聖餐と御復活
クリスマス講話(2011年12月23日)
 
【聖句】
■使徒2章
[22]イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、彼を通してあなたがたの間で行われた力ある業と、不思議と、しるしとによって、神があなたがたに証しされた方です。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
[23]このイエスを神は、お定めになった計画によりあらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは、不法な者たちの手を借り十字架につけて彼を殺してしまったのです。
[24]しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどなどありえなかったからです。
{25]ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
[26]だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
[32]神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
【講話】
■聖餐と御復活
 今日はクリスマスですから、コイノニア会にとって年に一度の聖餐の日です。いつもは、四福音書の中から、最後の晩餐の主のお言葉をお読みするのですが、皆さんはすでによくご存知なので、今日は今までと違ったところから引用しました。
 イエス様はその御存命中に、弟子たちを連れて村々町々を巡り歩いて、どこかの家に入られると、そこで集まった人たちと食事を共にして、癒しや悪霊追放の業をされました。十字架におかかりになる直前の最後の晩餐では、パンを裂き、ぶどう酒の杯をまわされて、イエス様のお体と血を覚えるようお言葉を遺されたのです。
 御復活の直後に、生前イエス様を信じて従ってきた弟子たちは、イエス様にならって食事を共にし、言われた通りに「パンを裂いて」イエス様の死を想い出しました。するとその時その場に、イエス様が顕現されたのです(ルカ24章35節)。神が遣わされた聖霊によって、イエス様の御臨在が与えられたのです。彼らは皆、生前のイエス様をよく知っていましたから、昨日まで一緒にいて、癒しや霊能の業を行なっておられたそのままのイエス様が、自分たちと共に御臨在くださることを知って喜びに満たされました(使徒2章42節/46節)。イエス様との食事を「愛餐」と言い、最後の晩餐のパンとぶどう酒を「聖餐」と言います。この二つが合わさったのが「主の晩餐」です。だから今夜も、わたしたちは、先ず厳かに主の聖餐をいただき、その後で主様をいただいた喜びにあって、楽しく愛餐をいただきましょう。
 聖餐はナザレのイエス様の御霊にある御臨在を表わすもので、この御臨在こそ福音の全部です。これさえあれば何も要らない。今お読みした「あなたがたに証しされた」(22節)とある「証し」とは、この御臨在に触れることです。するとイエス様とわたしたちとの間に人格的な交わりが生じます。ちょうど太陽の輝く青空が、厚い雲によって私たちから隔てられているように、私たちの罪が、神と私たちとの間を隔てています。この雲を吹き払って、雲の間から差す光のようにイエス様が来られて、十字架におかかりになり、ご自分を神への犠牲として献げられて、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださいました。だから御復活されて、わたしたちと共に御臨在くださるのです。このことを通して、わたしたちはイエス様が「神から遣わされた御子」であると知るのです。ナザレのイエス様には、神御自身が宿っておられたと知る時に、わたしたちの内に御霊がお働きくださって、あなたにもわたしにも不思議な変容が始まります。
■御復活と「わたし」
 聖餐は私たちの「中に入り」ますが、これは「外から」与えられます。2000年前のイエス様も外から来られて、わたしたちの中へと入り込んでくださる。これが聖餐の意義です。どうぞ皆さん、「今ここにおられる」イエス様に出会ってください。出会って、御臨在との交わりに入ってください。気を楽にして力を抜いて、イエス様を仰いで御臨在に触れてください。自分が砕かれて、どこかへ吹っ飛んでもかません。そういう気持ちで、イエス様を仰いでください。
 イエス様に出会う人は、新しい自分に出会った人です。「自分/わたし」とは何か? これは難しいです。難しいわけが三つあります。一つは、「わたし」は、わたし個人であって、わたしだけではないことです。個人とは「みんなの中のわたし」のことですから。2番目に、イエス様の御復活の霊的御臨在に接するときに顕われる<自分>は、今までの自分ではありません。なぜなら、その自分は、<今ここにある>自分でありながら、同時に「上から与えられる」自分だからです。「上から」を「理想の」と言い換えてもいいでしょう。現実の自分と理想の自分があるのです。3番目に、<今ここにある>自分でありながら、同時に<これから来る>自分だからです。「今の」自分はほんとうの自分ではない。「これから与えられる」自分があるからです。すごいことです。今ここにありながら、<上にある>御霊にある「わたし」です。今ここにありながら、 <これから>来る御霊にある「わたし」です。どうかそういう「わたし」を受け取って、そういう<わたし>を祈り求めて、どこまでもどこまでも、主様と共に歩み続けてください。
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