これありて福音あり
東京集会で:2008年5月3日
■福音の原点
今回は、福音の原点についてお話したいと思います。そもそも福音の最も本質的な姿、これだけあればそこに福音があり、逆に、これがなければ、そこに福音がないという、福音の最小限度の有り様(minimum essence)です。「これありて福音あり。これなくば福音なし」という、最も大事な福音の本質です。この根源に立ち返って、そこから見てほしいのです。わたしの言う福音は、ある意味できわめて単純です。福音書のイエス様は、今もなお生きてわたしたちと共にいてくださる。これだけです。「み名によって」祈るところにイエス様が立ってくださるのです。これが、「ナザレのイエス様の御霊の御臨在」です。「イマヌエル」(神我らと共に)です。
ここにおられる皆さんは、ナザレのイエス様を信じています。皆さん一人一人には、ナザレのイエス様の御霊が宿っておられます。イエス様の御霊は、こういう人たちの交わりの中に御臨在してくださいます。コイノニア(交わり)の最も大切なところですね。わたしたちの集会はこれが原点です。これ以外になんにもありません。「これありて福音あり。これなくば福音なし」です。これ以外に、あってもいいが、なくてもいいものは、ここには一切ありません。
では、わたしたちは今何をしているのか? 実は、なんにもしていない。ただ集まって、座って、お言葉を語り、聴き、賛美をして祈る。それだけです。でもこれは、わたしたちが自分でやっているようであって、実は「わたしたちが」やっているのではない。イエス様の御霊がわたしたちに働いてなさっておられるのです。神から与えられた聖霊のお働きによるのです。だからわたしたちは、今、イエス様を信じて「いる」という状態にいます。この状態の中から、賛美がおこる。祈りが湧く。お言葉が語られ、これを聴く。こういう業が行なわれるのです。
だから、わたしたちから見れば、福音とは、イエス様に「ある」状態のことで、自分で行動することではないのです。事と行動は、神様がしてくださるからです。主様の御霊がわたしたちを通して行なってくださるのです。わたしたちのほうから、主様の御霊に向かって、「ああせよ。こうせよ」と命令することはできません。御霊がわたしたちに働きかけて、言うべきこと、なすべきことを行なわせてくださるのです。
わたしたちに求められているのは、ほんとうに主様の御霊に「ある」かどうか? これだけです。これは状態です。そこから何を「する」のかは、自分で勝手に決めることではないのです。だからイエス様は言われましたね。「わたしはぶどうの樹。あなたがたは枝である。あなたがたがわたしにつながっておれば、実を結ぶことができる。」イエス様につながって「いる」のです。これが福音の最も大事なところです。そうすれば、実は自然に生(な)るのです。「なにをするか」"What you do."ではない。「どうであるか」"What you are." です。これは、過去でもなければ、未来でもない、現在です。だから、どう「ある」かを祈ってください。どう「する」かは神様が決めてくださいます。「アーメン、アーメン、エゴー・エイミ」(わたしはある)"I am." です。"AM" の続きは神様に決めていただくのです。
■御霊にある自由
御霊には、様々な働きがあります。政治的にも、社会的にも、経済的にも、宗教的にも、家庭的にも、倫理的にも、霊能的にも働いてくださいます。大事なのは、根源の霊性のほうです。わたしが、「霊能より霊性」と言うのはこの意味です。そこからあらゆる行動が出てくるからです。わたしの知っているある人は、教育の場で、日の丸・君が代に反対する立場から、社会的、政治的な運動をしています。またある人は、投資顧問(fund-manager)として、金融の仕事に携わっています。ある人は、家族の問題を祈りによって担っています。ある人は、職場の仕事のことで悩みながら、これを解決しようと祈っています。人それぞれの御霊にある状態をどのような方向へ働かせるのかは、神様がなさることです。神様は、人を十把一絡げで扱うことをなさいません。一人一人に応じて働いてくださいます。
だから、人間が、自分は賢いと思いこんで、こうでなければならないなどと理論立ててはいけません。それは神様の御霊がなさることです。人によって違うのです。その違いを自分の理論によって否定すると、そのような行為は、人と自分との「違い」ではなく、人に対する自分の「間違い」になります。人と「違う」のはいいことですが、人に対して「間違う」のは困ります。「違い」はそれぞれの人を活かしますが、「間違い」は、人を殺すからです。神様のお働きを人間が決めてはいけません。
■イエス様にある交わり
神様はいったいなんのためにイエス様をわたしたちにお遣わしになったのでしょう? 「交わり」のためです。ここにおられる方は、それぞれ、仕事も年齢も性別も環境も別ですね。コイノニア会のメンバーたちは、人間的に見ればみんなバラバラです。所属する宗派や教会も違っています。そういう人たちが集まってくる。そして、特別になんにもしないで、ただお言葉を聴いて、賛美して祈る。「なんのために」そんなことをやるのか? お金儲けのためでもなく、職場の集まりでもなく、町内の親睦会でもなく、教団の拡大のためでもない。集まる理由はただひとつ、イエス様と出会い、その出会いを通じて、人と交わりを持つ。これだけです。だから、今日の集会に、「来ない」理由は100ありますが、「来る」理由は一つです。イエス様にある人と人との交わり、これだけです。
イエス様との出会いを通じて人と出会い人と交わる。主にある人との交わりを通じて真の自分と出会う。人間は、このために創られているのです。これが、人生の目的ですね。人は人と出会い、交わるために存在しているのです。このことがここへ来るとよく分かります。出会って祈る。賛美する。けれどもこのような出会い、このような交わりは、人間だけでは生まれません。神様に集められて、イエス様の恵みを信じて、御霊に導かれて生まれるからです。これはいつまでもなくなりません。どんなにコミュニケーションが発達しても、御霊にあるこういう人と人との集まりはなくなりません。だから、コイノニア会はなくなりません。神と人、人と人とがイエス様にあって出会うこと、これが福音の原点なのです。
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