2014年5月10日
東アジアのエクレシアの霊性
わたしが「東アジア・キリスト教圏」ということを提唱し始めたのはこの東京集会でした。それ以後、この問題に注意していると、驚くことに、すでに学会でもこれが採りあげられて論じられていることを知りました。「日中韓神学フォーラム」が2006年に京都で、2007年にソウルで、2009年に中国からの参加者を得て京都で、2011年に上海で開かれました。2014年3月の日本キリスト教学会近畿支部会でも「東アジアのキリスト教」と題してシンポジアムが開かれ、わたしも参加しました。2014年5月9〜10日にソウルの梨花女子大で「アジア神学とは何か?」と題して英語で開かれる予定です。
■民族主義と人種差別主義
ところが近頃の日本で気になることがあります。それは人種差別的な傾向が見られることです。ただし、「民族主義」(ナショナリズム)と「人種差別主義」(レイシズム)の違いを見落としてはいけません。民族主義は国家と民族の立場を重視する思想ですから、それ自体間違いではないどころか、大切な視点です。しかし、人種差別主義はそうではありません。アメリカの黒人差別も、在日の韓国人への差別も同じで、これは「憎悪言葉」(ヘイト・スピーチ)を伴いますからとても危険です。人種差別主義者(レイシスト)は知的な人にも庶民的な人にも潜む心情的な傾向ですが、これが広がると悪霊的な性格を帯びる危険があります。
人種差別の怖さの例を上げると、かつてアフリカのルワンダで、フツ族とツチ族がともに一つの国家を作っていました。ところが、一部のフツの人たちがマイクやスピーカーで、「ツチを殺せ」という呼びかけを始めたのです。初めは小さな声でしたが、これが突然に広がり、斧や鉈を持ったフツの人たちが、突然隣人のツチの人たちに襲いかかり殺戮を始めました。これが1994年の100万を越えるルワンダの虐殺です(映画「ホテル・ルワンダ」を参照)。
人種差別が宗教と結びついた例では、かつてのユーゴスラヴィアがあります。第二次大戦後ユーゴスラヴィア連邦は、ギリシア正教のセルビア系とカトリックのクロアチア系とイスラム教の人が多いボスニア・ヘルツェゴビナやモンテネグロなどの連邦で成りなっていました。ユーゴは、チトーの下で平和な国家を作り、ソ連からもアメリカからも中立を保ち、独自の自由主義路線を歩んでいました。ところが、宗教を背景にした人種差別が生じて内乱が起こり(1996年〜99年)、特にコソボではアルバニア系のイスラム教徒とセルビア系の正教徒の間で激しい内戦が起こりました。現在はそれぞれの小国家に分離しています。宗教的に見れば、現在のアジアは巨大な「ユーゴスラヴィア」です。
■韓国・中国と日本との違い
東アジア・キリスト教圏に入る前に、民族主義についてもう一つ注目したい点があります。それは中華人民共和国もお隣の韓国も、終戦後(1945年)にできた新しい国家だということです。しかもこの二つとも日本の侵略と敗戦をきっかけにして誕生した国家です。ですから、これら二つの国はまだ不安定な状態にありますから、国民の一致団結を呼びかける時には、対日戦争とその侵略を持ち出して、国家の統一を図ろうとする傾向があるのです。イギリスから独立したばかりのアメリカが、独立戦争を持ち出してアメリカの統一を図ろうとしたのと同じです。それでも日本語を学ぶ中国の若者がいます。今、日中関係はとても悪いです。こんなとき、中国で日本語を学ぶ若者たちはいったい何を感じているのでしょう。「本当にいいのか。日本語なんて勉強しても将来性はないだろう」。日本僑報社が主催する「中国人の日本語作文コンクール」で1等賞をとった李佳南さん(21歳)は、受賞作文のなかで、父親にそう言われた経験を書いています。それでも彼女は、福建省にある華僑大学日本語学科に入学して、「(両国民が)互いに尊敬し、助け合える日が来るだろう」と信じているというのです〔『朝日新聞』2014年1月27日号〕。
しかし、韓国と中国に比べると、日本は少し事情が違います。日本が近代国家を形成したのは19世紀の終わり頃ですから、今から120年前のことです。だから今でも、何かことあるごとに、「なんとか維新」と常に「明治維新」を持ち出して、この国の新しい出発を作り出そうとするのです。もう一つ日本は、先の大戦で、民族主義から逸脱した天皇制国粋主義によって、国が滅びる一歩手前まで行った苦い経験があります。これら二つの点で、日本は、中国や韓国に比べて、近代国家の歴史が長く、しかも一度失敗した経験がありますから、建国以来、挫折を知らない韓国、中国とは違います。だから、たとえ人種差別と国粋主義が台頭しても、日本人がそうやすやすと戦前のように暴走したり、お隣の中国と戦争を始めるような馬鹿な真似はしない。わたしはそう思っています。
