09年クリスマス集会講話
今年のクリスマスは、ご覧のようにごくわずかの人数です。コイノニア会の昔に戻ったような気がします。わたしたちの集会は、このとおり「なきに等しい」ミニ集会です。その上に、北海道から沖縄の南端まで、わたしたちのコイノニア会の交わりにいる人たちは、それぞれに悩みや病気や孤独や苦しい状態にある人たちばかりです。だから、わたしたちの「コイノニア」は、大勢の人が集まる集会、「メリー」と言って楽しく過ごす集会、そういう集会とはほど遠い交わりですね。けれども、一年中で最も太陽の出る時間が短いこの時に、あの荒れ野にあるベツレヘムの端の馬小屋でイエス様がお生まれになったという物語は、クリスマスが、まさにこういう所に訪れること、こういう二人三人の小さな交わりにこそ、主が御臨在下さることを表わします。これが、コイノニア会の原点ですね。
本質的なことは何も変わっていません。イエス様の御霊の御臨在と祈り、そして学びです。『論語』の言葉をもじるなら、「学びて祈らざれば、すなわち暗し。祈りて学ばざれば、すなわち危うし」です。祈りと学び、このふたつにコイノニア会の霊性が支えられています。どんなに小さくても、どんなに貧弱でも、最後まで支えられますから大丈夫です。
わたしたちの霊性の特徴は自由と一致です。「自由」とは「自己に由来する」という意味ですから、自分自身であること、人ではなく自分自身が、自分のイエス様にしっかりと結びつくこと、これが霊的に成長する秘訣です。
「一致」とは、各自があるがままで、イエス・キリストの御霊にあって「ひとつになる」ことです。これは人間には絶対不可能です。「一致」は「平和」の別名です。「自由」も「一致」(平和)も「愛」も、普段に創り出さなければ、失われるか奪われかします。わたしたちの自由と一致は天地を造られた神の御子である主イエス・キリストの御霊の御臨在にある自由であり一致です。だからわたしたちの霊性はキリスト教の最も根源に根ざすものです。これありて福音あり、これなくば福音なしです。東方正教もローマ・カトリックもプロテスタント諸派も根源では一つです。プロテスタントにも、聖霊派、福音派、自由神学派、無教会など、いろいろありますが、三位一体の信仰に立つ限りひとつです。ですから、それぞれがあるがままでひとつになれます。唯一の神。一つの信仰。一人の牧者、一つの群れ。一つの洗礼、一つの聖餐です。
こんなミクロ集会で、こんなマクロな話は合わないと思われるかもしれません。でもそうではないですね。これが原点です。2匹の魚と5つのパン。それで十分です。後は神様のお働きです。大丈夫。主様の御霊はこの会を「最後の最期まで」(ヨハネ13章1節意訳)支えてくださいます。では聖餐に入ります。マタイ26章26〜28節を読みます。
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