2012夏期集会講話
日本人のリヴァイヴァル神学
 
■現代日本の三つの神学
 わたしたちの信仰はイエス・キリストを神として信じる信仰です。でも、これにもいろいろあります。1世紀から2世紀にかけても、イエス・キリストを信じる信仰に3通りありました。イエスの在世当時に重きを置く神学と、イエスの十字架の受難に重きを置く神学と、イエスの復活・高挙に重きを置く神学です。
 現在の日本でも、キリスト教の神学をこの三つの型に大別して見ることができます。イエスの在世当時とは歴史的イエスのことです。だから、イエスをただの人だと見て、そのイエスの生き方と教えに見習おうとする<自由プロテスタント型>の神学です。これに対して復活のキリスト型の神学があります。下記に見るように、これら二つに神学は、ちょうど対照的です。これら二つに対して、イエスによる十字架の贖いを中心に据える神学があります。<十字架の贖い型>の神学は、正統キリスト教の神学だと言えましょう。以下に、これらの神学の特徴を列記します。
【史的イエス型】→自由プロテスタント神学
(1)文献批評に基づき歴史的人間イエスに基づく。
(2)イエスは人間の模範として見習うべき人物。
(3)信仰者の地上における生き方を重視する。
(4)十字架による「罪の赦しのキリスト」ではない。
(5)イエスを釈迦や孔子と同等の人間だと見なして絶対化しない。
【復活のキリスト型】→市川喜一師による神学
(1)文献批評に基づき、復活のキリスト信仰を史的に考察する。
(2)復活して現在天上にいるキリスト信仰。
(3)地上を超越した別世界からの救いと終末的アイオーンの救い。
(4)無条件の救いとキリストとの一体化。
(5)地上における人間的宗教を相対化する天からの絶対的福音。
【十字架の贖い型】→正統キリスト教神学
(1)人間イエスと復活のキリストを結ぶ神の子信仰。
(2)イエス・キリストの十字架(の血)による贖罪信仰。
(3)過去・現在から終末に向かう聖霊の恩寵による救い。
(4)人類に普遍する祭儀的な贖罪と聖霊の働きによる新たな人間創造。
(5)歴史の現実の中を歩むエクレシアによる人類の終末的一致を目指す。
 自由プロテスタント型の神学と復活・高挙のキリスト信仰は、どちらも、教理の論理として現代人に理解しやすいところが共通しています。これに対して、正統キリスト教神学の場合は、「<神の子が>十字架で殺される」、「人間の有罪が確定した後で、<有罪にもかかわらず>罪の赦しが与えられる」、その上、これらのことが、人間の計らいではなく「神の計画から」出ているなど、通常の人間的な論理では説明できない背理/逆説(パラドックス)を含むところにその特徴があります。
■躓きの十字架神学
 正統神学は、「神の御子」が十字架にかけられたことと「御子の血による贖いの赦し」とは不可分一体ですから、イエスが神の子でなくなれば、ただの殉教者になります。だから、贖いの罪の赦しもなくなります。この逆説的な教理を「理解する/知る」のは、神の子イエスによる贖罪の十字架を「信じる」ことから始まります。だから、この教理は、人間的な理性にだけに基づく論理でとらえることができません。したがって、このような背理的な教理を「信じる」こと自体もまた、人間の能力を超えるものがあります。言い換えると、正統キリスト教神学は、それだけ「躓き」の可能性が高いのです。(1)旧約聖書の神とナザレのイエス。(2)十字架の血による罪の赦し。(3)御子の復活と聖霊による新たな創造。これらがひとつになって、正統キリスト教の教理の核を形成し、それが<躓きのしるし>になります。
 この逆説的で不可思議な矛盾の壁を破るものはただ一つ、祈り、それも主イエス・キリストの御名を呼び求める祈りだけです(ローマ10章13節)。なぜなら、このような「十字架の言葉」は、「ユダヤ人には躓きとなり、異邦人には愚か」に思えるからです(第一コリント1章23節)。この世の人は、「己の知恵で神の知恵を知ることができない」からです(同21節)。だから、「十字架につけられたイエス・キリストを伝える」ことは、人が成す業ではなく、神御自身が働かれることによって初めて成就する出来事です。この意味で、「神の躓きは真理の門の信仰の扉」なのです。
