2013年 夏期集会講話
宗教する人
■はじめに
 今回の夏期集会でも、こうして皆さんのお顔を見ていると、誰がこんなメンバーを予想しただろうか?と不思議になります。いつもの事ながら、遠くから近くから、神様が呼び集めてくださった。そうとしか思えません。辞義通りにイエス様とその父なる神の御霊に「呼び集められた」(「エクレシア」の基の動詞の意味)人たちの交わり(コイノニア)です。
(1部)
■宗教する人
 わたしが「宗教する人」という言い方をしたのは、2000年のコイノニア会の講演で「宗教する人」と題してお話しした時です〔ラテン語は homo religiosus(ホモ・レリギオースゥス)〕。「宗教する人」と聞くと皆さんは、「宗教的な人」あるいは「信心深い人」のことだと思うかもしれません。でも、わたしの意味は少し違います。人間は食べたり性の営みをするだけでなく、学んだり、物を作ったり、お金を貯めたり使ったり、政治や社会にかかわったり、遊んだりします。これらのすべてを総合した「人間」のことをラテン語で「ホモ」 "homo" と言います。ですから「ホモ」にはいろんな側面があります。人間は頭脳を使って学んだり道具を使ったりしますから「英知の人/ホモ・サピエンス」(homo sapience)です。物を作りますから「作る人/ホモ・ファベル」(homo faber)です。お金を使う時、その人は「経済する人/ホモ・エコノミクス」(homo economics)になります。言葉を話しますから「言語を語る人/ ホモ・ロクエーンス」(homo loquens)で、「遊ぶ人」は「ホモ・ルーデンス」(homo ludens)です。すべての人間は何かを信じて生きていますから、わたしはその意味で「宗教する人/ホモ・レリギオースゥス」(homo religiosus)と言うのです。悪いことをすると良心が咎めるのも「宗教する人」だからです。だからすべての人は、気がついていてもいなくても、何らかの意味で「宗教する人」です。
 宗教する人が最も顕著に表われるのは、いわゆる「カミがかる」時です。皆さんは気がつかないけれども、人はいろんな時に「カミがかり」ます。何かに「取り憑かれた」状態になることです。「マニア」というギリシア語はこの意味です。だからある特定の宗教を信じていなくても、すべての人は、何か特殊な状態に置かれると「カミがかる」ことがあります。人が死ぬ前に今までの生き方を思い返して信心深くなるのも「カミがかり」です。マニアになったりカミがかるのは人がほんらい「宗教する人」だからです。
■カミがかりの特徴
 人がカミがかるといろいろな特徴が現われますが、その例を六つほどあげましょう。
(1)人間は様々な恨みや怒りを抱いていますが、それらは通常抑えられています。しかし、厳しい状態に陥ったり激しい圧迫に出逢うと、これが噴き出します。これが犯罪や暴力につながる場合もありますが、そうではなく、より深く広がると「カミがかり」ます。カミがかりの大事なところは、自分だけの恨みや怒りではなく、広くその時代の社会全体に向けて、あるいは世の政治権力に向けて「怒り」が露わになることです。カミがかりには啓示的な要素が含まれますから「共同体的」な性質を帯びるのです。だから、個人から多数の人たちへ広がり、人々を動かす力になります。これは「怒り」と言うよりも公の形をとる「憤り」になります。
 これの最悪の例をかつて日本を騒がせた「オウム真理教」に見ることができましょう。これは麻原という個人が、カミがかり状態から、大勢の優秀な大学生たちを巻き込んで社会に向かって反抗し、弁護士夫妻の殺人や地下鉄にサリンを撒くなどのテロ行為を行ないました。過激なイスラムのテロ攻撃などもこれに類します。また、宗教的な分野でカミがかりが生じると、その「怒り/憤り」は宗教団体の指導者たちや宗教的権威に向けられることになります。このために、神がかりは政治権力や宗教指導者たちから警戒され、厳しく抑圧される傾向があるのです(注2)。
