【その1:人間の創造】
■血は命
今回は、イエス様にある「命」についてお話ししたいと思います。今年わたしは、難しい病気にかかっている知り合いの女性にこう書き送りました。
わたしはあなたにぜひ知ってほしいことがあります。それは、イエス様を救い主として信じるすべての人には、全く新しい命が与えられる、ということです。「だれでもキリストにあるならば、そこには新たな創造が起きるのです」(第二コリント5章17節)とあります。これは、わたしたちが、イエス様から全く新しい「からだ」(存在)を与えられることなのです。それは「霊のからだ」です。信じられないかもしれません。しかし、ほんとうです。
第一コリント人への手紙15章42~44節には、わたしたちイエス様を信じる者たちには、霊のからだと自然のからだとが与えられていると書かれています。「霊のからだ」は、ギリシア語で「プネウマのソーマ」と言い、自然のからだは「プシュケーのソーマ」と言います。「プネウマ」のほうは、皆さんすでにご存知の通り「霊/風/息」の意味です。「プシュケー」のほうは「魂/命」を表わすギリシア語です。恋愛はプシュケーに宿りますから、ギリシア神話に、プシュケーとエロースの神話があります。
通常、聖書は「プシューケー」 と「プネウマ」とが与える二つの「からだ」を区別して、一方はこの世で朽ちるけれども、もう一方は永遠に存在する、一般的にはこのように説明されています。このほうが分かりやすいからでしょう。しかし、今日わたしがこの二つを採りあげたのは、二つを区別するためではありません。そうではなく、これらのふた種類の「からだ」とそれぞれに宿るふたつの「命」、言い換えると「肉体に宿る命」と「御霊にある命」ですね、これらは、相互にどのように関わり合うのか? という非常に難しい、それでいて、とても大事な問題です。
では創世記の御言葉を読むことから初めます。
「しかし、あなたたちは、肉をその命の血と共に食べてはならない。」
(創世記9章4節)
「人の血を流す者は、人によって彼の血も流される。
(神は)人を神の姿に造られたからである。」
(創世記9章6節)
旧約聖書には、「血は命である」とあります(レビ記17章14節)。これはとても大事な御言葉です。「血」と聞けばわたしたちは、すぐにイエス様が十字架上で流された「罪の赦しの贖いの血」を思い出します。でも、旧約聖書に「血は命/命の血」とあるのには、三つの意味が重ね合わされています。第一に、わたしたちが現在用いている医学的な意味での「血液」のことです。血液が大事なことはだれでも知っています。しかし、医学的に見れば、血液が命そのものだとは言えません。ですから、「血は命」というのは、単に医学的な意味で血液を見ているのではないことが分かります。では何かと言えば、「血」が「命」であるというのは、第二に血が命を「現わしている」こと、すなわち、「命」の象徴ですね。日本の国旗が日本の象徴であるように、あるいは十字架がキリスト教の象徴であるように、血は命の象徴なんです。「象徴的」を「霊的」と言い換えてもいいです。だから6節にある「人の血を流す」ことは、人を殺すこと、人の命を奪うことです。「血」には、「血液」の意味と「いのち」の意味、科学的な意味と象徴的な意味とが重ね合わされているのです。
この二つが重ね合わされているのは、第三に、聖書がそう言っているから、言い換えると、それが「神様の御言葉」だからです。「血」は、赤血球と白血球で成り立つただの液体ではない。それには、その人の命が宿っています。だから「血」は「尊いもの」であり「神聖なもの」です。「神様の御言葉」が、血液を命の象徴にすることで、血を尊いもの、神聖なものにしているのです。これは神様を信じない人には分からない。だからそういう人は平気で人の血を流すのです。
