2009年(秋期)東京集会講話
第三の位格:御霊のお働き
■御霊は神
 今日はイエス様の御霊の特徴を幾つかの項目に分けて、なるべく具体的にお話しできたらと思います。御霊、「聖霊」と云いますのは、言うまでもなく三位一体の神御自身のペルソナのことです。ペルソナは、英語の「パーソン」、人柄、人格ということですね。もっともこの場合は、人ではありませんので、神格です。でも「神格」という日本語はありませんから「位格」と云います。ですから、聖霊は第三の位格です。「我は聖霊を信ず」と使徒信条にもある聖霊がこれです。「第三」というのは「第二」のペルソナがおられるからで、これが、復活されて神と共におられるイエス様です。かつてユダヤにおられて、父である神ご自身を啓示してくださったあのお方が第二の位格(ペルソナ)です。第三とは、このイエス様が、復活されて御霊として今も働いておられることです。歴史的に見れば、父なる神→子なるイエス・キリスト→イエス・キリストの御霊の順に啓示されてきました。しかし、現在の観点から、三位一体の啓示の歴史的な過程を振り返ってみると、三位一体が重なり合って見えます。父と子と聖霊とが三つの同心円になって見えるのです。存在する父と啓示するイエス様と働く御霊です。
 御霊は神様です。しかも人格的なペルソナの神様です。ペルソナの神様とはどういうことでしょうか?わたしたちが御霊に向かって「祈る」こと、「語る」ことができることです。皆さん方は理論に向かって語らない。理論は頭で考えますからね。でも、ペルソナの聖霊に向かっては、考える前に語りかけるのです。祈るのです。
 ある伝道者は、朝、起きたら、「聖霊さま、おはようございます」。夜、寝るとき「聖霊さま、おやすみなさい」こう祈るそうです。実はわたしもゼミナールの学生に言ったことがあります。全くイエス様のことを知らない学生たちです。「あなたがたは信じたいと思うか?」「信じたいと思うんですけれども・・・先生、どうしたらいいですか。」「それじゃ、朝起きたら、『イエス様、おはようございます』。夜、寝るとき、『イエス様、おやすみなさい』。それだけ一週間続けてごらん」と言ったんです。ゼミの学生は9人ほどいましたが、その次の週に、言われたとおりにした人は手をあげてごらんと言ったら、一人だけいました。その一人は今でもイエス様を信じています。どうぞ皆さん、聖霊さまに祈ってください。では祈るとはどういうことでしょうか?
■御霊で祈ること
 御霊様に向かって祈るというのは、復活のイエス様の御霊様に向かって祈ることです。ところが、神様ですから、もう一つあります。<向かって>祈るだけではなくて、御霊様<にあって>祈るのです。ですから、御霊<に>祈ると同時に、御霊<で>祈るのです。さあ、ここが難しい。御霊に祈るということは分かるけれども、御霊で祈るというのはどういうことなんだろうとね。だってそうでしょう。祈ることが<できる>こと自体がすでに神様のお働きなんです。どうぞこのことを分かってください。イエス様を信じない人はイエス様に祈れないんですよ。逆に言えば、「イエス様!」と呼びかけることができるのはどういうことか、これが、なかなか分かってもらえないのです。
 今日ここにお見えにならなかった方のことですけれども、その方は、祈っていると不思議な感じがして、身体が熱くなるそうです。一体これは<わたしが>祈っているのでしょうか?それとも神様が祈っておられるんでしょうか? どっちなんでしょうと尋ねてきたんです。祈る時に考えだすと祈りが消えていくのですね。イエス様に向かって祈ることができるということは、御霊に祈っているだけではない。御霊でも祈っていることですよ。<に>と<で>は同じことなんです。だからパウロの手紙には、だれでもイエス様の御霊に感じなければ、「イエスは主である」と言い表わすことはできないとあり、「だれでも主の御名を呼び求める者は救われる」とあるのです。呼び求めると救われるのかな? 皆さんはこう思うかもしれませんが、ルターは言いましたよ。救われているから救いを求めるんだと。救われていなければ救いを求めないんです。御国に入っているから、御国を求めるんです。キリスト教は不思議な宗教ですね。始まって初めて求める。だから、終末に天国が来るとよく云いますけれども、いつ天国が来るんだろう? と考えますでしょう。そうじゃなくて、天国に入っているから天国を求めるわけです。「すでに」と「まだ」、これはキリスト教の基本的な時間関係です。御霊に祈ることは御霊で祈ることなんです。
■御霊の体験とは?