2)カミがかりについて、わたしが個人的に知っている実例をさらに二つあげます。一つはある夫婦が町で拝み屋さんをやっていました。主として奥さんが霊感を与えられて拝んでいたのですが、この夫婦が宣教師さんの教えを聞いてクリスチャンになりました。しばらくはとても喜んでいたのですが、祈って霊感に入ると、かつての拝み屋の時の霊がどうしても出てくるのです。それは異教的な霊だから悪魔から来るものだと宣教師さんから戒められるのですが、自分にはそれが「悪霊」だとはどうしても思えない。こう言ってわたしに相談に来たことがあります。このように「カミがかる」とその人の先祖から受け継いだ伝統的な宗教性が露わになる傾向があります。聖霊の働きが著しいキリスト教の集会で、日本人の信者さんが霊に満たされると、過去の日本の異教的な霊が露わになることがあります。このために、聖霊の働きを重んじるキリスト教会の集会などでは、聖霊の働きを説くと同時に神道や仏教など、過去の日本の宗教性を「異教」と見なして、これを厳しく排除する傾向が強くなります。右手で御霊の働きを説き、左手で他の宗教を排除するのです。
(3)今度は逆の場合です。ある高級官僚の人が、死期が近づくと、かつて学生時代に洗礼を受けていた時の信仰が再びよみがえってきたのです。彼はそれまで埃をかぶっていた聖書を再び取りだし、熱心に読んで天に召されました。驚いたのは奥さんで、彼女は長年連れ添ってきたのに、夫が洗礼を受けていたことを全く知らなかったのです。このように、かつてキリスト教の信仰を抱いた人が、何かのきっかけで神がかると昔の信仰がよみがえるのです。キリスト教国と呼ばれる国では、人々の「カミがかり」が、昔のキリスト教信仰をよみがえらせることになります。これがいわゆるキリスト教国で言う「リヴァイバル」です。だからこれは、例えばアメリカなどでは、人種差別の「リヴァイヴァル」となって現われる場合もあります。
(4)神がかりがさらに強まると、「予言」や「占い」や病気癒やしなどの「しるし/奇跡」現象が現われます。ご存知のように現在の日本では、神道系、仏教系、キリスト教系の様々な宗教団体が存在していて、霊能や霊感を通じて予言したり病気癒やしを行なっています。
(5)神がかりがより深くなると、その人はカリスマ的霊威を帯びることになります。タレントがアイドル(偶像)になってもてはやされて崇められると「オーラを発する」などと言われるのがこの状態です。カリスマは人を幸いに導く場合もあり、逆に不幸に陥れる場合もあるのは、皆さんご存知の通りです。
(6)最後に、カミがかりは「啓示」をもたらすことがあります。これも日本では古くから見られることで、天理教や金光教の教祖など、例は幾らでもあります。霊による啓示は、ユダヤ=キリスト教でも多く見ることができますが、天を旅する『第一エノク書』などがその例で、これは「黙示」と呼ばれています(注3)。
■宗教と人類
 人は誰でも「宗教する人」ですから、実に様々形の「カミがかり」が存在します。比較的弱いカミがかりから強烈なもの、怖い危険なものから気高いものまで、実に様々な形態が存在します。宗教に伴うカミがかりには危険な要素が含まれますが、「宗教する人」を除外して宗教を語ることはできません。「宗教する人」を無視してキリスト教神学を語ることもできません。「宗教する人」を批判しながら聖書を語ることもできません。なぜなら「宗教する人」が救われなければ、人間は救われないからです。
 もうお気づきと思いますが、わたしたちが祈り求めている「聖霊」のお働きも、この広い意味での宗教的な「神がかり」の一つだと言えます。現在のキリスト教に限ってこれを世界的に見ると、実に様々な形態の「聖霊体験」を見ることができるのは皆さんご存知の通りです。
 人類が類人猿から分かれて進化するに連れて、「火」と「道具」と「言語」を用いるようになりました。この三つ以外にもう一つ大切なのは「宗教」です。60万年くらい前から、人類は死者を埋葬して花を捧げる「弔い」の行為を行なってきました(注4)。太古の人骨に混じって花の種や花粉が発掘されています(注4)。火と道具と高度な言語と宗教、この四つは他の動物には見られない「ホモ・サピエンス」の特徴です。いったい人間はなぜこのように「カミがかる」のでしょう?