■罪の赦し
 ここで、「十字架の贖い」と「罪の赦し」について、もう少し考察することにします。わたしの勤めていた甲南女子大学で、在職中に「セクハラ規定」というのができました。この規定は、何がセクハラ行為にあたるのか、あるいはそうでないのかを明確にするためです。この規定によって、それまでは大目に見られていた行為も、もはや「許されない」行為になりました。だから、それまで「見過ごされて」いたことも、もはや見過ごされることなく「罪」にとわれることになったのです。セクハラ委員会があって、教師であろうと学生であろうと事務員であろうと、セクハラ行為が明るみに出されると、これを調査して、「罪あり」と裁定されると、その人は戒告や懲戒処分を受けることになります。だから委員会は、起こった出来事をよく調査して、事態を正確に把握した上で、はたしてその行為が、セクハラにあたるかどうかを裁定しなければなりません。その結果「有罪」となれば処分されます。
 パウロもまた、ガラテヤ人への手紙やローマ人への手紙で、これと同じことを言っています。神は、イエス・キリストをこの世にお遣わしになって、ナザレのイエスの生涯とその十字架と復活を通じて、全世界に「神の義」を啓示されました。これによって、それまで「見過ごしに」されていた罪が、はっきりと明るみに出されることになったのです。だから、罪を犯した者は訴えられて有罪か無罪かの裁きを受けなければなりません。「泥棒を捕らえてみればわが子なり」と言いますが、もはや罪が「見過ごされる」ことがなくなった結果、「罪人を捕らえてみれば全人類」だったのです。ユダヤ人もギリシア人も、いわゆる「神の民」と言われる人も異邦の諸民族も、全員が、同じように「神に逆らう罪人」であり、「神の栄光を受けることができない存在である」ことが明るみに出されたからです。
 ここで先ほどのセクハラ問題に戻ります。セクハラ委員会で処分が決定された後で、このことをまず学長に報告して承認を求めます。学長でも委員会の決定を覆すことはできません。ところが学長が、処罰が決定した人の今後の名誉のことを考えて、彼も十分反省して、悔いているのだから、処分の決定は決定として、彼を赦してやってくれないだろうかともちかけるのです。一度決定した罪を<赦す>とはどういうことか? たぶん委員会はそう学長に言うでしょう。そこで学長は、彼の罪は管理者であるわたしの罪でもある。だから、彼に代わって、わたしが戒告でも減俸でもその処分を受けよう。そうすれば、彼の罪を赦す名目ができるだろうと言うのです。ここで<赦す>というのは、<なかったことにする>ことではありませんから注意してください。その逆で、何が罪かがはっきりした段階で初めて、彼の処罰を「わたしが受けよう」と学長が言うのです。
 十字架は、人間がだれでも「イエス殺し」の罪を持つ者であること、神の御前に有罪であることをわたしたちに啓示します。問題はここからです。イエスとその十字架に接して、己の罪を認めてイエスを信じる者は、その罪がイエス・キリストの名によって「赦され」ます。しかし、罪を認めず、どこまでも「自分は正しい」と言い張るなら、その人は赦しを受けることができず、「神の怒り」がその人の上に留まり続けるのです(ローマ2章4〜5節)。
 人がイエスの十字架に接して<その罪を自覚させられた>場合、当然罰を受けなければなりません。それなのに、イエスが十字架で流された血と裂かれたそのからだによって、罰せられるはずの人が、罰を受けることなくその罪が「赦される」のです。逆に言えば、人の罪は、その罪が「見過ごされて」いる間は、「赦す」ことも<できない>ことが分かります。なぜなら、「赦し」の対照となる「罪それ自体」が明らかでなかったからです。「赦し」は、罪が確定した段階で初めて可能になるからです。だから、神が人の罪を暴かれるのは、その罪を赦すためであり、「赦す」ためには、今まで「黙って見過ごされていた」罪が、もはや見過ごされることがなく、はっきりと確認されなければなりません。資料【1】ローマ3章23〜26節を読みます。