このように、科学的な意味と象徴的/霊的な意味と、この二つを結ぶ神の御言葉、この三つが一つになって初めて旧約聖書でいう「血が命」ということが成り立つのが分かります。ここでは科学的な意味と霊的な意味とが、神の御言葉によって一つにされています。さらに、霊的な意味は「尊い」とか「神聖な」という価値観を伴うことにも注意してください。神様の御言葉は、このように科学的な「血液」に価値観を与えるのです。イエス様が流された「血」が、「罪の赦しの贖いのため」であるという信仰が、こういう霊的な意味から生まれてきました。だから、価値観は、「~のために」という目的を与えるのです。血液が命になり、命が神聖になり、神聖な命が目的を与えられるのです。神様の御言葉は、このようにして、物を霊的なものに変え、これに価値観を与え、そうすることで目的を示すことが分かります。
神様が血は「命」という時には、「命」の血が「流れている」こと、言い換えると常に「動いている」ことが大事です。流れない血は「死んだ」血です。流れて動いている血だけが命を現わすのですね。イエス様は「生きた水」ということをおっしゃった(ヨハネ7章38節)。「生きている水」というは、流れている水のことです。シロアムの水は池の水だから流れていないと思ったらとんでもない間違いで、あの水は地下水でさらさらと流れています。「生きている」というのは、このように常に動くことなのです。聖書の神は「生ける神」だと言うのはこういう意味も含んでいます。神様は、「生きておられる」から、常に働いておられるのです。
■2種類の人間存在
次に創世記2章7節を読みましょう。
「主なる神は塵の人(アダム)を土(アダマー)から造った。
そして、その鼻に命の息(ニシュマット・ハイーム)を吹き込んだ。
すると人は生きた自分(ネフェシュ・ハヤー)になった。」
(創世記2章7節)
「土から<塵の人>を造った」とあるところは、「<土の塵>で人を形作った」〔新共同訳〕とも読むことができます。どちらの読み方でも意味はそれほど変わらないと思いますが、神様は、まず土から「塵の人」を造られて、それから、その「塵の人」に神様の「命の息」(ニシュマット・ハイーム)を吹き込まれた。すると、「生きた人」(ネフェシュ・ハヤー)になったと読みたいと思います。このように読むと、人が「塵の人」と「息の人」の2段階に分けて造られたことがよく分かります。
この2段階は、エゼキエル書37章7~10節の「枯れた骨の生き返り」にもつながります。エゼキエル書の37章は、イスラエルの復活信仰を知る上でとても大事なところです。預言者が枯れた骨たちに語ると「骨と骨とが近づいて、その上に筋と肉が生じて、皮膚がその上を覆った」とあります。ちょうど現代の考古学者が、大昔の人類の骨や動物の化石から、粘土のようなものを使ってその人の顔や動物の姿を復元するのと似ています。これが第1段階で、創世記の「塵の人」にあたります。でも、姿形(すがたかたち)はできたけれども、そこにはまだ「霊がなかった」のです。そこでエゼキエルがもう一度預言すると、「霊が四方から吹いてきて」それらの姿形に入り込むと、彼らは生き返って立ち上がったのです。これで見ると、先ず人の姿形ができて、それから「命の息/霊」が入り込んだことになります。ただし、創世記では、人が最初に創造される時のことですが、エゼキエル書のほうは、おそらく戦場で死んだ人たちの骨が「生き返る」ところです。創世記の記事は、このように、後のイスラエルの「生き返り」や「復活」思想へつながる大事なところです。
では創世記2章7節の用語について説明します。「主(ヤハウェ)なる神」とあって、「ヤハウェ」と「神」(エロヒーム)の両方が結びついていますが、これは創世記2章に11回、同3章に8回でていて、聖書全体から見ても、この部分に集中して表われます。このように「ヤハウェ」と「エロヒーム」が結びついた神の御名がでてくるのは、創世記のこの部分が、おそらく捕囚期に編集されたからでしょう。
「土」は「アダマー」ですが、「塵」は「アファル」です。「土の人」ではなく「塵の人」となっているのは、創世記3章19節の「塵にすぎないお前(人)は塵に帰る」から来ています。だから「塵の人」は「土の人」と同じです。