 イエス様の御霊に向かってお祈りすることに反対する教会はまずありません。カトリック教会であろうと、どんな教会であろうと。だって、それを否定したら三位一体の神を否定することになりますから。父と子と聖霊の御名を否定する教会はありません。だから御霊に向かって祈ることはどの教会でも否定しません。ところが、御霊<で>祈ることになると、「ちょっと待て!」となるのです。御霊<で>祈るというのはどういうことなんだろう?と。おかしいと思いませんか。祈ることができるのは、すでに神様が働いていなければできないことなんです。だったら、お祈りすることは御霊に向かって祈っているだけではないでしょう? <向かって>祈るのは客観的です。御霊は<向こうに>おられるのですから。そうではなく、御霊<でも>祈っているのではないですか。
 では、祈るのはわたしなんだろうか、神様なんだろうか、これが問題です。多くの教会では、御霊が「いい」とか「悪い」とか、「聖霊のバプテスマ」とはこうだとか、ああだとか、異言を語らなければならないとか、語ったらだめだとか、いろいろ区別をつけるのは、実はここに問題があるからです。御霊で祈っているのですから、祈っているのは御霊であり、わたし自身です。先ほど司会の兄弟がおっしゃっていました。祈ると身体が熱くなってくる。さあ、これは御霊でしょうか。身体が熱くなったら御霊かなあ? 熱くならなかったら御霊でないのかなあ?これは難しい。異言が出てきたら、これが御霊ですか? じゃ、出てこなかったら御霊ではないのかなあ? これも難しい。異言が出てきたから御霊だ、出てこなければ御霊でない。こう言い出すとおかしなことになるのです。身体が熱くなってくると聖霊が働いたけれども、聖霊が熱くならないと聖霊が働かないと言い出すとおかしくなるのです。
 ただし、自分は特別に神の恵みを受けているんだから、熱くなっているのだから、神様から恵まれているんだと、そこで思い上がると具合が悪いことが起こるのです。聖霊体験だといって、これを受けないと聖霊を受けたことにならないと言わんばかりにやり出すと、具合が悪くなるんです。病気が癒されたのは、すばらしいことです。だったら病気が治らない人は不信仰だ、こういうことを教会で言い出すと困るのです。それなら、癒されなかった人はどうなるんですか? アメリカから立派な伝道者がやってきて、病気癒しをやった。癒された者も幾人かはいるでしょう。でも、癒されたいと思った人の中で癒された人はごく一部。ほとんどの人は癒しの体験を与えられないままで帰っていくわけですよ、皆さん。その人たちはだめだったんですか? おかしいじゃないですか。
 御霊に感じると体が熱くなったり、異言がでてきたり、倒されたり、そこにはいろいろな現象が生じます。しかし、それら一つ一つの現象自体を「これこそ御霊だ!」と思いこんでは困ります。異言が御霊のお働きで<ない>と言うのではありませんよ。ここが難しい。先に言いましたね。御霊とは神ご自身のことだと。だから、いろいろな現象が起こっても、それが神ご自身だと思いこんではいけないのです。「笑わなければ御霊を受けていない」とか「異言を語らなければ御霊が働いていない」などと判断するのは危険です。
■主客一如
 だから、御霊で祈る。じゃ、それはわたしが祈っているのですか? そうです。じゃ、わたしだけが祈るのであって、それは神様ではない?いいえ、神様もです。では、一体わたしは神ですか? さあ難しい。またそこで考え出すのです。わたしもいろいろ考えますから、その気持ち分かります。でも、そんなこと考えたら祈れませんよ。実は、この祈りの世界は、自分だけの主観の世界ではないのです。また自分の外の客観の世界だけでもない。わたしが祈っていて、わたしの外で神様も祈っていてくださるのです。これは主観でも客観でもない世界なんです。ちょっと難しい言い方をしますけれども、これがわたしの言う主観の世界と客観の世界が一つになった姿、「主客一如」の霊の世界です。主観と客観、自分の内と外とが一つにつながる世界です。み霊にある祈りでは、主観と客観と区別することはきません。説明するのは非常に難しいですが。
 「風/霊は思いのままに吹く。人はその音を聞くけれども、どこから来てどこに行くのかはわからない」とヨハネ福音書にあります。音がすれば客観的に分かるけれども、しなければ、自分だけしか分からないのです。だから、主観でもないよ、客観でもないよ。西田哲学の言い方を借りて言いますけれども、「主客一如」の世界なんです。だから、ただ「有難うございます」と言って祈っていくことです。では、自分の理性はどうなるのですか? これは難しいね。理性のことも任せて、ただ祈っていれば、おのずとそこに霊的な理性が啓(ひら)けてくるのです。
 御霊に導かれて祈るその時には、祈る「あなた」は、ただの「あなた」ではないのです。自分勝手に自己限定する「あなた」のことではないのです。そういう主観的な自己限定や自己分析は止めてください。御霊にあるあなたとは、自分の知らない<あなた>、神様に「知られている」あなたなんです。これは主観ではない。自分の外に存在する客観でもない。そこに啓けるのは、自分だけの主観でもなく客観でもなく、主客一如の霊的な世界です。主観と客観を区別する人間の理性を超える祈りによって与えられる悟性です。賛美歌にあるように「我ならぬ我の現われ出でて」です。こういう神様のお働きは実に多種多様です。これが御霊に祈るということ、御霊で祈るということなんですね。