 これがパウロの言う「神の義」です。だからこの「神の義」は、人の罪を暴きこれを確認させることであり、同時に、そうすることでその罪を「赦す」ことなのです。「見過ごされて」きたことが、もはや「許されなくなった」時に、神の「裁き」が行なわれ、「神の赦し」が始まるのです。「神の義」は、神の裁きであると同時に神の赦し/憐れみであるという不可解な不条理がここに潜んでいます。これが、イエス様の十字架による「罪の赦し」「罪の贖い」に潜む不思議です。
■赦された罪人
 もう一度セクハラ問題に戻ります。学長の申し出を聞いて、委員の一人がこう学長に尋ねます。学長のお気持ちは分かりました。しかし、そうやってせっかく赦されても、はたしてあの人は、今後同じ過ちを犯すことがないでしょうか? 彼のような人は、また同じことを繰り返す危険があります。そうなれば、今度は赦した学長の責任になりませんか? こう尋ねるのです。学長はこう答えます。今後も同じ過ちを犯す危険がないとは言えません。しかし、二度と同じ過ちを繰り返さないように、これからは<わたしが>彼の行動に責任を持って、彼を指導しましょう。だから赦した学長は、ここでとても重い責任を負うことになります。二度と過ちを繰り返さないように、その人を指導しなければならないからです。
 パウロが言うのもこれと同じです。イエスの十字架の血による「贖い」と「罪の赦し」をば、パウロは、今度はイエス・キリストの聖霊によって、人が「御霊の恵みに生きる」ことと結びつけるのです。「赦し/赦される」のは、<過去から現在まで>犯してきた罪のことです。そこには、これからのことは含まれません。ところが、パウロが言う「御霊にある罪の赦し」には、<現在から未来へ>向かうわたしたちの「罪と肉の状態」が含まれているのです。パウロ神学では、このように、過去から現在・未来へつながるイエス・キリストの<贖いの罪の赦し>の全過程が、「救い/恵み」と呼ばれているのです。だから、パウロの言う「律法」と同様に、彼の「赦し/恵み/恩寵」も、その内容が過去・現在・未来の過程の中を動きつつ働いています。資料【2】ローマ5章20〜21節を読みます。
 イエス・キリストの「贖罪の犠牲の血」は、旧約時代の過去からパウロの時代までの「罪の赦しと浄め」に基づいています。しかし、パウロが言うのは、神の御子イエスが、<全人類の>身代わりになって、ご自分の血(命)を献げられた「贖い」であり、それゆえに、イエス様の血は、過去だけでなく、これから未来において起こる罪をも<赦す>力を働かせるというのです。イエス様が復活されたのは、十字架の死によって人間のそれまでの過去の罪を贖うためだけではありません。イエス様の御復活によって、神からの聖霊がイエス様を通じてわたしたちに働きかけ、御霊を通して、神の御子イエスとわたしたちとが交わりに入るためなのです。過去の罪への贖いの赦しと、現在から未来へ向かう御霊にある赦しの恵み、この二重性こそ、パウロ神学のイエス・キリストにある罪の赦しの構造です。そして、これが大切ですが、このような「赦しの構造」において働くのが聖霊による新たな創造なのです。資料【3】第二コリント5章17〜19節を読みます。現在からの赦しと創造の御霊の働きについては、資料【4】ローマ人へ5章10〜11節と資料【5】を読みます。
■世界に共通するリヴァイヴァル
 今お話したことは、正統キリスト教の神学ですから、全世界に通用します。この信仰は古今東西のキリスト教に共通です。ギリシア・ロシアの正教も、ローマ・カトリックも、ルーテル教会や聖公会や長老派のプロテスタント教会も、バプティストやホーリネスなどの福音主義的な教会も、アッセンブリーやペンテコステ系の聖霊派の教会も、内村鑑三系の無教会も、この信仰では変わりません。だからこの信仰は、キリスト教の根源です。「根源的」(radical)とは、根本にありながら、同時に新たな革新をもたらす働きのことですから、これが日本人のリヴァイヴァルの源泉なのです。なぜわたしがこのように、キリスト教のエクレシア全体に共通する根源的な福音を求めているのか?と言えば、この国にほんとうにリヴァイヴァルが起こるためには、今現にあるキリストの諸教会が、あるがままそのままでいいから、祈りを共にする、主にあって交わる祈りを共にすることが、どうしても必要だからです。日本人の「エクレシア」なくして日本人のリヴァイヴァルはありえないからです。