■これからの日本人
日本は、平和憲法に支えられて、戦後一度も戦争をしませんでした。このため日本人は、世界の人たちから好意をもって見られるようになりました。今後もしもアメリカと組んで、他国と戦争する国になったら、日本人は「アメリカの手先」と見なされて、好意よりも軽蔑を受けるでしょう。せっかく好意を抱かれるようになったのですから、この評価を大事にしなければなりません。ただしこれからの日本人は、ただ好意を抱かれるだけでは不十分です。これからの日本人にとって大切なのは「品位のある気高さ」です。世界の国々から「尊敬される」民になることです。大会社の社員は、その肩書きで恐れられますが尊敬はされません。武力国家を背にして威張る者たちは、怖がられても尊敬はされません。これからの日本人は、アジアを始め世界の国々から「尊敬される」国民になることです。かつてのローマ人も、19世紀のイギリス人も尊敬されました。しかし、ローマもイギリスも広大な植民地支配の上に立つ尊厳であり気高さでした。ところが、現在の日本人が到達した気品は、その正反対で、植民地をことごとく失うところから出発した<平和な気高さ>なのです。これはいまだ人類が体得しえなかった気高さです。<日本人の偉さ>がここにあります。だから韓国や中国が「反日」を掲げても、彼らの挑発に乗せられることなく、毅然として品位を保ち冷静に対処してください。そうすれば尊敬されます。「尊敬」こそ自分の国と民を守る最大の武器であり、最高の防御だからです。
■統一と個別
民族主義は国際化と相互関係にあります。日本の組合は企業単位の組合です。これに対してアメリカの組合は「ユニオン」と言われるとおり、全企業を統一した組合です。 日本企業では、会社と従業員が家族のように一体となって終身雇用と年功序列で、経営者と従業員が話し合いで解決するタイプです。これがかつての高度成長を支えた日本の企業風土でした。
ところがこの日本企業がアメリカへ進出すると、当然アメリカの従業員を相手にします。彼らが組合を結成する場合に、日本的なやり方に合わせて、企業の内部で経営者と従業員が話し合いをするのか、それともアメリカのユニオンに加盟するのかが問題になります。ユニオンに加盟するなら、経営者と話し合うのは、ユニオンの専門家たちですから、企業と従業員との話し合いは許されません。これでは日本の企業風土は破壊されて育ちません。もしもこれを存続させようとするなら、ユニオンが各企業ごとの特徴を尊重して、それぞれの企業と従業員との話し合いを尊重する姿勢に変わらなければなりません。言わばユニオンの統一を「絶対化」しないで、その方針を「相対化」する必要があるのです。
では、ユニオンよりも日本的企業風土のほうがよいのかと言えば、そうとも言えません。現在、この国にブラック企業と呼ばれる経営者が出て来て、社員を奴隷のように働かせる「社畜」経営が広がっています。こういう経営者に対しては企業ごとの話し合いは通用しません。こういう経営者に対してはアメリカ式のユニオンが力を発揮するのです。専門のユニオンの指導者たちが経営者と直接交渉してくれるからです。個別では解決できない問題を全体として統一の力によって解決するのです。経営者が自分の利益を「絶対化」するのを防いで、これを「相対化」してくれるのです。
2014年4月現在で問題になっているのがTPP問題です。これもアメリカが太平洋諸国を統一した経済圏にしようとするところから出ています。ところが日本は、国内で遺伝子組み換えの穀物を用いず、アメリカよりも厳しい農薬の規制で農業を営む傾向が強いのです。値段は少し高いですが、健康に安全な食物を確保することができるからです。牛肉でも野菜でも果物でも、日本国内の生産者の写真入りのよい品質のものを食べることができます。ところが、TPPに加入すると、関税の自由化と統一によって、アメリカの食品が大量に入ってきます。日本の農業はダメージを受けるでしょう。それでも日本政府がTPPに参加しようとするのは、自動車産業などグローバルな企業が政府を後押ししているからです。原発問題もそうです。政府はこれを推し進めようとしていますが、地方は原発に反対です。日本は自国の農業を犠牲にして、自動車や工業製品を統一的に世界に売ろうとしているのです。この政府の姿勢の背景には中国と日本との緊張がありますから、日本はアメリカに逆らうことができないのでしょう。国ごと地域ごとの農業を尊重するためには、TPPの規格統一を絶対化することをせず、これを相対化しなければなりません。しかし、TPPによって、日本の農業がよりいっそう農薬に頼らない自然食品を作り続けることでTPPに対抗することもできます。