■御霊のお働き
 でも、その御霊で祈る体験というのはちょっと怖い。集会に来たら何かすごい恵みを与えられるんではないかと期待して来ている方がいるかもしれません。ところが、いざ、霊的な働きかけが迫ってくると何か怖くなってくるんですね。「ちょっと待って」、ということになるんです。実際に来たら分かります。このまま行ったらおかしなことになるんではないだろうかと、特に知的な人ほどそう思いがちになります。あるいは、これは自分自身で、心理的な操作をしているのではないか、自己暗示にかけているのではないか、などと反省し始めるわけです。経験がありますから、わたしにはよく分かります。そうすると、霊感はすうっーとどこかに行ってしまって、また元に戻るわけです。
 改めて言いますが、御霊とは働くお言葉のことです。先にお話ししたとおり、父と子と聖霊では、まず父があって、最初に旧約時代、それからイエス様が来られて、それから聖霊の時代と、時間的に見ればこの順番で啓示されています。わたしが「啓示の進歩」ということを言い、また、啓示は「動く」とも言いました。父と子と聖霊というときには、まず父なる神の存在、神様が「おられる」ことを知っていただきたいのです。いろいろ理屈をつけますけれども、神様がいるのか、いないのか、これがよく分かっていない人が、クリスチャンの中にもいるんです。イエス・キリストが分からないとか、聖霊が分からないとかいろいろ言いますが、よく話を聞いてみるとどうもおかしいんですね。そこで「あなたは、いったい神がいることを信じていますか?」と言うと、「さあ、分からない」と言い出すんです。「そうか、神様は、ほんとにいるのかな」という話になってくるわけです。
 だから、父なる神が現実に存在しておられること、これが大事なのです。この父なる神が「どのような」お方なのか?これを啓示してくださったのがナザレのイエス様でしょう。ヨハネ福音書でイエス様が、「わたしを見た者は父を見たんだよ」とピリポにおっしゃったでしょう。だから、ナザレのイエス様を通して父なる神が顕われてくださったのです。じゃ、聖霊は何のために来たのでしょうね? 聖霊は父なる神がどのように「働く」のか、これを顕わしてくださるのです。「神とは何か?」、これはわたしにもわからないですよ。「父」にもいろいろいて、いいおやじもいるし、悪いおやじもいるからね。ある人は怖いおやじを思い出してこれが神様だと思っている人がいるし、ある人は優しいお父さんを思い出しているかもわかりません。でも「神とは何か?」と尋ねられても答えることができません。
 では、イエス様とは何か? こう尋ねられたらどうでしょうね。これは2000年前に来られたナザレのイエス様のことですが、実はこれもよく分からないのです。聖書神学では、「史的イエス」の研究などということをやっています。本屋さんに行けばいろいろな本が出ています。でも、今から2000年前のイエス様のことを詳しく知るのはなかなか難しいです。これはこれで大事なことですから、そういう研究が無駄だと言っているのではありませんよ。
 だから、神様もイエス様も、実はよく分からないのです。では、イエス様のみ名によって神から遣わされる御霊はどうでしょう? 御霊とは何か?と問われても、これも答えるのが難しいのです。けれども、分からなくても、御霊の「働き」は分かるのです。たとえて言えば、「命とは何ですか?」と言われて、説明せよと言われても、わたしには分からないですよ。「でも、あなたは生きているじゃないですか。心臓が動いているでしょう。だったら、命とは何かを説明してくださいよ。」こう言われてもそんなこと説明できませんよ。専門の医者だってなかなか説明できないでしょうね。でも、命そのものは分からなくても、その命の調子がいいかどうかは分かります。顔色はいいか、とか、体調はいいか、とか、そういう命の「働き」は分かるのです。自分のことですからね。これと同じように、神とは何ですか?と聞かれても、分からないし、説明もできません。
 2000年前のナザレのイエス様とはどういう人か、説明しなさいと言われても、これはなかなかできません。でも、司会の方が先ほどおっしゃったように、復活して今も御臨在くださるイエス様、このイエス様にお祈りしたら、主様のご臨在を通して働きが見えてきた、顕われてきた、その「お働き」ですね、これなら分かるのです。身体が熱くなったとか、何も感じなかったとか、お働きにはいろいろあるでしょう。朝は身体が熱くなったけれども、晩になったら冷たくなったという場合もあるのです。わたしも昔は、立派な先生のところに説教を聞きに行った。すごく恵まれて、ハレルヤ、感謝だと喜んで、その晩帰っても、次に日には、もうなんだか頼りない感じがする、などということがよくありました。