■謙虚な心
 もう一度だけ、先ほどのセクハラ問題に戻ります。さて、学長に呼ばれて、学長から赦しを与えられたその人はどうするでしょうか? 学長は彼に二度と同じ過ちを犯してはいけないと忠告します。さて、彼はどうするでしょうか? 学長の恩義を忘れることなく、今後いっさい過ちを犯さないと固く決意をするでしょうか? それとも、「うまくいった」と心中密かにこう思うでしょうか? それとも、「自分は馬鹿でないから、学長に言われなくても、二度とあのような真似はしない」と自信を持つでしょうか? あなたなら、この三通りのどれを選びますか? 自分に自信を抱きすぎて、もうあのような真似をしないと思い込むのは危険です。なぜなら、彼は、同じような状況におかれたら、再び同じ過ちをするかもしれないことを忘れているからです。彼は、自分がそんな真似をする人でないとうぬぼれているからです。ここで問われるのが、その人がどれだけ自分に対して「謙虚になる」ことができるか?ということです。
 過去の罪の贖いから現在・未来へ向かう御霊にある恩恵へ、この狭間にあって、人間に与えられるのが「フミリタース」(ラテン語humilitas)(へりくだり/謙虚/無力)です〔佐藤繁彦『ルッターの根本思想』5章〕。これは、自分の力でも<できる>とうぬぼれた人ができることではありません。自分の力に頼らないで、神の御霊にあって与えられる真の謙虚を学ぶ人が初めてできることだからです。このような「謙虚」は、人間がその努力や修行によって獲得できるものではありません。神から御子イエス・キリストの御名によって遣わされる聖霊にあって初めて、人間に授与され、信じる者に達成されるのです〔佐藤前掲書232〜35頁〕。
 人が主のみ心を求めるとき、御霊のお働きによって、己の内に潜む隠れた罪・咎が暴かれ、その正体が見えてきます。罪・咎が暴かれるときに、それを己の意志や力で取り除こうとしてはいけません。自己努力ではどうにもなりません。御霊のお働きに委ねるなら、御霊御自身が働いて、それを取り除いてくださるのです。「恩寵の御霊」が、わたしたちを主の御臨在と平安へと導いてくださるのです。神のお働きから来るイエス様の御霊にある「罪の赦しの恩寵」、これが働くところに、わたしたちの不安も罪も、風に吹き払われる雲と消えて、もはや自分さえ意識されなくなって、主の御霊にある「霊風無心」とも言うべき境地が啓(ひら)けます。働くのは、神から遣わされる主イエスの御霊であり、これがもたらす<赦し>の恩寵です。
 今のわたしにとって、過去の大小のさまざまな罪が赦されて、イエス様の愛に浸されて生きることだけがいちばん本質的で尊いことだからです。この罪の赦しの愛こそが、国や民族や宗教を超えて、あらゆる国のあらゆる人に等しく与えることのできるイエス様の福音の核心なのです。このイエス様の愛に包まれてさえいれば、やがて、どんな方法かどんな姿かは知らないが、自分がひとりでに実を結ぶ存在にされていく。こう思えるようになるのです。「主よ、あなたにつながってさえいれば、後はひとりでに実がなるのです。」こう言うことができるのです。
 わたしたちは、人間に与えられる神からのこのような「謙虚/無心」こそが、正統キリスト教が伝える「福音」の根底にある霊性であり、同時に、これこそが、リヴァイヴァルのほんとうの源泉であることを知るのです。わたしは、これが日本人に最もふさわしいリヴァイヴァルだと信じています。霊風無心です。
■熱狂的と目覚めた霊性
 今、人の力、己の努力によらない「謙虚/無心」が大事だと言いました。でも、己の自己努力による「謙遜」と、神の御霊にある「謙虚」とは、いったいどうやって見分けるのでしょうか? これこそが、聖霊とそのお働きを信じる場合に最も重要な問題です。現在の日本には、聖霊体験を「熱狂主義」だと批判する学者や知識人が大勢います。
