講話の要項(聴衆へのハンド)
人間の永遠性について
【その1:人間の創造】
■血は命
◎第一コリント人への手紙15章42〜44節:
→霊のからだ(プネウマのソーマ)と自然のからだ(プシュケーのソーマ)。
◎「しかし、あなたたちは、肉をその命の血と共に食べてはならない。」
(創世記9章4節)
「人の血を流す者は、人によって彼の血も流される。
(神は)人を神の姿に造られたからである。」(創世記9章6節)
「血は命である」(レビ記17章14節)。
→(1)血液。(2)「いのち」の象徴。(3)神の御言葉。
→神の御言葉は物に価値観と目的を与える。
→「生きている」とは動くこと。
■2種類の人間存在
◎「主なる神は塵の人(アダム)を土(アダマー)から造った。
そして、その鼻に命の息(ニシュマット・ハイーム)を吹き込んだ。
すると人は生きた自分(ネフェシュ・ハヤー)になった。」
(創世記2章7節)
→「塵の人」から「息の人」への2段階。
→エゼキエル書37章7〜10節の「枯れた骨の生き返り」。
〔用語解説〕H(ヘブライ語)G(ギリシア語)
H「ヤハウェ」と「エロヒーム」が結びついた神の御名。
H「塵(アファル)の人」創世記3章19節「塵にすぎないお前(人)は塵に帰る」から。
H「ニッシャーマー」は「息する動物/霊魂」→人間は動物並みの「息の人」。
H「ネフェシュ」は「命/魂/自分」の意味。
H「ハーヤー」は「命/生きた」の意味。
H「ルアハ」息、風、霊、御霊。
G「プネウマ」息、風、霊、御霊。
G「プシューケー」魂、生物的な命、自己の命。
G「ゾーエー」救いの命、霊的な命。
■生きている「自分」
→「ニッシャーマー」は「息」だけでなく「霊」「ルアハ」(息/風/霊)。
→「生きた自分」(ネフェシュ・ハヤー)
(1)「ネフェシュ」には生物としての「生命」の意味。
(2)動物にはない霊的な「自分」:全人格的な存在。
「からだ」と不可分。人間の個人性。
(3)人間は他の動物と違う「神の像/似姿」(創世記1章27節)。
(4)神様のルアハの宿りは「御言葉を発した」から。
■死んでいる人
◎「死人を葬る仕事は死んだ人たちに任せて、あなたは神の国を伝えなさい」
(マタイ8章22節)
→「死人」は「塵の人」。
→動物と同じに「息」をして動く人と「死んだ人たち」。
→硫黄島の日本兵:偽りと殺人。
→「生きている人」は周囲に命を育て産み出す。
「死んでいる人たち」は周囲に死を作り出す。
■まとめ
(1)人間は肉体の姿形を神から与えられている。
(2)人間の息は神が与える。
(3)「ネフェシュ」は「息/命/魂/自分」の意味。「ほんとうの自分/真の命」。
(4)「生きた自分」の反対は「死んだ自分」。
→生物学的に死ぬことではなく「罪によって死ぬ」こと(ローマ6章23節)。
(5)「生きた自分」とは「神の似姿」の自分。→神の「御栄光/輝き」。
(6)生命の霊存は神の御言葉から。
■根源の言葉
◎社長の言葉発言→社員の行動の現われ→アナリストたちの外部からの分析
→客観的な数字やデーター→見えない言葉を見える現われから読み取る。
◎キリスト教現象を奥で動かす根源の御言葉→「み言(ことば)」。
→ナザレのイエス様を通して啓示された御言葉
→イエス様の御霊にある愛の命の御言葉。
【その2:人格と永遠の命】
■ふた種類の命
◎「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの御言葉によって生きる」(マタイ4章4節)。
◎「自分のプシューケーを愛する者はこれを失い、この世で自分のプシューケーを憎む者は、これを保って永遠のゾーエーにいたる」(ヨハネ12章25節)。
◎「アーメン、あなたがたに言う。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、だれ一人として、今のこの世で、迫害と共に、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑の百倍を受けない者はいない。また、来るべき世では、永遠の命(ゾーエー)を受ける。」(マルコ福音書10章29〜30節)
→地上の家族を捨てた者は、その家族の代わりに、霊的な意味での別の家族(クリスチャンの兄弟姉妹のような)が与えられるという解釈→家族や土地の「代わりに別の」と解釈するのは誤り。
→マルコの8章35節「自分の命(プシューケー)を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのため、また福音のために命(プシューケー)を失う者は、それを救う」と同じ。
→捨てたプシューケーが、イエス様のゾーエーによって新たによみがえること。
→プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものへと変容する。
◎「すべてが新しくなった」(第二コリント5章17節)。
◎「大切なのは新しく創造されること」(ガラテヤ6章15節)。
◎ナインの未亡人の息子の生き返り(ルカ7章11〜17節)。
→「再び元に戻る」ことではなく、この親子に、全く新しい命が与えられた。
■ラザロの「復活のしるし」
◎「もとのラザロに」戻ったのではなくて、全く新しいラザロが生まれた(ヨハネ福音書11章)
→よみがえったラザロのプシューケーは、死ぬ以前のプシューケーと同じではない。
→イエス様の「ゾーエー」こそ人のプシューケーに働く永遠の命。
→「ネフェシュ」も「プシューケー」もこの世限り。永遠の「ゾーエー」はこれらを通して働き永遠に残る。
→イエス様がマルタに「わたしが命(ゾーエー)である」と言われた。
→「エゴー・エイミ」の「ゾーエー」。
◎「プシューケー」と「ゾーエー」の区別ではない。
→死んだプシューケーとゾーエーの働きによって活かされるプシューケーとの二元性。
→神様の側から観れば「ゾーエー」ただ一つ。
■一粒の麦
◎アーメン、アーメン、あなたたちに言う。
麦の種が地に落ちて死ななければ、一粒のままであろう。
死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命(プシューケー)に執着する者はそれを滅ぼし、
この世で自分の命(プシューケー)を憎む者は、
これを保って永遠の命(ゾーエー)にいたる。
(ヨハネ12章24〜25節)
→麦粒は土地そのものと不可分。
→土地が麦を育みその中で麦の死と新たな命の芽生えが生じる。
→プシューケーそれ自体がゾーエーに属するものへと変容する。
→人間のプシューケーには、動物的な生き方と「自分」という自己意識のふた種類の「プシューケー」が具わっている。
◎ヘブライ語の「クゥム」には、「立ち上がる」という意味と「生き返る」という意味。→ギリシア語の「アナスタシス」も「起き上がる」という意味。
→永遠性と目的性が人間に啓示された「ゾーエー」に具わる二つの特徴。
→殉教者たちは「死ぬ」のではない。「生きる」ために殺されるほうを選ぶ。
■人格の永遠性
◎人間は人間以外の動物の世界にも神の世界にも属さない。
◎自然界をコントロールする課題を与えられている(創世記1章26節)。
→暴虐と流血の暗い衝動と自然を利用し略奪すること→ノアの洪水と同じ破滅。
→本当の自分、人格的な霊性が求められている。
◎イエス様の御言葉の種が蒔かれている。
→自分のプシューケーをイエス様に全託。
→「あなたがたの内にいますキリスト、栄光の希望」(コロサイ1章27節)。
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