2013年春期 東京集会
リヴァイヴァルとナザレのイエス様
■はじめに
 2011年の秋期のこの東京集会では「リヴァイヴァル神学」と題してお話ししました。続いて2012年のコイノニア夏期集会では、二回にわたって「日本のリヴァイヴァル」のあるべき姿を語りました。「リヴァイヴァル」とはなにか? それを妨げるものは何か? 日本のリヴァイヴァルはどういう形態を採るべきか? これらについて具体的に語りました。コイノニア会のホームページに掲載していますので、皆さんの中ですでにお読みくださった方もおられるかもしれません。だから、今日はそういうことはお話ししません。後は実行あるのみだからです。今こそこの国にリヴァイヴァルの火を灯してほしいのです。今日はそういう想いでこの交わりに臨みました。
■神への入信
「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じなさい、かつわたしを信じなさい」
                    (ヨハネ14章1節)
 聖書は神の御言葉だというのは皆さんご存知の通りです。ではどういう意味で「神の御言葉」なのか? それはヨハネ福音書のこの節もそうですが、これを読むこれを聴く時に、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」とイエス様が言われるとおり、今その場でイエス様が<あなたに語っておられる>ということを語っているからです。だから、御言葉を「聴く」とは、御言葉のお働きを覚知することなんです。御言葉はなんと語っているのか?「神を信じなさい、わたしを信じなさい」"Believe in God, and in me believe."です。
 「あなたは神様の存在を信じますか?」こう尋ねられて「はい、神様がおられると信じます」と答える。これは英語の"I believe God".です。でもこれではまだ神に「信託する」一歩手前の「信じる」です。「神様がいるとあなたの言うのはほんとうだと思う」という程度の「信じる」です。だからこの段階はまだ聖書の御言葉に「触れる」程度です。そこで立ち止まらないでさらに突き進む。これをやらないとほんものではないのです。でもこれが怖い。だから普通の場合は、病気で死にそうだという切羽詰まった状態になって初めて、怖さを忘れて神様にすがりつくのです。これが"Believe IN God!" なんです。病気癒やしが起きるのはそういう時です。だから怖がらないで、思い切って神様からの語りかけに身を投じてください。神様の語りかけに投信し、託身してください。
■宗教的熱狂
 「神」はギリシア語で「テオス」"theos"です。この神に託身し入神することを「エン・テオー」"entheow"と言います。これが英語の"enthusiasm"(神がかり/熱狂)の語源です。「神がかり」「熱狂」などというと皆さんはこれは要注意だと思うかもしれません。確かにこの段階ではいろいろあぶないことがあります。
 「熱狂」にはいろいろなタイプがありますが、その特徴の一つは「怒り・憤り」です。これは政治権力や宗教権力や権威に向けて噴出します。「神がかり」の熱狂は、私憤や私的な怨恨ではなく啓示的な共同性を帯びていますから、それだけ国家権力や教会の指導層から警戒されます。しかしわたしがここで採りあげたい「神がかり熱狂」は宗教的な面です。これには二つのタイプがあります。
(1)若い頃キリスト教を信じて洗礼を受けた。しかしその後教会には行かず信仰も失った状態で人生を過ごしてきた。ところが晩年に死期を迎える時に突然昔の信仰がよみがえって埃をかぶった聖書を取りだして読み出す。こういう場合です。こういう「神がかり」は、とりわけキリスト教国では「リヴァイヴァル」という形で現われます。
(2)ある年齢でキリスト教に入信したけれども、いざ死期が近づくと幼少から親しんだ仏教や神道などの宗教が再びよみがえってくる例です。実は日本ではこういう場合が多いのです。
 この国では「カミがかり」はキリスト教にかぎりません。仏教系でも神道系の宗教でも、天理教、大本教、真光(まひかり)教、青森の恐山から悪い例ではオウム教団まで、いろんな「カミがかり」があります。だから、キリスト教系の伝統的な教派は聖霊体験を嫌うのです。これを容認すると教派の在り方や指導者に対する批判が噴き出す。あるいは異教的な霊が入り込む。こう怖れるからです。このためにその教派独自の教義や形式で霊的な働きを制限し統制しようとします。
 ところが聖霊的な集会の場合は伝統的なキリスト教教派とはこの点で違います。霊的な働きを規制したら霊は働かないからです。そこで外国から来た宣教師たちがリヴァイヴァルの聖霊集会をやるときには、仏教や神道や異教的な霊をできるだけ排除しようとします。人によって程度がありますが、キリスト教以外の霊が入らないように他宗教には否定的な態度を示すのはこのためです。その上で、キリスト教的な霊の働きを強め勇気づけようとする。右手でキリスト教の聖霊の働きを勇気づけ、左手で異教的な霊の働きを抑えるあるいは排除するわけです。
■ナザレのイエス様
