09年春期東京集会講話
ナザレのイエス様の御霊
市ヶ谷私学会館 09年5月2日
東京へ来て皆さんにお会いする度に思うのですが、ここには、正統派の教会だけでもありとあらゆる種類の教会や集会があります。皆さんは、それらの集会を自由に選んで参加することができる状態にいます。今日ここにお集まりくださった方々も、昨日今日のクリスチャンではなく、すでに長年、聖書に親しみ、教会生活も、信仰生活も送っておられる方ばかりです。ですから、語り出せばきりがないほど、いろんな問題があります。しかし、前回の時もそうでしたが、今回も、福音の最小限の最重要事項だけをお伝えしたい。こう思うのです。
そこでこれから四つのお言葉をお伝えしたいと思います。これらの四つは、福音の最も大事な要点ですから、どうか心に留めてください。
(1)使徒言行録2章22節:
「イスラエルの人たちよ、これらのお言葉を聴いてください。ナザレのイエスこそ、神によってあなたがたに証しされた人であることを、神は、あなたがたの間で行なわれたイエスによる力ある業と不思議としるしを通して示されたのです。」
(2)ヨハネ福音書14章26節:
「しかしパラクレートス、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊、この方が、あなたがたにすべてを教え導き、わたしが語ったことすべてをあなたがたに思い起こさせてくれます。」
(3)ガラテヤ人への手紙3章2〜3節:
「わたしはあなたがたからこれだけを聞きたい。律法の諸行によって御霊を受けたのか? それとも、信仰によって聞き従ったからか? そんなにも悟りが鈍いのか? 御霊によって歩み始めたのに、肉よって仕上がるのか?」
(4)第二テモテへの手紙3章14〜16節:
「あなたは、学んできたこと、堅く信じてきたことに留まりなさい。だれから学んだかを知っており、幼い頃から聖なる書物を知っているからです。それは、イエス・キリストの信仰を通して救いにいたる知恵をあなたに与えてくれます。聖書はすべて神の霊感を受けており、教えにも、忠告にも、矯正にも、義において鍛えるのにも有益です。」
ここには、聖霊体験を求めておられる方々がおられます。しかし、すでに先ほどの証しの中でも話が出ていましたが、聖霊体験は、別名「分裂体験」でもあるわけで、いったい何のための聖霊か? ということにもなりかねないところがあります。だから、そうならないための最も基本的なこと、これをしっかりと心に刻んでほしいのです。そうでないと、せっかくの聖霊体験が、逆に仇になってしまうことになりかねません。第一ヨハネの手紙2章7節に「わたしがあなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、すでにあなたがたがよく知っている戒めです」とあるように、これからお話しすることは、クリスチャンならだれでも知っていることです。それでも、ヨハネは、「しかし、わたしは新しい戒めとして書き送ります」と言っていますから、わたしも、改めて皆さんに確認していただきたいと思うのです。なぜなら、これらこそが、聖霊にある歩みの最も大事な要点であり、聖霊体験の根拠だからです。
ではお手元の四つのお言葉を読みますが、これはわたしが直接原文から訳したものです。なるべく原文に近い直訳体で訳してありますので、少しぎこちないですが、皆さんがお持ちのそれぞれの日本語訳と比較して、両方を併せて読んでください。
(1)第一の聖句は、使徒言行録2章22節で、これは聖霊降臨の直後のペトロの説教からです。ここの大事なキー・ワードは「ナザレのイエス」です。どうして「ナザレのイエス」かと言いますと、誤解を恐れずに言えば、わたしは、ここで「キリスト」という言葉をあえて避けたいのです。わたしの家の近くに「世界救世教」という教団の立派な施設と庭園があります。この教団は以前「世界メシア教」と名乗っていましたが、何時の頃からか現在の名前になりました。「メシア」はヘブライ語で、これのギリシア語が「キリスト」ですから、この教団も以前は「世界キリスト教」だったわけです。しかし、世界救世教は、聖書の信仰となんの関わりもありません。ジョン・レノンも自分を「キリスト」だと思ったそうです。困った時には「神様、仏様、キリスト様」と唱える日本人がいるそうですが、東京の皆さんなら、正統と非正統を含めて、いかに多種多様の「キリスト」が語られているのかご存知だと思います。
だからわたしは、意図的に「キリスト」を避けて、あのナザレのイエス様をお伝えしたいのです。言うまでもなくこのイエス様は、十字架におかかりなるまでの2年半ほどの間、ガリラヤとユダヤで神の国をお伝えになった方です。四福音書が伝えようとしているのが、この「ナザレのイエス様」です。
「四福音書が伝えようとしている」と言うのは、わたしの言うナザレのイエス様は、現在問題にされているいわゆる「歴史のイエス」あるいは聖書学で言う「史的イエス」のことでは<ない>という意味です。現代の聖書注解は、ほとんどが、「ナザレのイエス」と言えば、かつて歴史上に存在した人間としてのイエスのことであって、それはどこまでも客観的な歴史学の視点から考察された「人間イエス」のことです。こういうイエス像なら、社会科の教科書にもでていますから、だれでも<信仰抜きで>理解することができます。現在日本で出版されている学問的な聖書注解は、ほとんどがこういう史的イエス像に基づいています。
