも見る。この両方を併せて初めて、正しい聖書解釈ができるのです。
■神のお言葉と類比
これでお分かりと思いますが、聖書の霊的な意義を知るためには、ものごとを「置き換えて観る」という想像力が要ります。「置き換える」のですから、出来事をあるがままに見ているだけでは、置き換えは湧いてきません。それを違った事柄と結びつけて観るところに「類比」が働くからです。これによって、聖書のお言葉が、神様からわたしたちに与えられる啓示となるのです。
皆さんは、誰かについて「あの人は賢い」と言われるのを聞いたら、その人を思い浮かべて、彼/彼女が、どんな風に賢いのかを想像します。あの人は勉強ができるとか、人との付き合いがうまいとか、ビジネスが上手だとか、賢さにもいろいろあります。目に見える人の賢さは、だいたい見当がつきますね。ところが、「神様は賢い」、こう言われたら、あなたは何を想像しますか? わたしたちは神様に出会ったことがないのです。神様とは、天地をお造りになった創造主のことです。その神様が「賢い」というのは、人間界も自然界も宇宙もすべてを含めて、そこに生起する森羅万象が神様の「知恵」によっていることです。だから、神様の賢さは、宇宙や世界の出来事にいくらでも「置き換えて」説明することができます。目に見える歴史的な人物について「賢い」と言う場合なら、幾つかの「置き換え」によって説明できます。けれども、神様について「賢い」と言う場合には、そこには数限りない類比が働くのです。
■イエス様の霊性
イエス様は、ご自分の霊性に神ご自身が働いておられると認識されていました。だからイエス様の霊的な世界においては、神様の造られた宇宙全体が広がっていたのです。これは、今お話ししたように、どのような類比にも無限に置き換えることのできる世界です。聖書には、イエス様が、5000人にパンをお与えになったり、水の上を歩かれたり、水をぶどう酒に変えられたりする「とてつもない」奇跡的な出来事が語られています。しかし、これらは、イエス様ご自身が見ておられた神様の創造の世界のことであると思えば、不思議ではないのです。イエス様ご自身の世界が、そういう世界だったのですね。新約聖書、特に福音書は、このことをわたしたちに伝えようとしているのです。これらの奇跡は、すべて旧約聖書にその原型があります。だからイエス様の霊性の世界では、旧約聖書で語られている神のお働きが、類比として働いていたと思われるのです。
一般的に「神話」と呼ばれるものでさえも、そこには必ずなんらかの人間の体験なり出来事が背景にあります。福音書が伝えるイエス様の行なわれた奇跡物語も、そこには、イエス様が行なわれたなんらかの行為か出来事が基になっていると考えることができましょう。それらが具体的にどのような出来事に基づいていたのか、これを今となっては知るよしもありません。大事なのは、そのような奇跡的な世界が、聖書が証しするように、イエス様ご自身の世界であったことです。人々はイエス様を「神の子」だと言い、また敵対する人たちは、「おまえは自分を神と等しくしている」と言ってイエス様を非難しました。外側から見る限り、イエス様の振舞いは、そのようにしか見えなかったからです。ただし、このようなイエス様の霊性そのものの意義が人々に啓示されたのは、イエス様の御復活の後のことです。父なる神が降された聖霊によって初めて、人々は、イエス様の霊性が、神ご自身のお働きに等しいことを悟ったのです。
先ほどお話ししたように、歴史的な「人間イエス」についてなら、それなりに客観的で合理的な説明をすることができます。ところが、イエス様には神ご自身が宿っておられたのです。だから、「イエス様の霊性」に具わる「賢さ」には、これを無限に置き換えて説明できる可能性が秘められていたのです。ただし、これらを客観的に実証したり、歴史的に説明することはできません。こういうわけで、イエス様の御復活以後に書かれた聖書には、「天にあるものも地にあるものも、すべてキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソ1章10節)とあるのです。「知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠されている」(コロサイ2章3節)とあるのです。聖書がわたしたちに伝えるイエス・キリストは、特に福音書がわたしたちに伝えているナザレのイエス様は、このように無限の意義を含む霊性を宿しておられたのです。
■日常生活での意義づけ
わたしたちの日常生活でも同じようにして意義づけが行なわれています。わたしたちは、自分に起こる出来事の「目に見える外側」だけに目を奪われてはいませんか。わたしたちにとって、「客観的な」出来事とは、自分が今置かれている「現実」のことです。けれども「現実の」出来事は、それだけを見ていては、「正しいけれども間違った」解釈をするのです。近頃は、ずいぶん身勝手な理由で人を殺す事件が起こりますが、人間は身勝手な解釈をしがちなのです。 自分の現実しか目に入らないからです。
神様のなさることは、あなたに起こっている目に見える現実だけではないのです。あなたの周囲の自然界をも含むあらゆる面に神様のお働きを見いだすことができるのです。だから、神様を信じる人は、自分に起こる現実の出来事を自分以外の無数の出来事と結びつけて見ることができます。そこには様々な類比が働きます。聖書を読み、霊的な意味を読み取る人は、いろんなことを見て、そこから、自分の問題にひらめきや霊感が与えられるのです。一見今自分が直面している問題とは全く無関係に思われることからも、「はっと気がつく」こと、教えられることが多いのです。
「霊性」というのは、外に現われる出来事をも含みますが、同時に、出来事を成り立たせている神様のお働きを意味します。自分に起こる出来事を成り立たせる神様のお働きに目が啓(ひら)かれると、その出来事に隠されている意義が啓示されます。このことに目が「啓(ひら)かれる」こと、これがわたしたちの日常において、物事を「霊的な出来事」として観るのにとても大事です。このような啓示は、祈りを通して、神様から、イエス様の御霊によって与えられます。具体的な例をあげればきりがありません。そのような例は、皆さん自身の日常生活の体験によって今回のこの話に付け加えていってくだされば幸いです。
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