 イエス様は「神を信じなさい」すなわち「神に信託し投身せよ」と言われると同時に「<このわたしを>信じなさい」と続けておられます。「わたし」とはイエス様のこと、それも御受難の直前に11人の使徒たちにお語りになっているイエス様、御復活以前のあの「ナザレのイエス様」のことです。神様からの語りかけを自分の全身で聴いて「エンテオス」(神がかり)になるだけでない。ヨハネ福音書の御言葉は続けてこの「わたし」ナザレのイエス様に向かって入信し託身しなさいと言われるのです。パウロに顕われたのも同じナザレのイエス様です。アンティオキアの人たちはこの「イエス様こそキリスト(救い主)だ」と熱狂した。だから彼らは「キリストに熱狂する者」「クリスティアノス(単数)」と呼ばれた。これが「クリスチャン」の始まりです。 これで言えば、ナザレのイエス様に託身して、イエス様の霊性に生きる人は「イエスーソス」、「イエスの人」です。
 わたしたちは、「神を信じ込む」カミがかりからあの二千年前のナザレのイエス様を呼び求めるところへ向かわなければなりません。ただしナザレのイエス様はわたしたちにとっては絶対の他者です。<自分ではないお方>だというこれほど明白な事実はありません。これが大事なんです。この時わたしたちの「カミがかり」にはっきりとした変化が生じてきます。それまでの熱狂は「カミ」と言いながら自分と区別がつかなかった。しかし、ナザレのイエス様の御名を呼び求めるときに、わたしたちには<ない>他者からの霊性が入り込んでくるのです。ナザレのイエス様を求める祈りによって、わたしたちの自我が取り除かれていくのです。そうするとわたしたち自身は空っぽになる。同時にイエス様の御霊の御臨在が自分を包んでくださることが分かるようになります。言わば自分は「無我」になり、無我の自分にイエス様が共に居てくださると不思議な愛と喜びと平安を覚えます。でも、他人に支配されているという重苦しさはありません。いつでもそこから抜け出せるという自由があるからです。ただ、そうなるともうそれ以上なんにも考えない。なんにも想わない。その時その場で働いてくださるイエス様の御臨在に委ねる。イエス様の御霊のお導きに黙って従う。ただそれだけです。「空の鳥、野の花」のように、過去も未来も思い煩うことなく、ただ今の時を生きるのです。
 そうなると先の「カミがかり」の「カミ」はもはや一般的な「カミ」ではなくなります。そこに顕われるのは「イエス様の父である神」になるからです。だからこれは旧約聖書が証しするイスラエルの神であり、ナザレのイエス様の到来を預言された「主なる神」です。 イエス様の御霊の御臨在とこれに伴う霊的な愛と平安がイエス様の父なる神であり、それが天地の造り主である創造の神であることが分かるのです。人も自然も栄光に耀くのです(ヨハネ15章26節参照)。これが「イエスの人」の有り様です。こういうイエスの人なら、東方教会もカトリックも、自由プロテスタントもペンテコステの聖霊派も関係ないです。全部共通です。
■聖書的霊感
 そこでもう一度初めに戻ります。「神を信じなさい。かつわたしを信じなさい」と言われたのはイエス様です。それも<今のこの時にあなたにお語りくださる>イエス様です。だからこれは御復活のイエス・キリストです。この御復活のイエス様が聖書のお言葉をとおしてお語りくださる。これを受けて「神がかる」(エンテオス)。そうすると今度は「わたし(ナザレのイエス様)を信じなさい」と続くのです。聖書を通して御復活のイエス・キリストが語り、これに投身し全託するとナザレのイエス様が顕われる。するとイスラエルの神がイエス様の父なる神として顕われるのです。これが聖書は「神の御言葉」だというほんとうの意味です。初めに聖書の御言葉からカミがかる。するとナザレのイエス様へ導かれる。するとイエス様の御霊がわたしたちに働く。するとイエス様の父なる神、イスラエルの主なる神が顕われる。すると聖書が「神の御言葉」だと分かる。この循環です。
 ナザレのイエス様はわたしたちと「同じ人」です。けれども同じでない。なぜなら今お話ししたようにわたしたちに「神を啓示して」くださるお方だからです。これが神の御子イエス・キリストです。これは完全に自分ではない別のお方です。このお方が一緒にいてくださる。この主様との交わりの中にいると不思議に心が安らいできます。熱狂が鎮まり平安が訪れます。わたしたちは無我状態。もうなんにも要らない。なんにも思わない。「心を騒がせない」で、ただその時その時を主と共に歩む。「もはやわたしが生きているのではない。キリストがわたしにあって生きている」(ガラテヤ2章20節)というところへ来るのです。イエス様が言われた「空の鳥、野の花」(マタイ6章25〜30節)の霊境です。
 こういう人が二人三人いると大変なことが起こります。「そこにわたしもいる」(マタイ18章20節)からです。「そこにわたしが臨在する」のは二人三人が<祈る人>だからです。ただの「お祈り」ではない。イエス・キリストに全託した「無我の祈り」です。「無我夢中」でけっこう。そこに主の御臨在が顕われます。これこそコイノニアの交わりです。「神わたしたちと共に居ます」「インマ・ヌー・エール」" With us God"です。これがリヴァイヴァルの霊灯です。(2013年5月18日)
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