 聖書の神、イスラエルの聖書の神というのは基本的には「働く」神です。存在論ではありません。言葉が難しくなりますが、理論ではないのです。瞑想によって悟る神ではないのです。瞑想もいいですよ。でも、どこまでも「どのように働く」のか、そういう神なんです。ですから、これは「顕われる」神です。「顕われ」は実に多種多様です。だって神様のお働きは、大自然をお造りになったのですから、多種多様なのはあたりまえです。 だから、聖霊の働き一つにしても、あなたが熱くなったからといって、熱くなったことが聖霊だと考えてはいけません。異言が出てきたからといって異言が聖霊だと考えてはいけません。では異言は聖霊でないのですか? 異言は聖霊のお働きなのです。それなら異言で語らなければ聖霊ではないでしょう?そうでもないんです。さあ、難しい。自分に起こったら、それが聖霊だと思いこんで、それ以外のものは全部聖霊でないと思いこむのです。これこそ霊感だ、そう思い込むんです。だから始末が悪いね。ゲラゲラ笑う聖霊もあるようです。わたしはまだそういう聖霊に出合ったことはありませんが、笑わなきゃいけないと教える集会があると聞きました。それこそ笑い草ですが、でも、笑い事ではないね。こんなおかしなことが、日本の教会にも、外国の教会にもあるのです。
■礼典と御霊
 直接の霊的な体験でなくても、カトリック教会などにはさまざまな礼典がありますね。そういう礼典を通して体験が来ることもあるのです。礼典なんか聖霊と関係がないから、それは聖霊体験ではない。こう言う人がいるかもしれません。でも、現に礼典を受けているうちに不思議な力が来たら、どうなるのですか?それは聖霊ではないのですか?カトリックのクリスチャンでミサを受けているときに、聖霊が降って異言体験が与えられた人がいるのです。わたしはそれほどミサに忠実ではないから、ミサを受けたからと言って、異言が出ることはまずないと思うんだけれども、カトリックのクリスチャンだから、ミサを受けて有り難いと思った途端に異言が来たのでしょう。それも聖霊体験ではないですか?礼典を通して御霊が下るのなら、礼典が大事だ! こういうことになりますか?話がややこしくなるからやめましょう。難しいですね。御霊のお働きというのは。お働きは実にさまざまです。
 先ほどわたしは神様に向かってお祈りすると言いました。祈るとは、わたしたちがイエス様のみ名によって神様に「語りかける」ことです。語りかけたなら、相手は人格ですから、それに必ず応えてくれるんです。物に向かって語っても答えは来ません。理論に向かって語っても答えは来ません。悟りの世界を開こうと修行する人が、いくら修行に向かって語っても応答は来ないのです。だから、禅宗の坊さんは「語りかける」ことはしません。ひたすら無念無想です。しかし、人格の神様は語りかけることができる。ということは「語りかけてくださる」ことなのです。ここが大事です。神様は「語りかけて」くださる。そうです。御霊が「働く」というのは、神様が語りかけることなんです。神様が語りかけてくださった。聖書は、この神様のお言葉の記録なんです。カトリックにもいろいろ伝統的な礼典があるでしょう。あれは全部それなりに理由があるんでしょうね。神様が何かのお働きをなさった、その結果が洗礼であり、聖餐式です。これ以外にもいろいろと、イエス・キリストを通して、神様が語りかけてくださった出来事が、礼典として伝えられているわけです。
■語りかける御霊
 神が語りかけてくださるのなら、神は日本語で語ってくださるのか? 「イエス様、わたしを救ってください。」こうお祈りしたら、途端に御霊が降る体験が与えられて、「あなたは救われた!」と日本語で天から声が響いてきたら、一番いいんですが、なかなかそうはいきません。しかし言語としての言葉でなくても、なんだか不思議な体験をしたとか、皆さんそれぞれに、のっぴきならない状態で洗礼をお受けになった時、あるいは受ける決心をされた時、何かがそこであったわけでしょう。それが神様からの語りかけではないですか。それがイエス様からの語りかけではないですか。それが「おことば」なんです。言葉になることもあるし、涙がポロポロ出てきたとか、自分の過去の罪が示されたとか、いろいろあります。
 だから、わたしはいつも「聖霊とは何ですか?」と訊かれたときに、逆にその人に、「あなたは洗礼を受けましたか?」と訊くのです。「受けました。」「では、そのときどういう気持ちになりましたか?」その時のあなたの気持ち、それは聖霊のお働きです。そこから聖霊体験がスタートしたのです。「初心忘るべからず」です。そこからすべてが始まっているのです。それは出来事です。だから言葉の「言(こと)」は「事(こと)」なんです。日本語で「あなたは救われた」という言葉が聞こえなくても、皆さんが洗礼をお受けになったときに起こった「こと」が、神様の御言葉なんです。
 ギリシア語で「起こった」は「エゲネト」です。ヨハネ福音書には、洗礼者ヨハネが「エゲネト」したとあります。ロゴスは肉体となって「エゲネト」したのです。ヨハネ福音書は起こった出来事を伝えています。聖書は出来事なんです。神様の言葉とは「神様の出来事」なんです。「言」は「事」です。出来事は簡単に説明できません。だから、難しいんです。だから、救われることは生まれることにたとえられているのです。「どうやって生まれてくるんですか?もう一度お母さんのお腹に入って生まれてくるんですか?」こうニコデモがイエス様に尋ねますね。「あなたイスラエルの教師を長年やって聖書を勉強しているのに、そんなことが分からないのか」と、イエス様はあきれてニコデモに言ったとヨハネ福音書にあります。生まれてくるのは出来事ですね。でもこれを説明せよと言われても説明できません。説明できなくても、確実に起こっていることです。神様はそういう方です。
