【その2:人格と永遠性】
■ふた種類の命
 昨夜は「生きている人たち」と「死んでいる人たち」についてお話ししました。その際に、ただ鼻で息をしている状態の生き方は、聖書で言う意味での「生きている人」とは言えないこと。神の御言葉によって霊的に生きている人だけが、本当の意味で「生きている」と言うことができるとお話ししました。これを聞くと、では、鼻で息をする状態と霊的に生きる状態とはどのように関係するのだろうか? こういう疑問を抱いた方々がおられると思います。今朝は、この点についてお話しします。
 イエス様は、荒れ野でサタンの誘惑に逢われた際に、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの御言葉によって生きる」(マタイ4章4節)と言われました。ここでイエス様は、パンを否定しているのではありません。パンよりももっと大事なものがあるんだよと言っておられるのです。パンだけで生きていては、サタンの誘惑にかかって「死んだ人間」にされてしまうよと言っておられるのです。
 イエス様は「自分のプシューケーを愛する者はこれを失い、この世で自分のプシューケーを憎む者は、これを保って永遠のゾーエーにいたる」(ヨハネ12章25節)と言われました。ところが、ここを注意して読めば、「これを保って(永遠のゾーエーに)」とあります。「これ」というのは「ゾーエー」のことではなくて、「プシューケー」のことですから、「プシューケー」と「ゾーエー」との関係は単純でありません。
 ここでイエス様の言われている「プシューケー」には、ギリシア語で言う「魂」の意味とヘブライ語の「ネフェシュ=自分」の意味と二つに解釈されるのでややこしいのです。イエス様の言われる「プシューケー」とは「自分」のことです。だとすれば「自分」の「プシューケー」とは、同じことを言っているのですね。「自分の持っているプシューケー」のことではなくて「自分がプシューケー」なのです。だからイエス様は、「自分を愛する者は自分を失い、自分を憎む者は自分の命(ゾーエー)を得る」と言っておられることになります。マルコ8章35節も「自分を救おうとするすれば自分を失い、イエス・キリストのために自分を失う者は自分を得る」と言っておられるのです。英語では16世紀頃までは"my+self"と書かれていました。「わたしのセルフ(自分)」です。これが18世紀には"myself"(自分自身)になりました。だから、英語で言えば、「自分のセルフを求める者はセルフ(自分)を失い、イエス・キリストのために自分のセルフを捨てる者は、自分自身("myself")を見いだす」ことになります。イエス・キリストのためのセルフとは「キリストのセルフ」"Christ self"のことです。
 ここでマルコ福音書10章29〜30節を読みましょう。
 
 アーメン、あなたがたに言う。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、だれ一人として、今のこの世で、迫害と共に、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑の百倍を受けない者はいない。また、来るべき世では、永遠の命(ゾーエー)を受ける。
 
 皆さんは、これを読んでどう思いますか? 百倍ももらえるのなら、イエス様を信じようと思いますか。それとも、こんなうまい話はないから、これはこの通りの意味ではなく何か裏があるのだろうと思いますか。実際、ここをこのままには受け取らずに、ここで言われているのは、地上の家族を捨てた者は、その家族の代わりに、霊的な意味での別の家族(クリスチャンの兄弟姉妹のような)が与えられる。こういう解釈があります。この解釈だと「畑/土地」とあるのは、地上のことではなく「天国の相続」のことになるのでしょうね。でも、「今のこの世で」とありますから、ここで言われているのは天国のことではありません。この解釈は、半分は正しいけれども半分は誤りです。「霊的な」というのはそのとおりです。しかし、自分の家族や土地の「代わりに別の」と解釈するのは誤りです。どう読んでみても、ここでイエス様が言われているのは、現在地上で自分が所有している家族や土地のことです。イエス様のためにこれらを捨てた者は、それが百倍になって戻って来る。こういう意味です。