しかしこのような史的イエスは、四福音書が伝えようとしているイエス様ではありません。どこが違うかと言えば、福音書が伝えているのは、ペトロのメッセージあるとおり、「神によってあなたがたに証しされた人」であり、神が、「イエスによる力ある業と不思議としるしを通して示された」とあるイエス様だからです。ここで「神」とあるのは、イエス様ご自身が信じておられた主なる神のこと、旧約聖書が証ししているヤハウェのことです。創世記の第一章にある天と地を創造された神のことです。イエス様は、この神を信じ、この聖書を信じて、「聖書に書かれたあることが実現する」ために、この神の導きに「死にいたるまで従順で」あられたのです(フィリピ2章7節)。
(2)第二の聖句はヨハネ福音書14章26節です。「パラクレートス」とは、ヨハネ福音書独特の言い方で、「慰め主」「助け主」「同伴者」「弁護者」などと訳されています。ここでは、イエス様の父とイエス様と聖霊(パラクレートス)とが一つになって三位一体の神のお働きとして語られています。
ここで「わたし」とあるのは、イエス様のことです。当たり前のことですが、学問的な立場からは当たり前ではないのです。なぜなら、ヨハネ福音書は90年頃に書かれていますから、ここで言う「わたし」は、その頃、ヨハネの教会が信じていた「イエス・キリスト」のことであって、あのナザレのイエスのことでは<ない>という見方をするからです。60年前の史的イエスとヨハネ福音書の「イエス」とが、どうして同じなのか? というのが現代の学問的な聖書注解の立場です。
わたしは、できればこの場に、ヨハネ福音書の作者ヨハネを呼び出して尋ねてみたいです。「あなたは、福音書で『イエスはこう言われた』と書いていますが、その『イエス』というのは、現在あなたが信じているイエスのことであって、かつて地上を歩まれたあのナザレのイエスのことではないのですね?」と。ヨハネはきっとこう答えると思います。「いいえ。わたしが言う『イエス』は、かつてのナザレのイエスのことです。そのナザレのイエスが、復活して今もわたしたちと共いてくださるから、わたしたちが信じているイエスとナザレのイエスとは同じです」と。現代の聖書学者とヨハネ福音書の著者とでは、大事なところが食い違っていますね。聖書を書いた人たちが証ししているとおりのイエス様、これがわたしのお伝えしたいナザレのイエス様です。
だから、ヨハネがここで言う「聖霊」とは、教会でよく聞かされる「聖霊」のこと、すなわち、十字架の<後で>、復活して昇天されたイエス・キリストからペンテコステの日に降ったあの「聖霊」のことだけではありません。これも聖霊には違いありませんが、ヨハネがパラクレートス=聖霊としてここで伝えたいのは、むしろ、ナザレのイエス様の内に働いておられた「神の聖霊」のこと、先ほどのペトロの証しにあるとおりに、「神が証しされた」ナザレのイエス様に宿られた聖霊のことなのです(ヨハネ20章22節)。聖霊は、イエス様の復活<以前に>、地上を歩まれたイエス様を通して「力ある業と不思議としるし」を生じさせていました。ここでわたしは、皆さんに改めてお尋ねしたい。皆さんは、このナザレのイエス様にお祈りしたことがありますか?
現在の聖書学者も、多くのクリスチャンも、このイエス様と復活以後のキリストのことを「史的イエス」と「復活のキリスト」として区別します。これは学問的な方法論としては正しいけれども(これ以外に学問としての客観的な方法論が成り立ちません)、このような聖霊観は、ここでヨハネが伝えようとしている聖霊の大事な側面を見落としています。「聖霊」とは、ナザレのイエス様に働いていた「神の霊」のことです。復活されたのは、<この聖霊を宿した>イエス様のことであって、いわゆる史的イエスでもなければ、歴史のイエスと区別されたいわゆる「キリスト」のことではありません。聖霊についてのあらゆる誤解は、「このこと」が見落とされるところから生じるのです。
だから、ヨハネは、聖霊を「この方」と読んでいます。聖霊は、あのナザレのイエス様が、今も生きておられることを証しするのですから、「この方」は、霊能や霊的なパワーのことではありません。ヨハネがここで言う「パラクレートス=聖霊」は、ナザレのイエス様ご自身のことだからです。これは、聖霊が、わたしたち人間の一部となって、あたかも自分に具わる霊的な能力であるかのように思い違いをすることがないためです。わたしたちは、聖霊を信じるのではなく「聖霊様」を信じるのです。特別の聖霊の働きや聖霊の「満たし」のような「何か」を信じるのではなくて、御霊のイエス様という「お方」を信じるのです。このお方が、あなたを導いて、あらゆる真理に導いてくださいます。このお方は、四福音書に書かれていることが、ナザレのイエス様の霊性とそのお働きであることを初めてあなたに悟らせてくださいます。パラクレートスの聖霊が、「わたしがあなたがたに語ったことをすべて(あなたたちに)<思い起こさせる>」とあるのはこの意味です。福音書を読む時に聖霊の導きを祈り求めるのはこのためです。