それならアメリカから離れて、中国と韓国と日本だけで経済圏を形成すればどうでしょう。今度は中国の支配下に入ることになりますから、中国の権力の絶対化に対抗しなければなりません。それくらいなら、アメリカの方がまだましだというわけです。現在、ウクライナでも、西のヨーロッパにつくか、東のロシアにつくかで揺れています。
■相対化と絶対化
わたしが東アジア・キリスト教圏を唱える時に、このように世界のキリスト教を統一しようとするアメリカのキリスト教界とカトリックの力があります。東アジア・キリスト教圏の構想は、世界のグローバル化と対立する面がありますから、必ずアメリカのキリスト教界とカトリックの反対に遭うでしょう。しかし、もしもアメリカのキリスト教指導者たちが自分たちの統一神学を絶対化することなく、それぞれの地域の歴史と文化と宗教を尊重することで、自分たちを相対化するならば、このような対立は避けられます。ただし、東アジア・キリスト教圏について、かつて日本は「大東亜共栄圏」思想を掲げてアジアを政治的にも宗教的にも統一しようとしました。このために、韓国にもシンガポールにも神社を建てて、日本的宗教を絶対化したのです。これが原因で、今でも靖国問題が日本と周辺諸国の間で尾を引いています。なお、この問題については、このシリーズの「付記」の「東アジアキリスト教圏について」をご覧ください。
このように、全体的統一を絶対化すれば個は育ちません。だから、全体は常に個別によって相対化されなければなりません。逆に個を絶対化すれば統一は生まれません。この謎への答えはイエス様の福音それ自体に含まれています。ナザレのイエス様という一人の人間、相対的な人間存在としての個人、この相対的な個人に絶対的な神の聖霊が宿り、この相対的な個人に普遍性を持つ神の霊性が宿ったこと、これがキリスト教的な神の霊性の特徴であり、その特徴は<自己否定性>にあります。唯一の普遍を主張するカトリック教会の<霊的伝統>も、この逆説、個人に普遍が宿り、相対に絶対が宿るという矛盾にこそキリスト教の霊性の源泉があることを認めなければなりません。だから、人類の歴史を導く神の摂理に従うなら、欧米キリスト教圏のカトリックとプロテスタント双方の神学には、自己の思考様式を相対化して、欧米の思考様式に沿わない異なるキリスト教圏を受け容れる霊的な寛容性が求められるのです。欧米のキリスト教が、東洋的な思考様式、仏教や儒教や日本の西田哲学の思考様式に基づく神学をも認め受け入れなければ、ポスト・ホワイトのキリスト教である東アジア・キリスト教圏の成立を彼らは認めることが出来ないでしょうから。
■御霊にあるエクレシア
東アジア・キリスト教圏構想に潜むこの難問を解く鍵は、イエス・キリストの御霊のお働きにあります。御霊は個人に働くと同時に、個人個人の交わりを通してエクレシアを形成します。エクレシアはイエス様の「一つの」お体ですから統一体です。しかし、どこかのだれかが、これぞイエス様の統一のお体だと主張して、自分の信仰を制度化することで絶対化すれば、それがアメリカであろうと日本であろうと韓国であろうと中国であろうとローマ・カトリックであろうと、その絶対化によってイエス様の御霊の「アンチ(反)キリスト」になります。「アンチ」とは「取って代わる」ことですから、父なる神の御霊のお働きに自分が「取って代わる」ことです。神の知恵の木を<自分のもの>にしようと蛇に騙されたアダムとエヴァは、こうして神に取って代わって自分を絶対化するという誘惑に負けたのです。
エクレシアの伝統とは、歴史を歩むナザレのイエス様の霊性の導きにほかなりません。御復活のイエス様の御霊は常に創造的に働きます。「創造する御霊」とは、個人の場合も統一体の場合も、常に絶対化を避ける自己否定性に支えられていなければなりません。このことを悟り、イエス様の御霊に導かれて三位一体の信仰を継承することこそ、現存する東方教会、カトリック教会、プロテスタント教会にも、東アジアのキリスト教圏にも求められているのです。
■民族とエクレシア
東ドイツが共産党に支配されていた時代に、ドイツ人の民族的アイデンティティーと市民の自由を支える精神的支柱になったのはプロテスタントの教会でした。ライプチヒの教会での祈り会から始まった市民の自由化運動は、全ドイツに広がり、ついにベルリンの壁が崩壊したのです。