 このマルコ10章29〜30節は、同じマルコの8章35節「自分の命(プシューケー)を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのため、また福音のために命(プシューケー)を失う者は、それを救う」と同じことを言っておられるのです。だからイエス様は、「自分のプシューケー」という代わりに「自分の家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」と言い換えておられるのです。自分の大事な家族と畑、これこそが、その人「自身」であり、その人のプシューケーなのです。人はそういう「自分」で成り立っているからです。家族や畑と切り離された現代的な個人主義は、イエス様の時代にはまだ存在しません。「畑/土地」とありますが、旧約聖書は、人間を彼が住んでいる「畑/土地/国土」と結びつけています。イスラエルの「民」が回復されるのは、イスラエルの「国土」が回復されることと同じです。だから「畑/土地」は、その人自身です。ここでイエス様は、イエス様と福音のために「自分のプシューケーを捨てなさい」と言っておられるのです。
 ところが、「自分」(プシューケー)を捨てるなら、その人は、「その」百倍を受けると言われています。プシューケー(自分)が「百倍になる」のはどうしてでしょう? 「父」だけ抜けていますから、「父」は百人も要らないというわけでもないでしょう。これは、イエス様のためにプシューケー(自分)を捨てるなら、そのプシューケー自体が、全く新しい霊的な意義を帯びてくること、捨てたプシューケーが、イエス様のゾーエーによって新たに与えられることなのです。聖書が言う「命」とはゾーエーのことです。「命」とは「神ご自身」のことです。ゾーエーか、プシューケーか、イエス様か、自分か、こんなふうに迷っていては結局どちらも得られません。思い切って自分と自分に属するすべてのものを捨ててしまいなさい。そうすれば、全く新しい霊的なゾーエーが働いて、あなたが捨てた「プシューケー」が「ゾーエー」によってほんとうに活かされてくるというのが、ここでのイエス様のメッセージです。言うまでもなく、これは「この世において」起きることです。
 したがって、イエス様のために自分のプシューケーを捨てるならば、その人には、イエス様にあるゾーエーによって、自分と自分に属するすべてが、全く新しい意義を帯びて与えられるのです。「百倍」とは、イエス様のゾーエーの働きによって、プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものへと変容することなのです。パウロが「すべてが新しくなった」(第二コリント5章17節)と言い、「大切なのは新しく創造されること」(ガラテヤ6章15節)と言うのも、このような創造の業を指しています。
 同じことがナインの未亡人の息子の生き返りでも言うことができます(ルカ7章11〜17節)。イエス様の一行と息子の弔いの一行とが、町の門で出逢います。一方は「命の列」でもう一方は「死の列」です。このふたつが出逢う時に、イエス様は、嘆いているやもめを観て、死んだ息子を生き返らせます。これをただの「生き返り」の奇跡だと思ってはいけません。イエス様は、全く新しい息子をそのやもめにお与えになったのです。死んだ人間が、再び元どおりになったのではありませんよ。「再び元に戻る」ことではなくて、この親子に、全く新しい命が与えられたのです。共観福音書の講話の時に、二人はそれまでとは違った生き方、「違った命」に歩む存在にされたとわたしが語ったのはこのことです。息子の「プシューケー」が「ゾーエー」によって、新たによみがえったのです。
■ラザロの「復活のしるし」
 よみがえりの最もいい例は、ラザロの「復活のしるし」です。ヨハネ福音書11章のあの出来事は、病気で完全に死んでしまった(墓の中に4日いたこと)ラザロが、再び元のラザロへと生き返ったのだと思われているようです。しかし、実はそうではありません。「もとのラザロに」戻ったのではなくて、全く新しいラザロが生まれたのです。だからこそ、あの奇跡は、イエス様の復活を予兆する「復活のしるし」なんです。元に戻ったように見えるのは、ラザロのプシューケーがよみがえったからですが、しかし、よみがえったラザロのプシューケーは、死ぬ以前のプシューケーと同じではないのです。イエス様の御言葉による「ゾーエー」の働きで新しく活かされたプシューケーなのです。だからこそ、大祭司たちは、ラザロもイエス様と共に殺さなければならないと考えたのでしょうね(ヨハネ12章10節)。言うまでもなく、ラザロのプシューケーは、この世に属していますから、再び朽ち果てます。しかし、イエス様の「ゾーエー」は、この世にあっては人のプシューケーを活かし、人のプシューケーが消え去ってもなおなくならない永遠の「ゾーエー」として、いつまでも存続するのです。ラザロの出来事は「このこと」、イエス様の「ゾーエー」こそ人のプシューケーに働く永遠の命であることのしるしです。
