コイノニア東京集会(2011年5月7日 )
東日本大震災に直面して
私市元宏
わたしは主、ほかにはいない。
光を造り、闇を創造し
平和をもたらし、災いを創造する者、
わたしが主、これらのことをする者である。
天よ、露を滴らせよ。
雲よ、正義(ツェデク)を注げ。
地が開いて、救いが実を結ぶように。
恵み(ツェダカー)のみ業が共に芽生えるように。
わたしは主、それを創造する。
(イザヤ書45章6〜8節)
■第二イザヤの預言
昨年の秋には、この場所で「祈りについて」話しました。今回も「祈り」の続きを予定していました。ところが、東日本大震災が起こったので、関東の皆さんには、どうしてもこの問題を避けてお話しすることができないと考えて、イザヤ書45章6〜8節を採りあげることにしました。実はこの聖句は、あの9月11日のテロがきっかけとなって、アメリカのアフガニスタン爆撃が始まった頃、『キリスト新聞』の依頼を受けて、その新年号に寄稿した時にも引用した聖句です。
イザヤ書のこの部分は、「第二イザヤ」と呼ばれている預言者によるものです。第二イザヤは、イスラエルの民が、新バビロニアに捕囚となって連行された時代の人で、ここの預言は、新バビロニアの末期の頃のものです。その頃、ペルシアのキュロス王が、新バビロニアの隣国メディアの王となり、新バビロニアを滅ぼそうとしていました(前550年頃)。ペルシアは、属国の宗教に寛大な政策をとりましたから、キュロスがペルシア帝国の王になると、ユダの民はエルサレムへの帰還が許されます(前539年)。この預言は、第二イザヤが、キュロス王の台頭に解放の希望を見出し始めた頃のものです。
言うまでもなく、キュロスは異教の王ですから、イスラエルの主であるヤハウェとは直接かかわりません。引用した聖句の前半は、主であるヤハウェからキュロス王への御言葉で、後半は、その御言葉に応えるイスラエルの民のコーラスになっています。しかし、そのようなことよりも、ここで「わたしは主」が三度も繰り返されていることが大事です。ここには、驚くべき預言がこめられているからです。それは、イスラエルの民であろうとも、異教の王であろうとも、囚われの人たちであろうとも、国家の支配者であろうとも、民族、宗教、社会的身分にかかわりなく、全世界のすべての民に起こることは、主であるヤハウェから出たことであり、「そのほかに、これを起こすものはない」と宣言しているのです。光も闇も、平和も災いも、等しくヤハウェのなせる業だと言い切っているのです。
「光と闇」というのは、創世記1章3〜5節にでてきて、宇宙の創造の初めに「神は光と闇とを分けられた」とあるのを指しています。ただしそこでは、神が闇を光から「分けた」とあって、神が闇を「創造した」とは言っていません。第二イザヤは、これをさらに一歩進めて、主であるヤハウェが闇を「創造した」と断言しているのです。続く「平和を造り、災いを創造する」には、「<善いこと>を造り、災いをも創造する」という異読があります。光も闇も、善いことも災害も、どちらも同じ主であるヤハウェが行われる業だというのです。イスラエルは、預言者イザヤに始まって、この頃に、真の意味での「唯一神教」に達したのです。
■唯一の主
ペルシアの宗教では、「善いもの」は善の神が造り出すものであり、「災厄は」悪い神の業だとされていました。これを善悪二元の神観と言いますが、第二イザヤは、そのような二柱の神々の間の争いではなく、すべてのことは、ただヤハウェお独りがこれを行なわれると明言したのです。天地の「主」とはこのことです。これは驚くべき宣言です。それまでのイスラエルでは、そこまでは誰も言わなかったからです。だから、第二イザヤのこの預言は、何とも不思議で、理解に苦しむ預言です。現在でも、この御言葉について、その不可解さが指摘されるほどです。第二イザヤの神観は、あらゆる出来事をヤハウェに一元化しているからです。
ところで、このように神観が一元化すると、ここにまた問題が生じてきます。なぜなら、もしもヤハウェが、善いことも悪い災害も等しく行なわれるのなら、悪いこと(不幸や災い)が起こるのは、ヤハウェからの罰ではないか? こういう考え方が生じるからです。実は、イスラエルの民も、捕囚の間中、このような想いに悩み続けました。主なる神は、イスラエルの犯した罪のために、自分たちをこのような苦しみに遭わせておられるのだ。こういう想いが民の心を裁き、自分たちはヤハウェに見棄てられたのだと思い込む者たちが多くいたのです。