 エフェソ5章18節に「酒に酔いしれてはいけません。それは身を持ち崩すもとです」とあり、続いて「むしろ霊に満たされ、詩編と賛歌と霊の歌によって、語り合い主に向かって心からほめ歌いなさい」とあります。酒の上の喧嘩やふしだらはよくあることですから、前半の「お酒に酔っ払ってはいけない」とあるのはよく分かります。でも後半の「むしろ霊に満たされ」以下はどうでしょうか? 前半から見て、後半を「だからお酒は止めなさい。いつも素面(しらふ)でいなさい」という意味に解釈することもできましょう。これだと、「霊に満たされる状態」とは、酒に酔う状態と正反対ですから、真面目で冷めた状態を指すことになります。
 「聖霊に満たされる」と、そんなに冷めた状態になるのかと皆さんは思うかもしれません。しかし、この中で聖霊体験のある方は分かると思いますが、実際の聖霊体験は「冷めた状態」とは違います。それどころか、まるで酒に酔ったような状態になることがあります。あのペンテコステの聖霊降臨の時に、「聖霊に満たされた」人たちを見ている人たちが、「彼らは朝から新酒のぶどう酒を飲んでいるのか?」と誤解したとあります(使徒言行録2章13節)。新酒のぶどう酒は、まだ十分に発酵していないから、飲むと悪酔いすることがあったからです。
 これで見ると、エフェソ人への手紙に「むしろ聖霊に満たされなさい」とあるのは、酒に酔った状態と正反対の素面の状態を指すのではなく、逆に、酒に酔う状態と聖霊による状態とが<似ている>ことを指すことになります。「酒に酔うぐらいなら、<むしろ>聖霊に酔いなさい。」こう言っているのです。実は、こちらのほうが正しい解釈なんですが、どういうわけか、エフェソ人への手紙のこの箇所は、これとは正反対の素面説をとって、ここは「禁酒禁煙」の根拠にされているようです。「熱狂主義」嫌いの人たちは、だいたいこういう解釈です。
 聖霊に満たされることが、酒に悪酔いすることだと誤解されるのは、それなりの理由があります。自分は聖霊に満たされた、異言を語ったと言って「身を持ち崩す」人が少なくないからです。この関西でも、異言によって示されたと称して、奥さんと離婚して別の女性と家を出た伝道者がいると聞いています。これが、人の力、己の勝手な判断を聖霊の導きと取り違える場合です。聖霊によって異言が語られるのではなく、人の力によって異言を無理に<語らせよう>とする人たちがいます。ほんものの聖霊のお働きと偽の霊力信仰とは、区別が難しいのです。復活のイエス様の御霊にあるほんものの「無心な謙虚」と、人間的な自己努力で勝ち取ろうとする「謙遜傲慢」とは、良い麦と毒麦のように区別がつかないのです。だから神学者たちは、聖霊の働きよりも<神の言葉>そのものを理性と理論によって分析し解釈することを目指して、霊的な解釈や霊的な体験を嫌うのです。しかしその結果、ともすれば冷たい信仰のクリスチャンか、聖書の御言葉を軽視するクリスチャンができあがります。日本にはこういう「聖書通の無信仰」な人がとても多いのが残念です。
 ではいったい、どうすればいいのでしょうか? 聖霊という「霊酒」に酔うとどうなるのか? 酒に酔っ払った状態になるのか? それとも素面の冷めた状態になるのか? 実はどちらも真相ではありません。イエスは、「霊の風は思いのままに吹くが、人はそれがどこから来てどこへ行くのかを知らない」と言われました(ヨハネ3章8節)。霊の風は、時には激しく、時には静かに、時には身を切るように厳しく、時には感じないほど穏やかに吹きます。霊の風は人間の力ではコントロールできませんが、わたしたちのほうは、寒風の時にはコートを着たり、穏やかな時には薄着をしたり、その時々の霊風に合わせて自分の身を対処することができます。なぜそれができるのでしょうか? 風が自由に吹く時に、わたしたちのほうも風に対して自由だからです。
 イエスの御名によって遣わされる神の聖霊は、狐憑きのように、何かの霊や悪霊に「取り憑かれる」状態ではありません。怨霊や悪霊は、人を縛りその人を苦しめます。人を悪酔いさせる酒の力、身を持ち崩すふしだらな欲望、この世には、人を襲い、人に取り憑いて、その人を縛り、その人を苦しめるさまざまな霊力があります。これらの霊力に対して、自力でいくらもがいても、もがけばもがくほど、ますますひどく取り憑かれて「支配される」ことになります。英語でこの状態を"possessed"「支配される/所有される」と言います。"What possessed you?" 「何がお前に取り憑いたのか?」「いったいどうしたんだ?」「おかしくなったのか?」などと訳されます。