 わたしたちの身体的な命は、プシューケーの命ですから、この世限りです。しかし、イエス様の「ゾーエー」は、この世にあるプシューケーに働きかけて、プシューケーを通して神の「ゾーエー」を証ししてくださるのです。「ネフェシュ」も「プシューケー」もこの世限りですが、永遠の「ゾーエー」は、これらを通して働き、これらが消え去っても、なくならないで永遠に残るよと聖書は教えているのです。だから、聖書の神様から来る命はただ一つです。神様からの命は、わたしたちの身体がある/なしにかかわらず一貫してひとつの命です。イエス様がマルタに「わたしが命(ゾーエー)である」と言われたのはこの意味です。「エゴー・エイミ」が「ゾーエー」なのです。聖書が「生きる」というのは、この意味です。
 ラザロのプシューケーは、墓の中で死んでしまいました。ところが、イエス様の御言葉をとおして働く神様からのゾーエーが、死んだプシューケーをよみがえらせたのですから、「ゾーエー」によって全く新しいプシューケーとしてよみがえったのです。ヨハネ福音書には、「プシューケー」と「ゾーエー」が区別される二元性があると言われますが、実はこれは、人間のプシューケーと神様からのゾーエーとの間に存在する二元性のことではありません。そうではなく、人間のプシューケーそれ自体のうちに、死んだプシューケーとゾーエーの働きによって活かされるプシューケーとが存在するのです。だから二元性は、プシューケーのほうにあるのです。したがって、二元論と言い二元性と言うのは、「人間の側から」観た場合のことであって、神様の側から観れば、「ゾーエー」ただ一つです。活かすも殺すも「ゾーエー」しだいです。
■一麦のたとえ
 このようなプシューケーとゾーエーとの関係は、ヨハネ福音書12章24〜25節の「一粒の麦」のたとえについても言えましょう。
 
アーメン、アーメン、あなたたちに言う。
麦の種が地に落ちて死ななければ、一粒のままであろう。
  死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命(プシューケー)に執着する者はそれを滅ぼし、
この世で自分の命(プシューケー)を憎む者は、
  これを保って永遠の命(ゾーエー)にいたる。
               (ヨハネ12章24〜25節)
 ここには「自分の命(プシューケー)を憎む者は、永遠の命(ゾーエー)にいたる」とありますから、一見すると、<プシケー>と<ゾーエー>とが区別されている様にも見えます。ところが、これら二つの間に「これを保って」があります。「これ」とは「自分のプシューケー」を指しますから、「プシューケーを保って永遠のゾーエーにいたる」ことになります。だから、これら二つの相互関係は単純でありません。
 麦の粒それ自体が死ぬことは、一見すると麦粒だけの中で生じる出来事のように思われます。しかし、先のマルコ福音書のイエス様の御言葉と考えあわせると、このたとえは、はるかに広く深い比喩内容を含んでいるのが分かります。「自分のプシューケー」とは、自分が属している家族であり土地/畑のことです。だから、麦粒は、これが属している「土地そのもの」と不可分一体の関係にあることが見えてきます。ここでは、土地が麦を育み、その過程の中で麦の死と新たな命の芽生えが生じるのです。このことは、ゾーエーがプシューケーと相互関係にあり、この関係によって、プシューケーから新たなゾーエーが創造されることを指し示しています。したがって、一粒の麦の御言葉は、人が自分のプシューケーを憎む/捨てるならば、その者は、イエス様にあるゾーエーによって、彼の「プシューケー」それ自体が全く新しい意義を帯びることを表わすのです。イエス様のゾーエーの働きかけによって、プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものへと変容するからです。
 ここでは、ゾーエーとプシューケーとの区別よりも、むしろ、ゾーエーによらない「プシューケー」とゾーエーに活かされる「プシューケー」という、ふた種類のプシューケーの有り様が語られているのです。「プシューケー」には、動物的な生き方だけでなく、同時に「自分」という自己認識が含まれています。だから人間のプシューケーには、動物的な生き方と人間の自己意識すなわち「自分」というふた種類の「プシューケー」が具わっていることになります。