神様は、土で造った人間の姿形に「ニシュマット(息)・ハイーム(命)」を吹き込んだとありますが、これに類似する話は、古代のバビロニアにも、古代エジプトにも、ギリシア神話にも、アジアの神話にも見られます〔Wenham Genesis chap.2, v.7〕。「ニシュマット・ハイーム」の「ニッシャーマー」は「息/息する物/生きている動物/霊魂」を指しますから、これは、人間だけでなく、他の動物をも生かす「息」のことです。「息」だけでなく「もろもろの命」(ハイーム)と複数なのは、動物一般を含めているからでしょう。だから、この段階の人間は、動物並みの「息の人」で、鼻で息をして動く人間のことです。
■生きている「自分」
しかし、ここでは特に人間の創造が語られているのですから、この「命の息」は、単に動物的な生命を支える「息」を意味するだけでなく、さらに高次な内容へつながる可能性を秘めています。「ニッシャーマー」には、「息」だけでなく「霊」の意味もありますから、「ルアハ」(息/風/霊/知力)とほぼ同じ意味でも用いられます。だから、ここの「命の息」は、「命の霊」にも通じる内容を含んでいると言えましょう。だとすれば、エゼキエル書37章にでてくるように、死んだ骨が人の姿になり、これに「霊が吹き込まれる」ことで、民全体の回復が、「人の生き返り」として表わされていることになります。
創世記2章7節には「生きた自分(ネフェシュ・ハヤー)になった」とありますね。「ネフェシュ」というヘブライ語は「息/命/魂/自分」などの意味ですが、これを「命」と訳すと「生きた命」になりますから、同じことの繰り返しで少しおかしいです。聖書は、人間を「肉体」と「心/精神」と「霊」の三つに分けて観ると言われますが、「ネフェシュ」には、生物としての「生命」の意味があります。息をしている、心臓が動いている、動くことができることで、これは動物が「生きている」のと同じです。
ただし、人間はほかの動物と同じように息をしているけれでも、ただそれだけではない。神様と交わることのできる人格が具わっています。食と性を中心とする動物的な自己保存の本能だけでなく、動物にはない霊的な自己意識ですね。すなわち「自分」という人格性を具えています。創世記2章7節での「ネフェシュ」は、全人格的な存在を表わします。「ネフェシュ」は、「からだ」と不可分であり、その「形姿」を意味します。したがって、この言葉は、人間の個人性である「エゴ」を指すのです〔TDNT(9)620〕。
だから、「生きたネフェシュ」のことを「生きた自分」と訳しておきます。「生きた自分になった」のなら、「死んだ自分」もあるはずです。だからここを「生き生きした自分」と訳してもいいです。人間は神様から「命の息/霊」をいただいて初めて、ほんとうに生き生きとした自分になることができるのです。こういう解釈をこの創世記の記事から読み取ることができるのは、人間が他の動物と違って「神の像/似姿に」造られたからです(創世記1章27節)。だから、エデンの園で神と霊的に交わっていた頃の人間には、ほんらい、このような霊的な輝きが具わっていたのです。
以上で用語の説明を終わりますが、ここで大事なことを指摘しておきます。アダムが「生きた自分」になったのは、神様の「ルアハ」(霊/息)が人に宿ったからです。どんなふうにして、神様のルアハが宿ったのかと言えば、神様が「御言葉を発した」からです。ここでも、生物的な意味での人の「生命」と、神様の霊から来る「命」と、これらを創り出す「神の御言葉」と、この三つが一つに重ね合わされています。
■死んでいる人
