中島真一さん洗礼式講話
(2008年3月23日復活節)
 
 今日は、コイノニア会として久しぶりの洗礼式です。中島さんは、洗礼について、自分の考えを話してくださいました。主な問題として、洗礼を全身を水に浸す浸礼で行なうのか、それとも滴礼にするのか? できれば浸礼にしてほしい、ということでした。わたしは、かつて久子が、日本基督教団の教会で最初に滴礼を受けてから、宣教師の教会に移り、そこで再び、今度は浸礼の洗礼を受け直した体験をお話しして、彼女は、今でも自分のほんとうの洗礼は、最初に受けた滴礼だと想っていると話しました。
 次に問題になったのは、洗礼名のことです。ご存知の通り、欧米ではクリスチャン・ネーム、いわゆるミドル・ネームをつけます。実は、わたしは、洗礼を受けた時に、洗礼名をいただきました。「ステファノス」にちなんだ「スティーヴン」です。だから、欧米流に言えば、わたしの名前は、「モトヒロ・スティーヴン・キサイチ」で、略して言えば、「M・S・キサイチ」です。あるいは「私市スティーヴン」です。
 しかしわたしは、それ以来この名前を使ったことがありません。日本には、洗礼名をつける慣習がないからでしょう。もしも今、中島さんに「ヨハネ」とつけるとすれば、今日からは「中島ヨハネ」になるわけですが、実際問題として、今日から「中島ヨハネ」に変わるのはいろいろと不便でしょう。またその必要もないと思います。
 全身の浸礼にせよ、洗礼名にせよ、形式は必ずしも必要ではありません。けれども、そこには、大事な意味がこめられています。なぜなら、洗礼の水は、いわば「死に水」を現わしますから、その人の全存在が「死ぬ」ことを意味するのです。浸礼はこのことをはっきりさせるためでしょう。ローマ人への手紙6章3〜8節を読みます。
 このように、キリストを信じることは、キリストと共に「死ぬ」ことです。キリストと共に死ぬならば、キリストと共に復活します。これが、新しい洗礼名の意味ですね。女性が結婚するとその時から姓が変わりますが、洗礼の場合は結婚以上で、キリストと共に死んで、全く新しくよみがえるのです。だから新しい名前をもらうわけです。
 この洗礼式の後でいただく聖餐も同じですね。イエス様と共に死んで、イエス様と共に新しく生きる。死ぬ洗礼は一度だけです。しかし、洗礼を受けた後は、繰り返し、繰り返し、イエス様のおからだと血、すなわちイエス様の地上でのおからだとこれに働いた霊的な命を自分のものとして、食べながら飲みながら生き続けることを現わしています。
 ガラテヤ人への手紙6章15節を読みます。「キリストにあっては、割礼があってもなくても問題ではない。大事なのは、ただ新しく創造されることです。」ここで言う「割礼」とは宗教的な儀式のことですから、パウロの言うことを現代で言えば、浸礼か滴礼か、洗礼名をつけるかつけないか、儀式それ自体にこだわる必要はありません。中島さんは、滴礼ではなく、できれば浸礼で受けたいと言いました。コイノニア会では皆さんが滴礼の洗礼を授かりますが、中島さんが、浸礼にしたいというその「心構え」は正しいのです。しかも今日は復活節ですから、死んでよみがえって、新しい名前になるのにまことにふさわしい日です。中島さんは、今日から、心では「中島ヨハネ」です。どうかそのお気持ちを忘れないでください。    
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