 人間には、現在の人間の有り様を変えようとする衝動、言い換えると<今の人間を超える>存在になろうとする不思議な欲求が具わっているからです。これは宗教だけでなく科学やテクノロジーを見ても分かります。人類は、どこまでも現在の能力以上の能力を求めて、これを追究するという不思議な定めにあるのです。人間は人間を超えようとする生き物なのです。聖書には、こういう人間が「神のようになろうとして」神が禁じた知恵の樹の実を食べたとあります(創世記3章1〜19節)。こうなると文明とは何か?「進歩」は人間にとって善なのか悪なのか? 科学技術は人間を幸せにするのか、それとも人間を滅ぼす恐ろしい力になるのか? 実はそのどちらの可能性もあるのですが、この問題は難しいのでこれ以上深入りしません(注5)。この問題はイエス様によって初めて答えが与えられることになります。
■宗教の怖さ
 ただ、どうしても留意しなければならないのは、先にも出て来た「宗教に潜む恐ろしさ」です。いったいこの「怖さ」の正体は何かをここで考えてみる必要があります。「宗教する人」の恐ろしさは、根源的に「犠牲を求める」ところにあります。宗教は必ず「犠牲の供え物」を伴うからです。人間が生きていくためには、植物や動物の「命を食べ」なければなりません。この世で誰かが「儲かる」ためには誰かが「損」しなければなりません。だから何かを求めるためには何かを犠牲にする必要があるのです。それが植物であり動物であり物の場合もありますが、それに留まらず、人間が人間を犠牲にすることが制度化される場合があったし、現在でもあります。日本で昔から言われている「怨霊の祟(たた)り」は、犠牲にされた人たちの怨念です。宗教では、これが自分の信じる宗教のために他の宗教信者を犠牲にするという形で現われることが多いのです。
 だから、人類が平和に暮らすためには、宗教的な友好と一致がどうしても必要です。では、キリスト教にはそのような怖さがないのでしょうか? 試金石となるのは他宗教に対する姿勢でしょう。しかしこの問題は、突き詰めると現在のキリスト教の内部の諸宗派の一致、言い換えるとエクレシアの一致と重なってくるのが分かります。
 エクレシアの一致はいかにして成り立つでしょうか?イザヤ書53章は「主の僕の歌」と呼ばれていますが、そこには、自分を犠牲にすることで他者を救うことが出来た人のことが出ています。ここはイエス様のことを預言している大事な箇所です。ヤハウェによって受難から復活した人こそ、地上のいかなる人種的、宗教的な制約をも超えて、真に愛にある一致を成し遂げてくださったのです。他宗教も他宗派も、そのあるがままで肯定し認めながら、これらを人類の一致に向けて導くイエス様の御霊の愛こそ、世界の平和を達成することが出来る唯一の道です。そのような愛の内に働く理性あるいは知性はどこから来るのでしょうか? これは、ルネ・ジラールが指摘したように、ギリシア人ヘラクレイトスの「ロゴス」(理性)ではなく、ヘブライ的なヨハネ福音書の「ロゴス」(み言)です。この問題も難しいのでここでは深入りしません(注6)。
(2部)
■神を信じる
「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じ、わたしを信じなさい。」
                   (ヨハネ14章1節)
聖書は神の御言葉だというのは皆さんご存知の通りです。でもこれはどういう意味でしょうか? ヨハネ福音書のこの御言葉を読んでこれを聴く。「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」とイエス様がお語りになるのをじっと聴くのです。するとイエス様が、その時その場で<あなたに語ってくださる>。だから、御言葉を「聴く」とは、御言葉の語りかけを聴きとって、そのお働きを<受け入れる>ことです。そうすることで御言葉を<悟る>のです。ところでイエス様はここで「神を信じなさい、同時にわたしを信じなさい」"Believe in God, and in me believe."と語っておられます。
