日本人のリバイバル神学
2011年11月5日 コイノニア会東京集会
■リバイバル神学の原点
〔リバイバルとは?〕この東京集会では、確か一昨年は、祈りについてお話ししたと思います。また、今年の5月には、大震災にちなんで、神のお言葉の創造と破壊について語りました。今回は、これら二つを受けて、「日本のリバイバル」について、皆さんと一緒に考えてみたいと思うのです。
「リバイバル」と言うと、皆さんは、「信仰覚醒」とか「信仰の目覚め」とかを思い出して、かつての熱心な信仰をもう一度よみがえらせる、目覚めさせることだとお考えになるかもしれません。いわゆる「リバイバル運動」ですね。だから、こういうリバイバルには、目覚めさせるための以前からの信仰体験や霊的体験がなければなりません。だとすれば、日本のような国、ほとんどの人が聖書もイエス様のことも全く知らない人たちの間では、「よみがえらせ」「目覚めさせる」信仰も体験も、そもそもそんなものは初めから存在しませんから、「リバイバル」など成り立たないことになります。リバイバル運動など起こりようもありません。だからわたしは、リバイバル「運動」のことではなく、リバイバル「神学」について考えてみたい。こう思うのです。
では、リバイバルバルの起源あるいはその原点をどこに求めるべきでしょうか? 今の日本では、外国から霊能を与えられた先生が訪れてきて、東京や関西で大キャンペーンをやる。すると大勢の人が押しかけて、リバイバルが起きる。何となくそんな風に考えておられる方が多いのではないかと思います。けれども、リバイバルの起源は、そのようなキリスト教国と呼ばれるアメリカやお隣の韓国にあるのではありません。
〔イエス様のリバイバル〕わたしたちのリバイバルの起源は、新約聖書にあります。新約聖書のどこにあるのか? 一番分かりやすいのは、使徒言行録1〜3章です。ここで、四福音書に書かれてあるイエス様が、御復活されて、最後までイエス様を信じてきた数少ない人たちに顕われて、今に神からの聖霊の力が降るから、エルサレムから離れないで祈り待ち望んでいなさいとお告げになります。そこで弟子たちやイエス様の家族たちが、エルサレムのとある二階の座敷に集まってひたすら祈っていました。すると突然聖霊の「プニューマ」(風/霊)が吹いてきて、弟子たちは聖霊に満たされて、異言や異言語を語り出したのです。これが、「ペンテコステ」と呼ばれる聖霊降臨の出来事ですが、これを読むと皆さんは、異言とか聖霊体験とか、なんだかすごいことのように思うかもしれません。でも、「リバイバル」の意味は、ほんとうはそういう霊能体験にあるのではありません。
このことは、同じ使徒言行録にあるペトロのメッセージを聴けばすぐに分かります。聖霊が降臨すると、すぐその後でペトロが立ち上がって人々に語ります。「このナザレのイエスを神は復活させて、死の苦しみから解き放ったのです」(使徒2章24節)。これが、「再び活かす」こと、「リバイバル」のほんらいの意味であり、その原点です。ここでペトロの口を通して神の御霊が語っておられるのは、「わたしたち」のことではありません。そうではなく、「ナザレのイエス様」のことなのです。かつて地上を歩まれて、癒しや奇跡など「救い」の業を成し遂げられたイエス様、このイエス様が、地上におられたその時と同じように、弟子たちに顕われてくださった。そして弟子たちに告げられた。「さあ、あなたがたも、全世界に出て行って、わたしがよみがえって今もなお働いていることを人々に知らせなさい。わたしは、これから何時までも、あなたがたと共にいるのだから」(マタイ28章20節)と言われたのです。
だから、リバイバルとはわたしたちの側のことではない。ナザレのイエス様のことなのです。わたしたちがリヴァイヴするのではない。イエス様がリヴァイヴするのです。わたしたちの信仰がどうのこうのではない。神様が御復活のイエス様を通してなされるみ業のことです。だからわたしたちは何にもしない。ただ黙って座って、祈るだけです。すると、神様の側からイエス様の御復活の御霊を働かせてくださって、わたしたちはそのイエス様の御霊に動かされて、語り出して、イエス様の御臨在を証しするようになるのです。これが「リバイバル」のほんとうの意味です。これが「日本のリバイバル」の原点、「リバイバル神学」の基です。
■リバイバル神学の課題