もう一箇所引用します。イエス様に従おうとする人が、その前に父を葬りに戻らせてくださいと願った時に、イエス様は「死人を葬る仕事は死んだ人たちに任せて、あなたは神の国を伝えなさい」(マタイ8章22節)と言われました。「死人」とあるのは死体のことですから、これは霊の宿っていない「塵の人」のことです。ところがイエス様はここで、動物と同じに「息」をして動いている人たちのことを「生きた人」とは言わずに、「死んだ人たち」と言われたのです。神の御霊が宿ることで、人は初めて「生きる自分」になるからです。このように、人が本当の意味で「生きる」とは、「命の息/霊」「生き生きした自分」「神の似姿」として生きることだとイエス様は言われたのです。人間が本当の意味で「生きる」とは、動物的な生命以上の価値観を顕わすことであり、人はこのために創られていることを指し示しておられるのです。
この原稿を書いている8月15日の朝、BS3で午前9時から10時まで、「硫黄島の玉砕」と題する番組がテレビで放映されました。わたしはこれを見て、驚くと同時にショックを受けました。なぜなら、それまで、硫黄島の日本兵は、栗林中将以下、全員が最後の玉砕突撃で戦死した。こう思い込んでいたからです。けれどもこれは、当時の軍部の偽りの発表であることが米軍の記録などから分かったのです。実は、栗林中将以下の総攻撃の後でも、島内のたくさんの豪の中には何千人という日本兵が生き残っていたのです。彼らのほとんどは病気で、食糧も全くなく、ただ死を待つ状態だったのです。もはや戦争することもできず、司令部も存在しませんから、戦争そのものが無意味な状態でした。アメリカ側は、最初は、彼らに拡声器で投降を呼びかけました。島の戦争は完全に終わったからです。
ところが、日本兵は投降しませんでした。と言うよりも、投降を許されなかったのです。呼びかけに応じて、一人の若い日本兵が豪の入り口まで出てくると、日本の将校によって後ろからピストルで射殺されるのを一人のアメリカ兵が目撃して、テレビで証言していました。生き残ったわずかの日本兵たちが、61年経ってから、ようやくテレビの前で、本当のことを語ってくれたのです。大本営は、全員玉砕したと嘘の報道を発表していました。こういう報道をした以上は、生き残って投降する兵隊が、たとえ一人でも「いてはならなかった」のです。兵士たちも、このことをよく知っていました。たとえ投降して、生き残って日本へ帰ることができたとしても、数日後には銃殺される。そう考えていたと生き残った人が証言しています。
アメリカ兵たちは、なぜ日本兵が投降しないのか不思議でならなかったようです。しかし、だんだんと真相が分かってくると、アメリカ側は、豪の中の日本兵を徹底的に殺す作戦を実行し始めました。これに参加したアメリカの兵隊たちは、いったいなんのためにこんなことをするのか、理解に苦しんだとテレビで証言していました。殺すアメリカ兵たちも上官の命令に従わざるをえなかったのです。その中の一人がこう言っていました。「わたしたちはずいぶん惨いことをしたと思っている。しかし、責任はわたしたちにあるのではない。彼ら日本兵をこのように仕向けた日本の教育にある」と。「教育」と言うよりは、国民を欺いて、せっかく生き残った日本兵たちをアメリカ軍に殺させるよう仕向けたのは、実は日本の大本営の軍部だったのです。これは太平洋戦争中に起こったほんの一例です。日本だけではなく世界中で、現在でも姿形を変えて、全く同じ流血と殺人の行為があちこちで行なわれています。
このような「死」は、病気で死んだり、老衰で死ぬという自然の死ではありません。なぜならこれは、人間が意図的に「作り出した死」だからです。「自然死」ではなく「歴史的な死」なのです。その人が1日生きることによって、その日に100人の人が殺されていく。こういう暮らしを平然と行なった人たちが過去に大勢いたし、現在でも大勢います。聖書はこういう人たちのことを「死」を作り出し、憎しみを生み出し、偽りを語る「罪人」と呼ぶのです。イエス様を初め聖書は、このように、「死を作り出す」人たちをいかなる意味においても「生きている人」とは呼ばないのです。彼らは「死んでいる人たち」だからです。「生きている人」なら、自分の周囲に命を育て産み出そうとするはずです。しかし、「死んでいる人たち」は、自分の周囲に死を作り出そうとするのです。これで分かるように、イエス様が「生きている人たち」あるいは「死んでいる人たち」と言われるのは、身体的に地上に存在しているか、いないかは、直接かかわりがないのです。この地上には、「生きている人たち」と「死んでいる人たち」とが存在しているのです。