 だから神を「知る」ためには、その「お働き」でしか知ることができません。「出来事」としてしか知ることができません。いろいろな体験があるでしょう。それでいいのです。「それでいい、それでいいと、一体どれがいいのか分からない。」でもわたしに言わせればどれだっていいのです。赤い花もあれば、黄色い花もあれば、白い花もあるのです。どの花が神に造られたのかと尋ねる必要はないのです。神様は宇宙を造られたお方ですから。そういう神が「おられる」ことを知るのが大事なんです。
 「そういう神がほんとにおられるんですか?キリストの神さんは、アメリカの神様じゃないんですか。」「アメリカの神さんですよ。アメリカの神様だって、日本の神様だって、同じ神なんですよ。」「ああ、そうだったんですか。」こういうことを初めて聞いたような、そんな人がけっこういるんです。日本には、キリストが「アメリカの神様」だと思っている人がたくさんいるんですよ。神様のお働きが「出来事」だということを知らないのです。
■御霊の証しは証明できない
 神のお働きは「霊的な出来事」です。出来事は体験できます。でも、その体験が神ではありません。体験は神の「お働き」なんです。お働きは実にいろいろありますから、皆さんそれぞれに感じることができます。「考える」こともできますよ。あなたが心の中で考えること、それもやっぱり神のお働きと無関係ではないのです。「あの時は、確かに神様がおられると信じて洗礼を受けたんだけどなあー」なんて言う人がよくいますけれども、「その時には」神があなたにお働きくださったのではないですか。だから皆さん、「初心忘るべからず」です。人間の理性も神様のお働きを受けるのです。
 ただし、神のお働きは「霊的な」出来事です。霊的な出来事というのは厄介です。霊的な出来事は「証明する」ことができないからです。イエス様はほんとうに復活されて御臨在しておられるのか、神様は本当におられるのか、証明して見せろと言われても、これが証明できないんです。それを「見せる」ことができるとすれば、方法はただ一つしかない。ここに信じているクリスチャンが「現にいる」。これしか見せることができないのです。イエス・キリストの霊的な出来事を見せることはできませんけれども、その出来事の結果できてきた、教会の建物とか、キリスト教の制度だとか、クリスチャンの集まりだとか、そういう「外に現われている」ものなら見せることができるんです。
 キリスト教の神ご自身を取り出して見せることはできませんが、いわゆる「キリスト教」の存在は、だれも否定できません。日本の社会科の教科書に聖書の神は存在しますとは書いてありません。しかし、ナザレのイエスを通して今から2000年前にキリスト教が成立したということは、ちゃんと書いてあります。年表にも出ています。これは「客観的な」出来事として見せることができるんです。イエス様の御霊の御臨在は、「クリスチャンが存在している」という出来事でしか見せることができないんです。だから、これは「証明する」ことはできないけれども、「証しする」ことができるんです。だからわたしたちは証しするのです。証明できないから、なかなか伝わらないです。だから祈るのです。霊的なことというのは、証明できないけれども、証しすることはできるんです。これは非常に大事なことですね。
 ああ、生まれるのが2000年遅かった。せめて2000年前に、あのペトロと同じ時に産まれていたら、イエス様に出会っているから信じることができるのに。私市先生の話では、もう一つ頼りない。そんなふうに思う人もいるだろうと思うんです。けれどもわたしに言わせれば、それはちょっと違うよ。仮に生まれ変わってもう一度、2000年前に戻って、イエス様が目の前においでになったとしましょう。あなたはそこでイエス様を見て、「あなたこそ神の御子です。唯一の神の子キリストです」、こうペテロが告白したように、信仰告白できると思いますか。できないと思いますよ。だって目の前に立っているのは、どう見てもただの人間だもの。背が高かったか低かったか、分からないけれども、一説によれば、イエス様は、今の白人が描くイエス様像よりも実際はもっと黒くて、背ももうちょっとずんぐりしていたのではないかと思われます。わたしが思うに、イエス様はタフな方であったのは間違いないです。あれだけ歩いて、あれだけ伝道できた方ですから、ひ弱な方でなかったことは間違いないです。
 でも、それだから、ナザレのイエス様は「ほんとうは」どういう方であったのか、ということになると話は別です。イエス様が、ほんとうはどういうお方であったのか、これが分かったのは、十字架におかかりになり復活されて、聖霊が降った時に初めて、ペテロやヨハネやヤコブやパウロに分かったのです。わたしが「ナザレのイエスの霊性だよ」と言うのはこの意味です。たとえあなたが生まれ変わって、目の前にイエス様が立っておられても、それによってイエス様の霊性を知ることはできないでしょう。それは今、皆さんがわたしを見ていて、私市という人間についてはいろいろご判断くださっていると思うけれども、わたしが信じているイエス様、これが皆さん方に伝わっているかどうかは別だからです。わたしが語っているイエス様は、わたしではないのです。これは自分が言うんだから間違いないです。