〔お言葉の出来事〕では、現在の日本のリバイバル神学には、どのような課題/問題があるのでしょう?「ノー・プロブレム」(問題ない)と言いたいのですが、実は問題が幾つかあります。
先ず、ナザレのイエス様とは、神が人類にお語りになった「神のみ言(ことば)」のことです。ヨハネ福音書の冒頭の五つの節にこうあります。
初めにみ言(ことば)があった。
み言は神との交わりにあった。
み言は神であった。
彼は初めに神との交わりにあった。
すべては彼によって生じた。
彼によらず生じたものは何一つなかった。
彼にあって生じたものは命であった。
この命は人間を照らす光であった。
光は闇の中に輝いている。
闇は光をとらえることができなかった。
(ヨハネ1章1〜5節私訳)
ここには、ロゴス・キリストが語られています。神はナザレのイエス様を通して人類にお語りくださった。イエス様が神のみ言(ことば)だというのは、イエス様が語られたお言葉のことだけではなく、そのみ業も、イエス様の全部が「神のみ言」なんです。
では神のお言葉はどんな働きをするのか? 神がお語りになるとは、言葉だけではなく、そこに「出来事」が生じることです。神は出来事を通してわたしたちにお語りになります。イエス様がこうなれと言われると事がその通りに成るのです。だから、宇宙全体を含めて、森羅万象が神のお言葉です。事(こと)は言(こと)です。
しかし、神のお言葉から生じる出来事とは、それが語られた「その時の」出来事だけではありません。そのお言葉(出来事)を書き記す人たちや、これを聴いたり読んだりする人たちの「現在」にも起こる出来事なのです。それだけでない。その人たちの未来をも預言する出来事です。だから、神のお言葉の出来事は、過去、現在、未来へつながる働きをします。大事なのは、語られた言葉(出来事)の過去と現在と未来とを「結ぶ」こと、わたしはこれを「継承」と呼んでいますが、この<お言葉の出来事の継承性>を知ることが大切です。
〔過去の出来事?現在の出来事?〕現在の聖書解釈は、神のお言葉の過去か、現在か、どちらかを重視する傾向があります。聖書が書かれた当時の「過去」だけにとらわれると、その聖書解釈は、固定的で字義どおりの意味にとらわれて、硬直した解釈になりやすいです。過去の出来事だけに目を留めると、異言や預言は過去のものだから、現在では起こらないことになります。あるいは、創世記に書かれてあることを、字義どおりに過去の出来事だとするなら、進化論を否定して創造論にこだわることになります。聖書のお言葉をそのまま過去の出来事だとして固定するのが、このような聖書解釈の特徴です。
今度は逆に、聖書のお言葉が「書かれた当時」、聖書を<書き記した人たちの時代>だけにとらわれると、マルコやマタイやルカやヨハネの時代状況から福音書を解釈することになります。こうなると、40〜60年前の肝心のイエス様が抜けてしまいます。御復活以前のナザレのイエス様と、御復活以後のイエス・キリストとをあまり区別すると、地上におられたイエス様と、復活されたキリストとがつながらなくなります。これでは、歴史のイエス(史的イエス)はただの人間だから神ではないということにもなりかねません。聖書の中身と、これを記した作者の時代背景とを区別しすぎるとこういうことになります。聖書にある通りに過去の出来事を固定しても、その出来事を書き記したり、これを聴いたり読んだりする人たちの時期だけに合わせても、このような聖書解釈では、どちらの場合もリバイバルは生じません。
■リバイバル神学への批判
〔リバイバル神学の伝統〕リバイバル神学とは、<イエス様が神である>ことを信じて伝える神学です。「イエスは人なり。イエスは神なり。」これがリバイバル神学の要(かなめ)です。この信仰は、パウロも福音書記者たちも新約聖書の書簡も一貫して変わりません。新約聖書のこの信仰は、ビザンティンのキリスト教(現在のギリシアとロシアの正教)に受け継がれ、ラテン系のローマ・カトリック教会に受け継がれ、さらにルターやカルヴァンの宗教改革者たちにも受け継がれ、それ以後も、イギリスで言えばウエスレーやスポージョンやジョージ・ミュラーなど、アメリカで言えば、フィニーやブレイナードやムーディなど、最近ではオズボーンやキャサリン・クールマンやオーラル・ロバートなどのリバイバル運動に受け継がれてきました。