■まとめ
以上をまとめると次のようになります。
(1)人間は、肉体の姿形を神から与えられています。でもこれだけでは生きているのか死んでいるのか分かりません。「生きている」とは「動く」ことで、死体は動きません。
(2)人間は姿形だけではなく、さらに「息」をします。息が与えられると生きて、息を引き取ると死ぬのです。「引き取る」は、神によって息が「引き取られる」ことです。神が息を与え、息を引き取るのですから、命は神から来ています。だから聖書の神は「生ける神」であり「命の神」です。「命」は神のものであり、個々の人間を超えて、神が命を左右しておられるのです。これが聖書の基本的な信仰です。「主は生きておられる」と聖書に度々でてくるのも、ここから来ています(サムエル記上25章34節/列王記上22章14節)。ただし、ここまでは、人間と動物とは変わりません。
(3)ここからが、特に人間の創造に関係してきます。「命の息」とあり「生きた自分」とありますが、「息」は「霊」の意味をも含んでいますから、人間には神から来る「命の霊」が与えられています。これは生き物としての動物の「息」とは少し違う意味です。「ネフェシュ」は「息/命/魂/自分」の意味ですが、ここでは、特にその人のほんとうの「自分」のことであり、その「ほんとうの自分」が、その人の「真の命」になるのです。人には神様から授与された人格的な霊性があります。神様からの御霊の働きによって、人は初めて「生き生きした自分」になるのです。
(4)「生きた自分」の反対は「死んだ自分」です。これは死体のことではありません。この意味での「死」は、生物学的に死ぬことではありません。そうではなく、「罪によって死ぬ」ことなのです。聖書の「死」は罪がもたらす結果のことです(ローマ6章23節)。「生き生きした自分」と対立する「罪によって死んだ自分」のことです。
(5)「生きた自分」とは、神様の御霊を宿して輝く自分のことで、これが「神の似姿」の自分です。「愛」や「信仰」や「希望」などの尊い価値観は、こういう霊の人の人格から生じます。「神の姿」には、神の「御栄光/輝き」が具わっています。御栄光を顕わす神の似姿こそが、人にふさわしい人格的な霊性なのです。人間は、神の霊を宿すことによって霊存する存在です。「生きる」というのはこの意味です。創世記からヨハネ黙示録まで、聖書が言う「命」の本当の意味がこれです。このような「命」は神に属していますから、「命」は本質的に永遠性を帯びています。この「命」の反対が「死」です。
(6)最後にこのような生命の霊存は、神の御言葉から出ていることを知ってください。
■働く言葉
「まとめ」の(6)に神様の御言葉がでてきましたから、ここで「言葉現象」について説明します。ある会社の社長さんが、「我が社はこれからこれこれの方針で行く」と発言したとします。「これこれの方針で行く」のですから、「これこれ」は、その言葉が発せられた段階では、まだ会社のどこにも存在していません。社長の発言は、この段階では「言葉現象」です。でも社員にとっては、この言葉現象は大きな出来事です。社員一人一人は、早速その日から、社長の言葉に従って行動しなければならないからです。言葉現象がどこまで力を持つのかは、これを語る人の人格にかかっています。社長がしっかりしていれば、その言葉は社員を動かします。言葉が「発せられた」段階では、言葉現象ですが、その言葉が実際に「働き出す」ともはや言葉だけの現象ではありません。会社は、外からでもはっきりそれと分かる目に見える形で動き出すからです。すると経済のアナリストたちは、早速この会社の有り様を分析し始めます。外部からはっきりと見える数字やデーターを集めて、社員一人一人の動き方や会社全体の仕組みや、営業成績や事業状況などを細かくチェックします。大きな会社だと、これの分析には膨大な資料とデーターが必要です。具体的な一つ一つの業績やデーターを根拠にして判断しなければならないから、これは大変な仕事です。