 いくら自分がほめられても、嬉しいのは嬉しいけれども、それでわたしが信じているイエス様が伝わるのかと思うと、違うのです。わたしが信じているイエス様は出てこないのです。ナザレのイエス様を客観的にいくら研究しても、何年に生まれてどうのこうのと、史的イエスをいくら研究しても神様は見えてこないんですよ。だから研究が無駄だとはもちろん言いません。言いませんけれども、それとこれとは別なのです。だから出来事、出来事と言いますけれども、これは霊的な出来事なんです。だから説明できない。仏教の言葉を使えば、「不可称、不可思議、不可説」です。名づけることも、思い図ることも、語ることもできない存在です。これが霊の世界、御霊の世界です。
■御霊のお働きは愛
 では、お働き、お働きと言うけれども、そのお働きの一番大事なことは一体何ですか?こう聞かれたら、皆さんはどう答えますか。聖霊体験はいろいろありますが、では、そのお働きのどれが大事なんですか、ということです。答えはすでに皆さんご存じです。それは「愛」です。聖書に「神は愛である」と書いてあるからです。何十年もクリスチャンになっている皆さんに、こんなことを言うのは失礼ですね。「神は異言である」とは書いてないんです。「預言である」とも書いてない。「預言はすたれ、異言はなくなる。けれども、いつまでも残るものは信仰と希望と愛である。その中で一番大事なのは愛である」、こう聖書に書いてあるのです。だから神のお働きの一番の大事なものは愛です。
 愛する者は神を知っています。なぜなら、愛は、人格と人格とがなければ成り立たないからです。物質的な物を「愛する」ことはできませんね。ですから、聖霊のお働きは愛のお働きです。人格と人格の関係です。聖霊のお働きは力であって力でない。理論であって理論でない。愛とは何ですか?愛とは交わりです。交わりとは何ですか?交わりとは集うことです。聖霊のお働きは、人と人との交わりに働く愛です。これが「コイノニア」なんです。集まることなんです。
 ホームページをやっていて、わたしはとても有り難いと思っています。でも、ホームページでは絶対に伝わらないものがあるんです。これからコミュニケーションがますます発達して、ip電話やら何やらが発達してくるでしょう。でも、ここでこうして皆さん方と顔と顔とを合わせて集まっているように、人と人とが出会うことは、どんなにコミュニケーションが発達してもなくなりません。ここに人間の原点があるからです。
 コミュニケーション、「交わり」とは、こういう場のことです。「俺はあんな奴嫌いだ」、これも交わりの一部です。交わりというのはそういうものです。いろいろありますから。「一期一会」という言葉があるけれども、人間と人間とが出会う、これが交わりです。交わりの中で、人と人とが人格的に働く、そこに御霊にある「一致」が生まれてくる、これが愛なんです。これが、主イエス・キリストの御霊のご臨在なんです。
 どうぞ皆さん、この御霊のご臨在です。今日こうしてここで皆さんと話していて、何か楽しいですよ。何で楽しいのでしょうね。話が通じているからでしょう。ここにおられる方々が、イエス様を信じておられるからでしょうね。ここにイエス様がおられるからでしょう。これは説明できませんが、でも、交わりはこうしてちゃんと成り立っているんです。「そうかな」なんて思っておられるかもしれませんけれども、わたしはそう思います。
わたしはこうして皆さん方に語っていて、本当に嬉しいですよ。ちゃんと通じていまるからね。クリスチャンだもの、あたりまえだと言えばあたりまえですが、これが交わりなんですね。昨日、今日知ったばかりで、顔も名前もよく知らなくても、イエス様にある交わりが成り立つのです。「一致」は「団結」とは違います。「一致」とは、お互いがツーツー・カーカーの間柄になることではないのです。気心が知れているという親しい間柄のことでなくてもいいのです。そうではなく、今日のこの日のように、初めて出会った者同士でも、お互いがイエス様のみ名にあって通じ合う、語り合う、こういうことです。今日のこのような交わりをここにいるだれが予想しましたか? 誰も思い及ばなかったことが、今ここに実現しているではありませんか。これが「出来事」です。神様の出来事なんです。リベラルな神学を学んでおられる牧師さんになる方、実存的な信仰を求める方、韓国系の聖霊集会に参加しておられる方、純福音の教会の方、ロシア正教の教会の方、コイノニア会の方、どの教会にも属さない方、異言を語る方、語らない方、少人数でも、これだけ多種多様な人たちが、現に今、東京のど真ん中で共に語り、共に祈っている、何とすばらしいことではありませんか?<多様の中の一致>とはこのことです。
 だから、交わりはお団子みたいに、一緒になることではありません。あいつの気持ちは聞かなくても分かるみたいなのは、それもいいけれども、そういう関係のことではありません。そういう団結ではないのです。昨日、今日の中でも交わりはあるんです。神と人間とは絶対に違うのです。聖書の神は超越の神です。永遠の神です。わたしたちは人間です。ですから、神と人間とは絶対的に違います。では、どうしてそんなに違うものが「交わる」ことができるのでしょうか?これが御霊のお働きですね。神と人とが交わる、これが「一致」です。御霊のお働きは実に不思議です。
■御霊にある「わたし」