 「あなたは神様の存在を信じますか?」と尋ねられて「はい、神様がおられるのは信じています」と答える。これは英語で言う"I believe God".です。でもこれではまだ神に「信託する」一歩手前の「信じる」です。「あなたの言うとおり神様がいると思う」という程度の「信じる」です。だからこの段階はまだ聖書の御言葉に「触れる」程度です。そこで立ち止まらないでさらに突き進む。でもこれがなんだか怖い。自分に「神がかり」が生じるかもしれませんから。だから普通の場合は、病気で死にそうな時など切羽詰まった状態で初めて、<怖さを忘れて>神様にすがりつく。これが"Believe IN God!" です。病気癒やしが起きるのもこういう時です。だから怖がらないで、思い切って神様からの語りかけに身を投じてください。神様の語りかけに投信し、託身してください。
 「神」はギリシア語で「テオス」"theos"です。この神に託身し入神することを「エン・テオー」"en・theow"と言います。これが英語の"enthusiasm"(神がかり/熱狂)の語源です。「神がかり」「熱狂」は要注意だと皆さんは思うかもしれません。確かにこの段階ではいろいろあぶないこともあります。「熱狂」にはいろいろなタイプがありますから。
■ナザレのイエス様
 イエス様は「神に信託し投身しなさい」と言われてから、すぐこれに続けて「<同時にこのわたしを>信じなさい」と言われています(英語の下線部分)。「わたし」とはイエス様のこと、それも御受難の直前の最後の晩餐の後で、11人の使徒たちにお語りになっている「ナザレのイエス様」のことです。だから、神様からの語りかけを自分の全身で聴いて「エン・テオー」(神がかり)になるだけではまだ足りないのです。続けてこの「わたし」ナザレのイエス様に入信し託身しなさいと言われるのです。パウロに顕われたのも同じイエス様です。パウロはこのイエス様に出会って、自分の力で神の律法を守ろうという思いを棄てました。イエス様の御霊にあって「もう生きているのは自分でない。キリストが自分にあって生きておられる」というところへ達したからです(ガラテヤ2章19〜20節)(注7)。アンティオキアの人たちはこの「イエス様こそキリスト(救い主)だ」と熱狂した。だから彼らは「キリストに熱狂する者」「クリスティアノス(単数)」と呼ばれました。これが「クリスチャン」の始まりです。 これで言えば、ナザレのイエス様に託身して、イエス様の霊性に生きる人はギリシア語で「イエスーソス」、「イエス様の人」です。
 わたしたちは、「神を信じ込む」カミがかりからあの二千年前のナザレのイエス様を呼び求めるところへ向かう必要があるのです。ところが、ナザレのイエス様はわたしたちにとっては絶対の他者です。時間的にも場所的にも、わたしたちにとってこれ以上の「他者」は存在しません。イエス様はどう見ても<自分とは異なるお方>です。実はこれが大事なのです。なぜなら、ナザレのイエス様の御名を呼ぶ時に、わたしたちの「カミがかり」にはっきりとした変化が生じてくるからです。それまでの熱狂は「カミ」と言いながら自分と区別がつかなかった。しかし、ナザレのイエス様の御名を呼び求めることは、わたしたちには<ない>他者からの霊的な働きかけが入り込んでくることです。そうすると、ナザレのイエス様の働きかけによって、わたしたちに潜む<自我>が取り除かれていくのを覚えます。するとわたしたち自身は空(くう)になります。これは決して<空虚な>状態ではありません。