皆さんは、今お話しした会社のたとえが、どういう意味なのか、ほぼ察しがついたと思います。先ほどのまとめの最後に、「命」は、神様の御言葉から出ていると言いました。神様が御言葉を発すると「発せられた」御言葉は、そのまま言葉現象となって、現実に働き始めます。すると、その御言葉に従って、人々が動き始めるのです。と言うよりは、人々が、神様の御言葉の働きかけによって動かされるのです。その働きは実に様々です。社長の発言は、比較的短く目に見えない抽象的な言葉ですが、これが具体的に社員一人一人に働きますと実にいろいろな動きになって外部に現われます。神様の御言葉は、大会社よりもはるかに大きく、全世界の教会やクリスチャンたちの行動として外に現われます。過去から現在に至るキリスト教の歴史は、神様の御言葉の現われですから、これの分析は膨大です。
学問的な分析や研究は、外から見える客観的な数字やデーターによらなければなりません。その会社の経営方針や実体を外から客観的に見えるデーターの分析だけで判断するのは大変な努力が要ります。もしも、社長の本音の発言を直に聴くことができたら、あるいは、社長が重役連中だけに密かに語った内部文書を手に入れることができたら、アナリストたちは大いに助かるでしょうね。その会社を動かしている根本の「言葉」を知ることができるのですから。社長の発言は、目には見えません。客観的に何一つ存在しませんから外から判断することができません。しかし彼の見えない言葉が、実は見える社員たちの全部の行動を支配しているのです。
■根源の言葉
同じように、現代だけに限って見ても、キリスト教の現われ方は実に多種多様です。互いにまるで正反対の動きをしているように見える場合も多々あります。でも、これらの現象の奥には、目に見えない神様の御言葉が働いているのです。「信仰」と言い「希望」と言い「愛」と言いますが、これらはどれも抽象名詞です。目に見える具体性が全くありません。こういう一番大事なところは目に見えないのです。現在起こっている大小様々なキリスト教現象をその奥で動かしている根源の御言葉、これが「み言(ことば)」"The Word" です。この「み言」を知ることができれば、み言の多種多様な現われも自ずと分かってきます。聖書の膨大な学問的な分析もいいですよ。こういう分析によって、客観的に聖書の根源のみ言を聴きとるのは大変な仕事です。しかし、学問的で客観的な分析に頼らなくても、聖書の御言葉を直に読めば、そこに神様の根源の発言を聴き取ることができるのです。聖書がわたしたちに語っている一番大事な御言葉、それはいったいなんでしょうか?
「初めにみ言(ことば)がおられた。み言は神と共におられた。み言は神であった。万物はこれによりてできた。できたものでこれによらないものはなかった。このみ言に命があった。命は人の光である。」これが根源の御言葉です。目に見えない神様のご発言です。「言葉は肉体となってわたしたちの間に宿った」のですから、これはナザレのイエス様のことです。イエス様を通して啓示された御言葉、これすなわちイエス様の霊性とそこに働く「命」です。ナザレのイエス様の御臨在、これが根源の「命の御言葉」なのです。どうぞ皆さん、この根源の御言葉を知ってください。この霊性にある命に入り込んで、そこから様々なキリスト教の現象を眺めてください。一番大事なのは、イエス様の御霊にある愛の命の御言葉です。これを受け入れて、イエス様の霊性に浸されて、イエス様との交わりに入ってください。そうすれば、そこからすべてが自ずと開かれてきます。
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