けれども、ここで第二イザヤが言っているのは、そういうことではありません。それどころか、彼は、罪のために自分たちはヤハウェに見棄てられたと思い込んでいるまさにその人たちに向けてこの預言を語っているのです。悪い災厄はヤハウェの天罰であり、善いことは善い行ないへのヤハウェからの報酬である。こう考える人たちに向かって、「ヤハウェのなさること、主なる神の御心は、そんなに単純ではないよ」と告げるのです。イスラエルの民と異教の王、イスラエルの宗教と異教の宗教、民族や宗教の違いという人間的な想いを超えたところにヤハウェのほんとうのお働きが隠されている。こういう不思議な驚くべきことを第二イザヤは預言したのです。
今度の災害でも、ある外国の著名な牧師さんが、日本は異教の国だからイエス様の神が罰を降したのだ、このように言ったそうです。外国だけではない、現にこの東京都の知事が、これは民の欲に対する天罰だと言いました。では言った本人はどうなのか?いったい、自分のことをどう思い込んでいるのか分かりませんが。でも、第二イザヤの預言は、そんな人間的な見方とは全く違います。もっと大事で、もっと奥が深いです。それは民への罰や裁きではないのです。逆に打ちひしがれている民に本当の希望と悦びを与えるメッセージなのです。第二イザヤは、「わたしは主である」を繰り返すことで、こういう預言をヤハウェから与えられて、民に語り伝えようとしているのです。「彼が伝えようとしている神性は、人間的な言葉や人間的な神への思いの限界をはるかに超える。だからそれは、あらゆる(キリスト教)神学の限界を示している」とヴェスターマンは言っています〔Claus Westermann, Isaiah 40-66. Old Testament Library (1969)162.〕。
■歴史の恐怖
後半の節では、「天からの露」(恵みの雨)や雲や大地や穀物の実りなどがでてきます。しかし、聖書は、自然を物理学のように、人間から切り離して、これを別個の存在として見ることはしません。神の創造された自然を常に人間と一緒に観るのです。神の目からは、人間も創造された自然の一部であり、人間は「自然に属する」からです。後半で謳(うた)われる自然は、人間にとって有り難い<善い>自然です。
ところが、ここで第二イザヤは、「自然」について、わたしたちとは異なる見方をしています。それは、「正義(ツェデク)を注げ」「救いが実を結ぶ」「恵み(ツェダカー)が芽生える」のように、ここで語られているのは、単なる「自然」のことではない。「正義」も「救い」も「恵み」も神が人間に与える霊的な賜物のことです。人間がそれによって救われ、恵まれる人間自身の生き様、<人間の霊性>を指しているのです。ここで「救い」とあるのは「助け」と訳すこともできます。また「恵み」とあるのも、神から与えられる「義」のことで、これは「正義」とも、「慈愛」とも、どちらにも訳せる不思議な言葉です。しかも、この「義」は、神から与えられて、人を霊的に「義人」にする、「恵みの人」にする働きをします。だからこれは、ただの「自然」のことではない。自然を含むけれども、それよりももっと霊的な意味で、神から与えられる「人の霊性」のことなのです。
今度の災害で分かるように、自然は人知を超えるものすごい力を秘めています。しかし「自然」それ自体は、「善い」とも「悪い」とも言えません。今度のような大地震や津波が、もしも南極で起こったら、人々はその映像を見て、大自然のものすごい迫力に感嘆するでしょう。ところが、この自然が人間存在に直接関わってくると、感心したり感嘆したりするだけでは済まないのです。大自然のものすごい力が、人間にとって恐ろしい脅威に転じるからです。ここでは自然と人間とが一つにとらえられています。言い換えると、「歴史的に」にとらえられているのです。
第二イザヤはここで、自然よりも、イスラエルを襲った「歴史的な」危機を指しています。今度の震災で日本の株価が一時大暴落しました。そんなことよりも、地震と津波だけでなく、放射能汚染という人間の過ちが引き起こした「人災」も起こりました。4月10日の『朝日新聞』によれば、それまでに判明しただけで、死者1万2915人、行方不明1万4921人、避難した人16万3781人です。これは確認され限定された数字ですから、実際はこれよりも多く、これからも増えるでしょう。これは自然災害に伴う歴史的な出来事なのです。避難した人たちは、家も家族も仕事も、なにもかも一度に失いました。同様に、イスラエルの民も、民族と国家が絶滅する危機に直面しました。これが「歴史の恐怖」と呼ばれるものです。東日本大震災は、自然と人間によって引き起こされた歴史の恐怖なのです。