同じ頃、ポーランド人のアイデンティティーを守り、市民に自由をもたらしたのは、ワレサを代表とする「連帯」と呼ばれる市民運動でした。ワレサたちの精神的な支柱となったのはポーランドのカトリック教会でした。この動乱の時期にポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位1978年〜2005年)がポーランドを訪れ、民に向かって手を上げて祝福し「イエス・キリストの聖霊の働き」を切に祈っている姿は印象的でした〔2014年ポーランド映画アンジェ・ワイダ監督『ワレサ』〕。
このように聖霊は民族の霊性と矛盾するものではありません。民族の諸宗教を含む霊性をナザレのイエス様の御霊は贖い活かすことができるからです。それどころか、イエス様の御霊にあるエクレシアこそが、過去の民族の霊性を受け継いで、これを未来に活かす唯一の望みなのです。ヨーロッパの各民族の教会は、それぞれの民族のアイデンティティーを保持する唯一の砦として働いてきました。日本では、このように日本人の霊性を支える福音理解は内村鑑三に始まる無教会の伝統に流れています。たとえ今後の日本が、愚かな指導者や権力者たちによって国家として滅びる状態に陥ったとしても、日本人が滅びることはありません。日本人のエクレシアが日本人のアイデンティティーを保持し続けるからです。
天にあって神の右に座するイエス・キリストの聖霊が聖書を通して証ししていることは、旧約聖書が預言していたメシア(キリスト)が、ナザレのイエス様にあって成就したこと。人の子は天から降り、十字架の受難を経て復活し、天に昇り、今は天にあってエクレシアのために執り成しの祈りを捧げておられることです。フィリピ2章6〜9節もヨハネ福音書3章16節もエフェソ4章9〜10節もこの点で一致しています。これが<ナザレのイエス様の霊性>が意味することにほかなりません。
社会問題をいくら論じあっても、ああでもない、こうでもないと、人それぞれが第三者の評論家気取りで、人ごとのように発言を繰り返すだけです。歴史の厳しい風が吹けば、そんな発言は「籾殻のように吹きとばされて」しまいます。それよりも、今日の一日をイエス様の御霊の御臨在に歩む。これです。「たとえ明日世界が滅んでも、私は今日リンゴの木を植える」と言った人がいます。命を創り出す業こそ、イエス様の父の神のみ業です。創造こそ、自己を絶対化する闇の力に対する最大の武器であり、最も効果的な批判なのです。
■永遠のエクレシア
わたしたちは、自分に働く御霊のお働きを決して絶対化しないように留意しなければなりません。ヨハネ福音書でイエス様は「わたしに留まりなさい」と繰り返し注意しておられます。自分で何かを始めよう、自力で頑張ろうとしてはいけない。黙ってイエス様の御霊に委ねる。すると父からイエス様の御名によって遣わされる聖霊(ヨハネ15章26節の「真理の霊」)がなにもかもやってくださいます。このイエス様の御霊に己を明け渡す。どこまで行ってもこれです。エノクは「神と共に歩んだ」とあるのは、このことです。決して自分を絶対化しない。どこまでも、イエス様の御霊にあって「神と共に歩む」のです。「これでもう完璧だ」と、立ち止まって自分を絶対化してはいけません。この歩みの中に「永遠の命」すなわち神から来る「絶対性」が宿っているのです。「統一」と言い「絶対」と言い「全体」と言い「神」と言いますが、その絶対性は自分を絶対化しないでイエス様と共に歩む個人の中に宿るのです。永遠はその時その場の個人に宿る。普遍は個に宿る。絶対は相対に宿るのです。個人に普遍が宿る。個人にイエス様が宿る。これが大事です。すべてを明け渡して無になる。これが大事です。
だからイエス様と共に今日も明日も歩んでいきましょう。それぞれに神が与えてくださった創造の業に励みましょう。「天地は滅んでも、私の言葉は滅びない。」「あなた方は元気を出しなさいよ。わたしはすでにこの世に勝っている。」こうイエス様が言われたのはこの意味です。「天地が滅んでも、滅びない命を歩む」のです。これこそ、イエス様のエクレシアの命です。だからこう祈りましょう。
「アブラハムの神イサクの神、ナザレのイエス様の父なる神様、あなたは人類の歴史を導き終末に平和を成就される神です。どうか今、この国に目を留めて、あなたの御臨在を顕わし、無数のリヴァイヴァルの火を灯してこの民を導いてください。あなたのエクレシアをこの国に広げ、この国の平和を守り、エクレシアを守り育ててください。同時に、韓国と中国のあなたのエクレシアの民と心を一つにして、国家同士、政府同士の争いを防いでください。どうかこの国の平和を守り、アジアの平和をお守りください。」
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