 人間は動物と異なって、立って歩く存在ですね。プシューケーの二面性は、このような人間存在と関係してくるのでしょうね。人間は、地上に属するだけではなく、天にも属しているのです。地上の自然の命から天の神様の命へ、地上の生物的な命から永遠の命へ向けて「立ち上がる」ように造られているのです。ヘブライ語の「クゥム」には、「立ち上がる」という意味と「生き返る」「復活する」という意味とがあります。新約聖書は、人間に与えられているプシューケーが、単なる生物的な「いのち」に終わるのではなく、永遠性を帯びていること、しかも目的を与えられて「生きる」という特徴を持っていることを教えています。永遠性と目的性とが、人間に啓示された「ゾーエー」に具わる二つの特徴なのです。
 殉教者たちは、このこと、自分のプシューケーを捨てる者は、これを保って永遠の「ゾーエー」にいたることを知っていたのだと思います。殉教は「死ぬ」ことではありません。肉体が「殺される」ことです。しかし、殺されるのは、本当の自分に「生きる」ためなのです。病気や災害で死ぬこととは全く違います。もしもその気になれば、いつでも信仰を捨てて、自分のプシューケーを救うことができるからです。ところが彼らはそれを選ば<ない>のです。どうしなのか? ほんとうの自分に生きるためです。だからこれは「死ぬ」ことではない。これは「生きる」ことです。「生きる」ために殺されるほうを選ぶことです。殉教は、殺されることによって自分が生きることなのです。
■人間の永遠性
 人間は、人間以外の動物の世界に所属することもできず、また、神あるいは神々の世界に属することもできませんから、「白鳥(しらとり)は哀しからずや、空の青海の青にも染まずただよふ」(若山牧水)とあるように、孤立した孤独な存在としての自己を知るのです。それでも人間には、動植物の自然界をどのようにコントロールするのかという課題を神様から与えられています(創世記1章26節)。それなのに、人間は神様に反逆したために、人間の内には、原初の動物的な生き方から受け継いだ暴虐と流血の暗い衝動が潜んでいます。自己目的のために自然を利用し略奪することで自然に荒廃をもたらす欲望を抱えています。もしもこのような衝動と欲望に身を委ねるなら、わたしたちは、遠からずノアの洪水と同じような自然と人類の破滅に陥ることになりましょう。
 ある人たちはこう言うかもしれません。ことさらに神を持ち出さなくても、自己努力で自然をコントロールして、これをうまく支配していくことができると。このような考え方は、人間がその理性の力で自然を支配しコントロールできるという自信過剰であり、自己欺瞞からくる「誤り/エラー」(これは「罪」の語源)です。少なくとも、現在の人知や理性の力では、とうてい及ぶことのできない力が、この宇宙に働いていることを知らなければなりません。人間は、はたして自分自身と自分を取り囲む大自然を正しくコントロールできるでしょうか? これができなければ、暴虐と流血がわたしたちを待ちかまえているのです。わたしたちは今、人間の誤った自然観や宇宙観が、やがて人類それ自体を破滅へ導くのではないか?という運命に怯えているのです。
  このような悲惨から逃れるためには、自然と宇宙を人の欲望が産み出す目的のためではなく、謙虚になって、人間に具わる霊性を通して、神様が啓示する正しい価値観へと導き入れられることが求められています。ヘブライの人たちが「ネフェシュ」と呼び、新約聖書が「プシューケー」と呼んだ、本当の自分、これを人格的な霊性によって正しく洞察することが「神の霊に与る人間」に求められているのです。人が高慢と反逆の心に支配されている限り、このような霊的な価値観に到達することはできないでしょう。こういう価値観は、人間だけが認知することのできる「神様からの啓示」によって、自然と共に生きるだけではなく、自然と一つの命を霊的に生きることです。神様に敵対する存在ではなく、神様との交わりの霊性に生きるように、新たに造りかえられることが今神様から求められているのです。
 今日ご参加の皆さんのうちには、すでにイエス様の御言葉の種が蒔かれています。その種は、皆さんのプシューケーのうちで、永遠の命にいたる神の「ゾーエー」を育み成長させようと働いています。どうぞ、その御言葉の命を大事に守り育ててください。朝夕祈りの水をやり、聖書の御言葉の光を浴びて、お一人お一人のプシューケーが、御霊にあるイエス様に導かれて、神様からの「ゾーエー」に生きる者となってください。自分のプシューケーを思い切ってイエス様に全託して、イエス様の「ゾーエー」に生きてください。そうすれば、自分の知らない自分が、自分のプシューケーから生まれ出てきて、「ゾーエー」にある栄光の姿が啓示されます。これこそ、「あなたがたの内にいますキリスト、栄光の希望」(コロサイ1章27節)なのですから。
〔注記〕聖書講話欄の四福音書補遺欄には、この「人間と永遠性」についての増補版が載せてあります。
                   戻る