■創造する神
第二イザヤは、このような<歴史の恐怖>さえも、主である神ヤハウェから出ていると明言したのです。ところが、引用した聖句をお読みくだされば分かるように、主なる神は、こういう「闇」と「災害」を造り出すだけではない。これと同時に、あるいは、まさにこの闇と災害のその中から、全く新しく造り出す神の創造が始まると預言するのです。しかもその創造は、先に見たように、「人間の霊性に生じる創造」です。厳しい歴史の恐怖からさえ、まさにその危機の中から、神は全く新しい霊的な創造を人間の内に始めることができるのです。これが、ものすごい大災害をも克服するものすごい神の御霊のお働きです。 歴史的な危機をもたらした災害の傷や恐怖は、人間のかけ声や人間の計画などで克服できるものではありません。救助隊を派遣し、救援活動を行ない、瓦礫(がれき)を撤去して道路を通し、援助物資を運ぶ。施設を造って避難した人たちを収容する。これらがどれも大事なことは言われなくも分かります。外目にそれと分かるこういう活動も大事です。けれども、そういう外観の働きだけでは、危機のほんとうの克服にはならないのです。そういう危機と恐怖のまっただ中にありながら、人間に注がれる神からの不思議な働きかけ、死者の中から生き残った人たちに与えられる根源の霊的な力、これこそが大事なのです。人々の援助も奉仕も、工事も建設も、災害に打ちのめされた人たち自身の心に働きかける神の創造のお働きに協力するためにやるのであって、それ以外にほかの目論見(もくろみ)や意図があってはならないのです。
今度の災害で、外国から来た記者たちが一様に感心しているのは、被害に遭った人たちの忍耐強さと、苦難の中にあっても、被害者たちが、その秩序正しい振舞いを崩さないことです。ニューヨークにいる息子が、災害の直後に電話で、アメリカでこんな事があったら、略奪や暴動が起きるのは当たり前で、アメリカの新聞記者たちは、日本人の忍耐強い振舞いに、感心するより不思議がっていると言ってきました。
いったい、このような力は、被害に遭った人たちのどこから湧いてくるのでしょう? おそらく彼ら自身も、実際に艱難(かんなん)に出遭うまでは、自分たちが、そのような優れた霊性を発揮できるとは思い及ばなかったでしょう。それは彼らに具わった本性から来ているものですが、それだけでない。そういう彼らの霊性に働きかけて、「すべてのことを行なわれる」主である神が、彼らの本性を支えて活かして、今のこの時に、これを発揮させてくださっているのです。それは、困難に出遭ってもなお人間を支えてくれる力、人知を超えたところから注がれる創造の神のお働きの証しなのです。人類は、このお働きによって、長い長い間、歴史の恐怖に打ち勝ってきたのです。
今度の災害で、世界の人たちは、日本の「普通の庶民」が、いかに高い品性を有しているのかを目の当たりにしました。天地をお造りになり、すべてのことをその手で行なわれる神は、人種や宗教や国籍などにかかわりなく、闇と災厄の中から、日本の「普通の人たち」に働きかけて、彼らの勇気と忍耐と品性とを証ししておられるのです。これこそが今度の災害から生み出された神からの最大の賜物です。こういう人間の霊性こそが、人類を生き残らせてきた「人間の値打ち」だからです。勇気づけられ、励まされ、慰められているのは、災害に遭った人たちではない。彼らの行動を目撃できたわたしたちのほうなのです。このことは、これからわたしたちの国に、全く新しい創造の御業を神御自身が始められる、その先駆けとなる「しるし」です。この国は必ず立ち直ります。
危機はまだ続くでしょう。困難の克服には時間がかかるでしょう。けれども、かつてのイスラエルの民に神が働きかけられたように、人知を超え、人間の計らいや意図をはるかに超えた神の御力が、この国の民を支え、新しい創造の御業を成し遂げられるでしょう。第二イザヤが証しする「主」とは、聖書が証しするイエス様の神です。わたしたちの主です。「わたしが主、これらのことをする者」なのです。
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