(3)第三の聖句はガラテヤ人への手紙3章2〜3節です。パウロはここで「律法の諸行」という聞き慣れない言い方をしています。「諸行無常」と言いますから、人間のやることはいっさいが「無常」で虚(むな)しいです。しかもここでは、「律法の」とありますから、特に宗教的な行ない(修行)や言説のことを指しています。イエス様から「聖霊を受けた」とは、イエス様があなたと共におられることを知った/悟ったことです。このことが聖霊によって示されて、復活のイエス様の御臨在に触れたことです。
こういう聖霊体験は、異言となったり、その他いろいろな身体的、心情的な現象を伴います。ところが、こういう体験は、多くの人たちが考えるように、一生懸命努力したり、何か特別な修行によって得られる性質のものではないのです。努力すること、求めることは大事です。しかし、そのことがすぐに聖霊体験につながるとは言えません。御霊のイエス様の恵みと救いは、太陽の如く雨の如く絶対無条件です。なんにもしなくても、なんにも思わなくても、ただ黙って、無心になって、子供のように単純にイエス様のお言葉を聴いて信頼する。そうすると、自然に霊的な体験が与えられます。ただあるがまま、そのままです。なんにも言わず黙って自分の全部をお委ねすること、これが最大の修行です。
クリスチャンに「なる」というのは、年月を重ねてクリスチャン「らしく」なることではありません。日ごとに新しくイエス様に信頼し、日ごとに新たに「創造されて」いくこと、肉の自分にありながら、イエス様の御臨在を「身にまとう」ことで、日日「イエスの死をこの身に帯びる」存在にされていくことです。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(第二コリント4章10節)とあるとおりです。身に「まとう」衣服のように、外からはそれが自分のように見えますが、衣服と自分の裸とは、たとえどんなに密接に関係していても、一つになることは絶対にありません。御霊は「霊衣無縫」ですから自由自在です。だから、「初心忘るべからず」です。「御霊によって歩み始めた」のなら、どこまでも、イエス様のみ跡に従って歩む。ただそれだけです。
(4)第四の聖句は、第二テモテへの手紙3章14〜16節です。
「あなたは、学んできたこと、堅く信じてきたことに留まりなさい。だれから学んだかを知っており、幼い頃から聖なる書物を知っているからです。それは、イエス・キリストの信仰を通して救いにいたる知恵をあなたに与えてくれます。聖書はすべて神の霊感を受けており、教えにも、忠告にも、矯正にも、義において鍛えるのにも有益です。」
先ほどからくり返しているように、四福音書が証ししする「ナザレのイエス様」とは、現代の聖書学で言う「史的イエス」のことではありません。また、復活以後の教会が信じていたキリストと「区別された」ガリラヤのイエス様のことでもありません。学問的には正しくても、霊的には不正確なのです。ナザレのイエス様がどのような歴史的で社会的・宗教的な状況の下で語り行動されたのか、これを客観的な歴史的資料に基づいて考察するのは大事です。
けれども、わたしははっきりと言います。この私市元宏という人間をどんなに正確な客観的資料に基づいて、社会的に宗教的に歴史的に考察し分析しても、そこにイエス様を信じ聖書のお言葉を信じる私市元宏は出てきません。いわゆるクリスチャンとしての人間私市なら<ある程度まで>把握できるでしょう。しかし、イエス様の御霊にある「霊の」私市は、絶対に見えてきません。自分でも見えないもの、自分でも分からないものがどうしてほかの人間に分かるのですか? デンマークの哲学者ゼーレン・キェルケゴールが当時の教会に向かって言ったのはこのことです。
四福音書を始め、新約聖書が証しするイエス・キリストは、宇宙を創造された神によって証しされ、神の聖霊にあって語り行動されたイエス様のことです。力ある業と不思議としるしを行なわれたイエス様のことです。十字架におかかりになり、復活して今もわたしたちと共に歩み給うナザレのイエス様のことです。外から客観的に見て、だれの目にも、これこのとおりと納得させてくれる人間としての史的イエスのことではないのです。聖書が「神の霊感を受けて」書かれているとはこの意味です。
聖書を通してこのイエス様に出会い、このイエス様と共に歩むならば、あなたにはイエス・キリストの「知恵」が与えられます。御霊の知恵があなたに臨むからです。御霊は「知恵の御霊」だからです(第一コリント1章30節/同2章6〜8節/エフェソ1章17節)。「知恵」とは、古今東西のあらゆる民族、あらゆる文化、あらゆる地域において、人類のそれぞれに与えられてきたものです。しかしこの「知恵」が、神の知恵として、最後にはイスラエルに「その住まいを定めた」とあります(シラ書24章6〜10節)。この意味でイエス様は「知恵の子」です(マタイ11章19節/コロサイ2章3節)。
批判的な聖書注解を読むのもいいでしょう。学問的で客観的な考察も必要でしょう。しかし、そこからは「救いにいたる知恵」は生じてこないのです。これを与えてくださるのは、聖書が証しするとおりのナザレのイエス様の御霊を通してのみです。祈ります。
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