 もう一度初めに戻ります。聖霊に向かって祈ることは聖霊で祈っているんです。聖霊で祈っている自分を自己分析しても分からないですよ。聖霊で祈るというのは、聖霊<で>祈ら<されている>からです。あなたが祈っているのではない。あなたは祈らされているのです。これが分かったらすばらしい。どうぞ、覚えておいてください。お祈り<できる>人は、お祈りできることを感謝してください。祈れることは、祈らされることです。あなたをして祈らせておられる方がおられるのです。その祈る自分とは、いったいどういう「自分」なんでしょうね。それは分からない。イエス様を信じているその自分はあなたには絶対に分からないのです。しかし、あなたに分かることが一つあります。それはあなたはそのように<されている>ことです。この<られる>世界ですね、このことだけは分かります。「自分」は分からない。でも、今の自分を神様はご存じなのだ。自分は何か分からないけれども、不思議に神様に「知られて」いる、自分には分からないけれども、自分がだれかに知られている、このことが分かるのです。この「られている」自分が、御霊で祈る自分なんです。何だか分からないけれども、それでいいのです。あなたがは自己分析して分からなくても、イエス様があなたを分かっていらっしゃること、そのことがあなたに分かれば、それでいいのです。わたしたちは神に知られることによって知る自分というのがあるのです。それが分かればいいのです。
 日本語というのはすばらしい言語ですね。「られる」という敬語があるでしょう。神様から語りかけられるのです。仰せられるのです。これは尊いことなんです。自分で神を知ろうとしてはいけません。自分で聖霊を知ろうとしてはいけません。信じている自分はどういう自分かと自己分析はやめなさい。そうではなくて神様に知られている自分、自分でない自分、訳がわからないけれども、そういう自分があるんだな知ってください。それが祈っているときの自分であり、信じているときの自分であり、讃美歌の言葉を使えば、「我ならぬ我」なんです。ほんとうにそうとしか言いようがないです。「エクスタシー」だなんてある人は言いますが、それもいいでしょう。いろいろありますよ。どうぞ皆さん、そういうことです。
 そういう中に交わりがあって、それが愛なんです。これがこのわたしたちを成り立たせているコイノニア(交わり)なんです。だから、教義が一致しなくてもいいんです。わたしはそんなもの、全く関係ないと思っています。いろいろなキリスト教ありますが、それもキリスト教だろうと思っています。人間なんだからバラバラで結構です。でも、団結はできなくても、一致はできるんですよ。御霊にあってね。不思議です。「させられている」のです。集められて、イエス様の御言葉を聞かされて、こうして皆さんと一緒になって、ここにいるではないですか。これ、不思議じゃないですか。皆さん、すばらしいと僕は思うんです。
 今日、これだけの人がここに集まってくるとは、だれ一人予測した人はいません。だれが来るか分からない。あなたがたも分からなかった。でもこうやってここにおられるのです。これが出来事ですよ。イエス様を信じる人がこんなふうに東京のど真ん中で集まっている。わたしはすごい出来事だと思います。これが神様の出来事だと思っているんです。これは神でなかったらできないとわたしは思っているんです。これがわたしの信じている神です。
■御霊にある自由
 御霊にあって一致させられている、ということです。聖霊の働きです。これが交わりです。愛とは何ですか? 愛の働きとは何ですか? それは一致です。「一致」とはなんですか? 団結ではない。ではそれはなんですか? これが「自由」です。なんにも束縛がない。ここに集まってきている方々はね。いろんな教会の人たちがね。これを「自由」と言うのです。「主の御霊のあるところに自由がある」と聖書にありますでしょう。あそこの教会に行ってはいけない。ここの教会に行ってはならない。こうでなければならない。ああでなければならない。それでは自由でないわけです。でも、ここではそんなことはなくて、皆さん自由じゃないですか。御霊が働いてくださるからわたしたちは自由です。これが「一致」であり「自由」なんです。これはすごいことですよ。
 聖霊は自由です。だから、世界じゅうの人が集まって一つになることもできるんです。皆さん、天国に行ったらびっくりすると思いますよ。いろんな人種の人がいるから。クリスチャンて、こんなにいろいろいたのかと、きっとびっくりしますよ。こういう自由は、神様の「お働き」なんです。こうして現に今ここに集まっているこの出来事は、わたしたちがやったのではない。では、だれがやったのですか。神様が働いておられるからではないですか。そうでなければ、こういうことは起こらないですよね。
 では、自由で「ある」とはどういうことなのか? 監獄に入っている人が、釈放されて出てきます。彼は「自由になった」わけです。でも、なんにもなしにただ釈放されたわけではないのです。釈放されるためには、釈放の許可命令が出ていないといけないでしょう。麻薬をやったというので拘置されていたある俳優さんが、この間、何百万か積んで保釈になりました。保釈金を積んで、初めて保釈されたのですね。もし保釈金を積まないで出ていったら違法ですね。脱獄です。
