聖餐の御言葉
2014年12月20日(京都私学会館)
 
 今年もクリスマスがやって来ました。恒例により、これから聖餐を戴きます。最初にマルコ14章22〜25節から読みます。ここでイエス様は「これはわたしのからだである」と「これはわたしの血である」と言われて、弟子たちにパンとぶどう酒をお与えになっています。言うまでもなくこれは、ナザレのイエス様御自身のお体とその命である血のことです。ここは、イエス様が十字架におかかりになる直前の御言葉ですから、イエス様の御受難を通して、イエス様の身体的存在とそこに働く命がわたしたちにも働いてくださることを言い表わしています。
 イエス様を歴史的に存在したただの人間だと見なして、イエス様に見習う、あるいはイエス様に従うことを重んじる人たちがいます。これはとても分かりやすく、信仰がない人でもその意味が理解できますが、こういうイエス様の信じ方は、今読んだ聖餐のお言葉の真意とは言えません。
 イエス様を復活した「キリスト」(救い主)だと見なして、天におられるキリストを信仰する人たちがいます。これも「神様、仏様、キリスト様」として、それなりに納得しやすいです。しかし、これだと、「わたしもキリストだ」と主張する人たちと区別することができなくなります。だから、正確にはこれもこのマルコ福音書が伝える聖餐の御言葉の真意ではありません。
 ナザレのイエス様の体と命がわたしたちに宿り、しかも世の終わりまで人類に宿り続けるというこの出来事は、今述べた二つの場合とは異なって、人間であるわたしたちには理解できない不思議な「恵みの賜」となる出来事です。だからこれは聖なる「神秘」であり、それゆえに「ユーカリスト」(「感謝する」「有り難く拝受する」)と呼ばれています。これから戴く聖餐は、この神秘の出来事を伝えることで、イエス様の十字架を「記念する」ためのものです。わたしたちは、これを通して、イエス様の死と御復活を「起念し」「祈念する」のです。
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