■自由の御霊
 しかし、イエス様の御名によって働く聖霊は、このような状態とは全く違います。なぜなら御霊は、人の能力知力を超えたところから来る「神の御霊」だからです。先にわたしは、正統キリスト教は「躓き」の教えだと言いました。これを突破するのはただ「祈る」こと、天地を創られた<唯一の真の神>、自分の理解を超えたこの神に向かって、十字架のイエスの御名によって「祈る」こと、これだけが、わたしたちと真の神とを結ぶ道だからです。祈るとは、祈り<求める>ことです。だからこれは、あなたが<自分で>やらなければなりません。そうなんです。わたしたちが真の神に向かう時に、自力でできるただ一つのこと、それは祈ることです。「我祈る。ゆえに我在り」〔小池辰雄先生〕です。
 祈りのうちに神様の御霊が働く時、御霊は<あなたの求めに応じて>働いてくださいます。あなたが心から願い求める時にだけ、御霊は働いてくださいます。なぜなら、神はあなたを一人の人格として、自由な存在として創造されたからです。御霊があなたの自由を侵すことは決してありません。あなたが拒めば御霊は去ります。だからあなたは御霊の導きに<自(みずか)ら従う>のです。あなたが望み、あなたが祈る限り、御霊はあなたを離れることは決してありません。どこまでも、どこまでも働いてくださいます。
 御霊は時には激しく、時には静かに働きます。しかし、激しさの最中にあっても、なおも御霊に従い抜く、お委ねする、その意図と姿勢を保ち続けるなら、御霊の働きはやがて静かに、深くあなたを包むでしょう。このような状態を「キリストを着る/纏(まと)う」と言います。衣服は霊衣のたとえです。
■リヴァイヴァルの源泉
 御霊に満たされ、イエスの御名にある御霊を身に纏う時にも、あなたの霊的な知性(これを「霊知」と言います)が曇ることは決してありません。異言を語る時も、霊的なエクスタシーに陥る時も、常に霊知は「覚めて」います。あなたはどこまでも主に従い、主の御霊に自ら進んでお委ねするその自由を失うことはないからです。委ねる、任せる、信頼すると言いながら、そこにはあなた自身の謙虚な従順が常に働いているのです。これを神の導きに自ら進んで従うわたしたちの「受動的能動」と言います。
 御霊に満たされるとは、どこまでもイエス様の御霊に<従う>ことです。従うその過程には、激しさもエクスタシーも、その他もろもろの霊的身体的な現象も生じます。しかし、そのような霊的身体的な現象は、御霊ほんらいの目的でもなければ、真のクリスチャンが目指す目標でもありません。御霊ほんらいの働きは、深く静かに燃えている霊性です。それは、酔っ払った状態でも冷たい常態でもなく、静かに<目覚めた>状態です。だからこれは御霊に導か<れる>ままに<従う>という「受動的能動」です。これが極まるところには、もうなんにもない、ただ御霊の風だけが吹いているという軽やかな霊性です。<霊風無心>の境地に啓ける御霊の愛にある御栄光です。でも、なかなかそこまでは行き着けません。
 これが、主にある御霊の最も強くて確かな、そして最もすばらしい栄光の有り様です。異言も預言も神学的な知識も、善行も業績も、いろいろな奉仕の業も、このような御霊にある霊性の泉から湧く時にほんものになるのです。自分を見失う酔っ払いの状態ではない。冷めた人間理性の状態でもない。静かに目覚めた霊性こそ、ほんとうの御霊にある「正常態」です。様々な霊能現象、異言や預言の霊の賜物、信仰のためのもろもろの知識、これらすべてに優って大切なのは、こういう聖霊様のお働きです。なぜなら、これこそが言葉のほんとうの意味で、「リヴァイヴァルの源泉」だからです。これが、わたしたち日本人に最もふさわしい「リヴァイヴァル」の有り様なのです。
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