2010年春期東京集会講話
イエス様の霊能と霊性
■霊能から霊性へ
霊能と言い霊性と言いますから、これは「霊」、特に聖霊に関係します。聖霊は、言うまでもなく、父と子と聖霊の三位一体の神御自身です。父なる神は存在するけれども見えません。子は歴史上に啓示されたナザレのイエス様です。聖霊は神がこの地上で働くことです。この聖霊は、歴史上に啓示されたナザレのイエス様の御臨在を通してのみわたしたち人間に働きます。聖書の神はこのように<働きかける>神です。御霊はそのお働きです。聖霊のお働きはこの地上で出来事となって起こります。それは霊能の出来事として、五体と五感で見たり聞いたり触れたりできます。この出来事は、神御自身のお働きであり、その出来事を通して、神がわたしたちに「語りかけて」くださるのです。霊能はしるしです。霊性はその実体であり目標です。
(1)
■霊能は「しるし」です
霊能は「しるし」であり、霊性は、そのしるしが指し示す目的であり、しるしが指し示す実体ですから、しるしそれ自体が目的ではありません。ただし、しるしは、それを心に留めることが大事です。実体はそれ自体が目的ですが、目には見えません。火事の時に「非常口」と書いてあって矢印がしてあれば、書いてある矢印のところにじっと立っていてはいけません。その矢印が指し示す方向へ逃げるのです。矢印のある場所が目的ではないからです。しるしは、向かうべき方向を指し示すのです。目的地である実体はその先にあります。しるしとしての異言は言葉に関連します。しるしとしての癒しは救いに関連します。だから異言から聖書の御言葉へ、癒しから霊的な救いの成就へ向かうのです。
■体験は相対的です
御霊の出来事は体験できるしるしです。しかし、体験それ自体が神ではありません。しるしは神を知るための手がかりなのです。登山をしている人は道標を見て、その方向へ歩きます。だから、道標はそこに留まるためでなく、そこから<離れる>ためにあるのです。しかも道標は、これをしっかり<覚えておく>ためにあるのです。このように、霊能の体験はこれを絶対的だと思い込んで「とらわれない」ようにしてください。同時にこれを「忘れない」ように保ち続けてください。霊能体験を絶対化してはいけません。しかし、霊能体験を馬鹿にしては危険です。
■価値観のしるし
霊能は出来事です。その出来事は「価値観を表わす」しるしです。例えば病気が治るという霊能の業が与えられますと、これは神が人間の健康を望んでおられることを証しする「しるし」なのです。神様は人間がすこやかな命に恵まれることを喜んでくださる。健康は「善いこと」であり病気は「悪いこと」だという「価値観を顕わす」のです。これが「癒し」が証しするしるしの意味なのです。医学も人間の健康を守ろうとしますね。だから医学は神の御心に沿っている「善いこと」だと分かります。
ところが、病気が祈りで治るのなら、医者にかからなくてもいいではないかとか、神癒に頼るのなら、医学の治療を受けるのは不信仰だなどと、おかしなことを言う人がいるのです。病気も神の御心だから、これを治そうとしてはならないとか、逆に、健康が神の御心なら、病気は神からの罰だ。こういうことを言う人たちもいるのです。人間は利口ぶって、自分勝手に自己判断で神様のなさることをあれこれ批判します。だから神様は、癒しのしるしをお与えになって、父なる神は人間の健康を祝してくださることを分からせてくださるのです。ところが、人間がこれを複雑でややこしいものに変えるのです。結局何が何だか分からなくなる。だから霊的なことでは、常識ほど大事なものはありません。あまりほじくったり、こだわったりしてはいけません。
■恵みのしるし
神様のくださる霊能の出来事は「恵み」のしるしです。だから、霊能のことを「カリスマ」と言います。これは「カリス」(恵み/賜)からでた言葉で、ギリシア語で「カリス」は「有り難う」です。神様は、ちょうど空気や太陽の光のように、絶対無条件で働いて与えてくださいます。善人も悪人も関係ないです。「わたしのような者が救われるでしょうか?」こう疑う人は、「わたしのような者でも空気が与えられるだろうか?」こう自分に尋ねてみればよく分かります。あるいは「わたしのような者の心臓でも動くだろうか」これが心配でたまらない人のことを考えてみれば分かります。異言が与えられるのは、自分が善人だからではない。異言は聖霊が働かれるしるしです。聖霊は、どんな人でも、イエス様に心から祈り求めさえすれば必ず与えられます(ルカ11章13節)。だから、異言は聖霊がその人に働いてくださっているしるしです。その人がどんな人かは全く関係がないのです。だから、自分は救われているのだろうか?と疑う前に、どうしてこの自分に御霊が働いてくださるのだろう、と問いかけてください。そうすれば、値なしにお与えくださる神様の絶対無条件の恩寵が分かります。これがイエス・キリストにある聖書の神様の特長なのです。
■多様なしるし