 だから、自由になるためには、あなたは自由だという決定が、その前になければならないのです。自由に「なる」ためには、その人の自由が、その前にすでに存在していなければならないです。自由が「あって」初めて自由に「なる」ことができるのです。今、わたしたちは、こうして集まっています。わたしたちは自由に語り合うことができます。こんなふうに自由に「なれる」のは、この自由をつくり出してくださった方がどこかにいなければならないでしょう。こういう自由をだれかがどこかでつくり出してくださっているのです。そういう自由がないならば、こういう自由はここには働かないからです。だから、わたしたちが自由に「なる」ことができるその前に、わたしたちを自由にしてくださったお方がおられるのです。もう皆さん分かったと思いますが、ナザレのイエス様が、十字架にかかって血を流してつくり出してくださったのがこの自由です。すごいでしょう。
 この自由を守り伝えるために、キリスト教の教会は、たくさんの殉教者を出してきたのです。この間、テレビでベルリンの壁崩壊の時の様子を見ていましたけれども、たくさんの人たちが、そのために戦ったり死んでいったりしました。今わたしたちに与えられているこの自由は、ナザレのイエス様が与えてくださった自由なんです。これがキリスト教の一番大事なことなんですよ。どうぞこのことを覚えておいてください。あなたが「あなた自身でいる」ことができること、そこにあなたの人格的な存在があります。ここにおられる一人一人の「あなた」が、人格として自由にしておられること、これがイエス様がわたしたちにしてくださったことなんですよ。これが聖書の福音なんです。
 病気が治るだけなら、キリスト教の教会に行かなくても、そこらの拝み屋さんのところに行ってごらんなさい、拝んでくれると病気治ります。お手かざしとか、お光さんとかを受けたら病気が治った話を聞いたことがあります。だから、病気が治るだけだったら何もキリスト教を信じなくてもいいんです。瞑想して「悟る」だけだったらキリスト教なんて要らないのです。だって日本には悟りの長い伝統があるではないですか。法然、道元のような、すごく深い悟りの人がいるじゃないですか。悟りを開くのに聖書は要らないのです。
 けれども、一人一人が人間として、人格として、こうして自由に集まれる、こういう出来事をつくり出そうと思うなら、聖書の神しかないのです。これ以外にないのです。今のあなたが「あなたでおられる」のは、あなたのイエス様のおかげです。これがイエス様です。人格的なペルソナの神です。最初に戻ると三位一体の神なのです。わたしたちの神はペルソナです。自由がなければ愛は存在しません。だから、こういう御霊にある自由を伝えていかなければなりません。そのための異言でしょう。そのための預言でしょう。霊能でしょぅ。そのための教会でしょう。洗礼でしょう。聖餐式でしょう。キリスト教の教会は、これ以外に何かほかのことのためにあるんですか? 組織がどれだけ拡大したとか、人数がどれだけ増えたとか、献金が集まったとか、どうでもいいことではないですか。大事なのは、一人一人が本当に霊的に成長して、今、自分はイエス様にあって自由なんだ、御霊にあって自分は救われているんだ、こういうことが実感できる、これが本当のイエス様の福音だと思います。
 どうも話が少し散漫になりましたけれども、皆さん、主イエス・キリストの聖霊の働きということをどうぞ分かってください。これから祈りますが、異言で祈る人は声を出して祈ってもいいです。静かに祈る方は静かに祈っていいです。いろいろあっていいのです。それそれが皆さん、ご自分のスタイルで、あなたのイエス様にあって祈ってください。それが何よりも一番大事なことなんです。
【以下は補足です】
■人格と価値観
 「自由」とはどのような意味でしょうか?御霊は人格ですから、イエス様の御霊はこれを受け入れる人に、新しい人格を啓示してくださいます。これが生まれ変わりですね。あなたの人格とはあなたの肉体のことではなく、あなたの能力や身体的なパワーのことでもなく、あなたをしてあなたならしめている価値観のことです。人格はその人の価値観で成り立っています。御霊は信仰・希望・愛などの価値観を産み出すのです。価値観には必ず目的がありますから、人格はなんらかの目的を具えています。だから御霊は、その人の人格を常に「創り出して」いく。「創造する御霊」です。御霊にある「自由」は、人をして隣人を愛する方向へ向かわせてくださいます。だからその自由とは「罪」からの自由です。「罪」とは自己中心の傲慢の霊です。御霊は、人を罪の束縛から自由にし、人にもその自由を伝えます。
■御霊は命
 現代の科学技術は、自然界に存在しないはずの命を創り出すこともできますが、同時に、自然には存在しないはずの死をも作り出すこともします。人には、「死」を求める性癖と「命」を求める傾向と、その両方が具わっています。だから人を殺す、自分を殺す、こういう目的もあります。人を生かす、自分を活かす目的もあります。イエス様の御霊は、光であり命です。人をその人格において活かすことで、天地を創られた神のみ心に沿う方向へ導いてくださいます。「義人は信仰によって生きる」とあるように、御霊は価値観を産み出し、霊的な人格として働き、人を永遠に活かす方向へ導いてくださいます。これがイエス・キリストの御霊にある永遠の命なのです。
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