 祈りのうちに、イエス様の御霊のお働きによって、心にわだかまる重荷や罪の力が少しずつ剥(は)がされて取り去られるのを覚えるようになります。そして、イエス様の御霊の御臨在が自分を包んでくださることが分かるようになるのです。自分は言わば「無我」にされ、無我の自分にイエス様が共に居てくださるという不思議が生じます。「インマヌーエール」、「神我らと共にあり」の状態です(マタイ1章23節)。その御臨在は<愛と喜びと平安>を伴って人を包みます。しかも、他人に<支配されている>という重苦しさはありません。いつでもそこから抜け出せるという自由があるからです。「主の御霊の働くところに自由がある」からです(第二コリント3章17節)。こうなるともうなんにも考えない。なんにも要らない。その時その場で働いてくださるイエス様の御臨在に委ねる。イエス様の御霊のお導きに黙って従い「イエス様の時を歩む」のです。「空の鳥、野の花」のように、過去も未来も思い煩うことなく、ただ今の時を「主と共に」生きるのです。
■三位一体
 こうなると、先の「カミがかり」の「カミ」はもはや一般的な「カミ」ではなくなります。そこに顕われるのは<イエス様の父である>神です。旧約聖書が証しするイスラエルの神であり、ナザレのイエス様の到来を預言されたのはこの「神」です。これが天地創造の神です。このイエス様の神に出会うと、人間も自然も栄光に耀きます。これが「イエス様の人」です。こういう「イエス様の人」なら、東方正教会もカトリックも、自由プロテスタントも純福音も聖霊派も無教会も関係なく、エクレシア全体に共通します。「主は一人、御霊は一つ、信仰は一つ、エクレシアも一つ」(エフェソ4章3〜6節)です。
 このイエス様はしかし、わたしたちと共におられるから、必ずしも「ナザレのイエス様」だとは言えません。ヨハネ福音書はこのイエス様を「パラクレートス」(弁護者/助け主)と呼んでいます(ヨハネ14章15〜17節/同26〜27節/同15章26節)。だからこれは「もう一人のイエス様」です。
 父なる神とイエス様とパラクレートス(御復活のイエス様の御霊)、この三者です。「エン・テオー」の神がかり状態からナザレのイエス様を呼び求める。そこに顕われるのがパラクレートスのイエス様、そしてまた天地創造の神様へと戻ることで初めて、あるがままそのままの御霊にある救いと自由が達成されます。父なる神からナザレのイエス様へ。ナザレのイエス様から聖霊(パラクレートス)へ。父から御子へ、御子から聖霊への三位一体です。この信仰に生きる。この霊性に与る。ここに帰着するのです。祈ります。
 
■注
注1)私市元宏『これからの日本とキリスト教』ブッキング社(2001年)5章「宗教する人」を参照。
注2)現在の北朝鮮はもとより、中国でも非公式の家の教会は厳しい取り締まりを受けています。「中国キリスト教徒の<春>はまだ遠く」『ニューズウィーク』2012年11月14日号を参照。
注3)コイノニア会ホームページ→聖書講話→ヘブライの伝承とイエスの霊性→3章『第一エノク書』の概要を参照。
注4)60万年前のネアンデルタール人は死者に花を添えて葬ることを知っていました。谷澤伸他著『世界史図録ヒストリカ』高校世界史教科書用図録。山川出版社(2013年)33頁。
注5)この問題についてはヘブライの伝承とイエスの霊性→8章堕天使たちと人知の堕落→堕天使たちの秘義についての項が参考になるでしょう。
注6)「理性と霊知」についてはコイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→「人知と霊知」を、また、ヨハネ福音書のロゴスについては、四福音書補遺→ロゴスの葬りを参照。
注7)「律法」と福音の関係については私市元宏「律法の呪い」『Revival Japan』(2011年12月18日号掲載)を参照。同じものがコイノニア会ホームページ→聖書講話→パウロ書簡補遺にもでています。
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