霊能のしるしは多種多様です。しるしは大事ですが、絶対ではないからです。ペトロはヴィジョンを与えられて、異言のしるしが異邦人にも与えられるのを体験して、聖霊が異邦人にも降ることを知りました。わたしは、カトリックの人がミサを受けて異言を語ったことを聞いて、カトリックのミサにも聖霊が働くことを知りました。だから、しるしは一つではありません。いろいろなしるしがあります。しかし、しるしが指し示しているものは一つです。だから数々のしるしは集まって球体になっていますね。どんなにいろいろあっても、球体の表面は、どの位置も必ず中心を指しています。見えるしるしあり、言葉で聞くしるしあり、食べるしるしあり、語るしるしありです。だから、しるしを見たり聞いたり体験することは大事ですが、それらに「とらわれて」はいけません。まして自分が体験したことが、たとえどんな霊能や霊感であっても、それが絶対的なものだと思い込んだら大きな間違いを犯すことになります。しるしは知的に判断しければなりません。しかしイエス様に向いては、すべての想いを献げてその導きに全託するのです。パウロが知性でも祈り霊でも祈ると言ったのはこのことです。
(2)
■霊性は人格的
では、しるしとしての霊能から今度は霊性に移りましょう。わたしたちは神を知ることも見ることもできません。2000年前に啓示されたイエス様を直接見たり聞いたり触れたりすることもできません。けれどもわたしたちは、聖書の御言葉と御霊のお働きを通して、2000年前のイエス様の霊性を知ることができるのです。
霊性とはナザレのイエス様の霊性ですから、これは<人格>(ペルソナ)です。だから聖霊はその人に全人格的に働きかけるのです。イエス様の父なる神とは聖書の神です。この神御自身を知る、と言うよりも、聖書の神に<知られる>こと、これが救われることです。異言は自分で語るものではない。舌が「語らしめられる」のです。語る自分は能動ですが、その能動は自分ではない。だからこれは<受動的能動>なのです。霊性は人それぞれの人格を通して顕われるのものなのです。
■霊性は祈りによる
霊性は<祈り>を通じて到達できます。御霊の働きと人間の働きとはどう関係するのでしょうか? 人が己の業に頼らず御霊にお委ねする時に、その人の行ないには御霊のお働きが宿ります。人はこのために祈るのです。御霊にあって祈らされるのです。祈るのは自分ではなく、御霊御自身です。異言はそのことのしるしですね。その御霊の祈りに合わせて、自分も祈りに導かれるのです。デカルトという人は、「我考える。ゆえに我在り」と言って、自己を考える存在だと定義しました。イエス様にある人は「我祈る。ゆえに我在り」です。人の霊性はその祈りで決まるからです。
■霊性は持続する
霊性は祈り続け、求め続けることで到達します。誰にでも与えられる霊能がありますよ。それは<続ける>霊能です。絶対に止めない霊能です。神様は決してそのお働きを止めません。どこまでもどこまでもお続けになります。せっかく御霊の働きで始めても、人がこれによって祝福され豊になると、思い上がって自分の業績、自分の能力によると思い込むのです。利口者ほど自分の誇りにうぬぼれますから、途中でイエス様の霊性に留まるのを止めたがります。だから、信仰は利口な人には向きません。頭の回転の速い人は、すぐ「分かった」と思い込むから、その時点でもう御霊が要らないと勘違いします。こういう人はダメですね。パウロはこのような事態を「霊によって始まり肉によって仕上がる」と言いました。人間は苦しい間は御霊に頼るけれども、物事がうまく運ぶようになると御霊から離れる傾向がありますからくれぐれも注意してください。逆境の時には御霊に支えられ、順調な時には神を賛美して感謝する。これが大事なんです。
■霊性は自己にとらわれない
霊性とは<自分にとらわれない>ことです。これが最高の知恵の人の姿です。自分にとらわれない人は自分に左右されません。自己に克つ人です。霊性とは、ナザレのイエス様に働く御霊のことです。ではナザレのイエス様の霊性とは何か? イエス様は言われました。「丈夫な人に医者は要らない。要るのは病人である。わたしたちが来たのは、健やかな者を救うためではなく、病んでいる人を救うためである。」だからこの霊性は、悩み苦しむ人たちのために働きます。健康で、家族が仲良くて、仕事が安定して収入のある人たちは、そもそもイエス様には近づかないですよ。
■霊性は密かに働く
だから、イエス様の霊性は<人知れず>働いて、「誰にも分からないように」悟りと知恵を与えます。入試問題を作る人は、「何にも起こらない」で無事試験が済めば成功したのです。試験問題に「何かあったら」失敗です。だから、入試を作る人の苦労は誰にも分からないのが一番いいのです。人に認めてもらう必要がないのです。これは自分との闘いですね。イエス様は、「人もし我に従い来たらんと思えば、己を捨て、おのが十字架を背負いて我に従え」とも言われました。「自分の十字架」とは「自分という十字架」のことですよ。自分という十字架、これを背負うのです。逃げてはいけません。「自分の十字架」を背負い続けること、これこそ、あなたがほかの人たちに与えることのできるほんとうのご奉仕なんです。これがナザレのイエス様の霊性です。このように己を捨てるよう導く霊性ですから、霊性は無心です。霊の人は無力無心です。だからイエス様は「わたしは自分から何一つしない」(ヨハネ5章19節)と言われた。その時その場の御霊のお働きに自分を委ねる。そこにナザレのイエス様の御臨在が顕われる。これがイエス様の霊性にあって生きる道なのです。
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