〔自然科学からの批判〕けれども、「イエスは人なり。イエスは神なり」は、近代以降、試練と批判に曝されても来ました。16世紀のコペルニクスと17世紀のガリレオが、それまでの天動説を覆して地動説を唱えました。このために、当時のキリスト教会は、地動説が創世記で語られている聖書の教えに反すると言って、科学を弾圧しようとしました。地動説がキリスト教信仰を否定すると考えたからです。けれども、現代では、地動説が聖書信仰の妨げになるとは誰も思いません。
19世紀にはダーウィンが、人間は猿から進化したという進化論を唱えて、これもまたキリスト教にとって大問題になります。保守的なクリスチャンは、聖書の教えに反すると主張して、進化論を排撃しようとしました。このために、現在のアメリカの一部では、いまだに学校で進化論を教えることができないというおかしな事が起こっています。このように、過去のキリスト教の科学に対する対応には誤りが多かったようです。わたしは、御霊のお働きを信じていますが、これが進化論と矛盾するとは少しも思いません。逆に、御霊のお働きと進化論とはみごとに合致すると思っています。
〔歴史学からの批判〕ところが、19世紀以降、今度は科学に代わって歴史学がキリスト教に批判を向け始めました。シュトラウスというドイツの神学者が、福音書は歴史的に見て史実ではないと言い出して、それから歴史学的な視点から聖書批判が始まりました。その結果、史的イエスと信仰のキリストとが区別されるようになり、信仰のキリストは、復活を信じた教会が始めたものだとして、史的イエスをただの人間扱いをするようになりました。「イエスは人なり。イエスは神ならず」というのが歴史学的な人たちの見方です。この場合、信仰が人間的な考え方とこれに基づく人道主義に向かう傾向があります。このような視野から、霊的なリバイバルは生じません。
〔恩寵の聖書解釈〕わたしの見るところ、歴史学も文献的な聖書批評も、霊的なこと宗教的なことをいまだ十分に解明することができない状態にあります。歴史学に比べるとはるかに進んでいると言われる現代の量子物理学でさえも、まだまだ、宇宙の構造や物質の成り立ちで分からないこと、謎が多いようです。現在の人間が理解できているのは、宇宙の物質のほんの数パーセントで、95パーセントはまだ謎のままで、「ダーク・マター」と呼ばれる重力を持つ謎の物質?、あるいは「ダーク・エネルギー」と呼ばれる宇宙を膨張させる謎の働きがあります。
だから、歴史学もこれから発達するにつれて、聖書信仰やリバイバル神学と少しも矛盾しないことが分かってくるでしょう。それどころか、歴史学や聖書神学が発達するにつれて、リバイバル神学のほんとうの意味がますます明らかにされてくる。わたしはこう信じています。だから、たとえおぼろであっても、わたしたちは、自分たちが理解できる範囲で信じることが赦されているのです。恩寵の聖書解釈でいいのです。
先のヨハネ福音書からの引用にある通り、神のお言葉は、人格であり、その人格的霊性から発するのが人を導く「光」です。み言なるイエス・キリストは、人を滅びから命へ、破滅から救いへ、破壊から建設へ導く働きをします。み言は、人を導き照らす光であり、人を活かす命なのです。聖書解釈は常に未来に向かって開かれていなければなりません。
■リバイバル神学の霊性
〔宗教的寛容〕このように言うと、学問的な研究や聖書神学が、リバイバル神学の妨げであるかのような印象を受ける人がいるかもしれませんが、決してそうではありません。アジアの中で、現在の日本ほど、高い神学的な蓄積を持つ国は外にありません。このような神学的な蓄積をリバイバル神学に活かさないのは、もったいないです。
では、神学的蓄積がリバイバル神学に寄与できるのは、どのような意味においてでしょうか? それは宗教的な寛容の精神を養うことです。「寛容」は知性の最大の営みだからです。宗教的に寛容であるとは、キリスト教徒同士の一致だけでなく、仏教や神道など他宗教を敵対視するのではなく、キリスト教以外の宗教との関係において、寛容と和が大事なことを認識することです。このことは、神様の目から観た人間の営みとしての宗教をば、キリスト教それ自体をも含めて「相対化」することにつながります。これこそ、日本のリバイバル神学が学問的な蓄積から学ばなければならない最大の課題です。このような寛容こそが、これからの日本のリバイバル神学が求めるべき霊性なのです。だから、どうぞ、皆さん一人一人が、イエス様の御臨在を祈り求めてください。日本のリバイバルはそこから始まるからです。