東京集会講話
日本人エクレシアの今後の歩み
2014年11月
■託身と永遠の命
 わたしの信仰は、すでに度々お話しした通りです。かつて地上を歩まれ、復活されて今は天におられ、御臨在の御霊を遣わしてわたしたちと共に居てくださるナザレのイエス様。この方を信じ、祈り、全託することで無にされて、イエス様の霊性である「永遠の命」をわたしたちの生き方に働かせる。この一事です。これがわたしの「キリスト教」のすべてです。わたしは今、こういうキリスト教が日本のあらゆる所に広がるヴィジョンを抱いています。人ではなく、神御自身が現在この国で働いておられる。このことを感じとっているからです。
■二つのブーム
 ところで、イエス様の福音以外に、最近この国でブームになりつつあるもう一つの出来事があります。皆さんは気づいておられるかどうか分かりませんが、現在この国で、ちょっとした「英語ブーム」が起こっています。これは特に大学と小学校の上と下のふたつで、今盛んに英語教育が論じられていて、大学では、英語を学ぶのではなく全部を「英語で」学ぶ授業が行なわれようとしています。文化省は小学校3年生から英語教育を始める案を検討中です。
 キリスト教と英語ブーム、実はこの二つは、終戦直後の日本で流行しました。わたしなどはそのまっただ中にいたわけで、占領軍の意向を受けてアメリカから宣教師が来て布教に努めました。英語というより米語が盛んで、会話がもてはやされました。だから、この時期のキリスト教も米語もアメリカから学び取るためのキリスト教であり米語だったのです。ただし、戦前から培われた日本独自のキリスト教があり、明治からの英学の伝統がありましたから、アメリカ一辺倒のキリスト教や米語ブームだけに陥ることはありませんでした。しかし、終戦直後のキリスト教も米語も、目的は受容のためであったのは確かです。
 ところが最近の英語ブームは、終戦直後のそれとは異なります。現在の大学の英語教育は、グローバリズムに根ざすもので、それはかつての「受容」ではなく、日本人が世界に向けて「発信する」ことを目指すものだからです。受容から発信へ、この変化が終戦直後と現在の英語教育の目標の大きな違いです。
 同じ事がキリスト教でも言えます。今わたしたちが祈り求めるイエス様の福音は、受け容れるためではない。イエス様の御臨在に与ることで、わたしたちが信じているイエス様をいかに人々に向かって発信するか? このためのキリスト教です。コイノニア会が目指すのは、「もらう」キリスト教ではない。自分に与えられたイエス様の御臨在の信仰をとにかく伝えるという自己発信のキリスト教です。主様にある個人としての自己を表すことです。
■根源のイエス様
 皆さんは今まで、カトリックがいいのか? プロテスタントがいいのか? 聖霊派がいいのか? 福音主義がいいのか? 日本のキリスト教か? アメリカのキリスト教か? 韓国のキリスト教か? どれを選びどれを受け容れようかと、このことばかり考えてきませんでしたか。そうではない。今神様がわたしたちにお与えくださっているイエス様の御臨在の福音は、カトリックの人にも、プロテスタントの人にも、聖霊派にも福音主義の人にも、日本人にも韓国人にも、アメリカ人にも中国人にも、東方正教のロシアの人にも堂々と発信することができる、そういうキリスト教です。コイノニア会の福音は「根源的」で、どんなキリスト教の部屋でも入ることができるマスター・キーのようなキリスト教です。わたしたち日本人のエクレシアには、このこと、わたしたちの信じるナザレのイエス様の御霊の御臨在を世界に向けて発信することが今求められているのです。
■左翼か右翼か
 ただし、終戦直後と現在では、キリスト教を取り巻く環境において、大きく異なることが一つあります。それは、終戦直後は左翼運動がきわめて盛んでした。共産党や社会党、日教組などの組合、『朝日新聞』や岩波書店を始めとするメディアなど、政府と権力に対する批判が盛んで、これこそが真の民主主義だと言わんばかりの風潮でした。
 ところが現在のキリスト教を囲む環境は、左翼ではなく、台頭しているのは右翼的な傾向です。赤いインターナショナリズムではなく、黒いナショナリズムです。終戦直後のキリスト教は、左翼と政府の間にあって、どちらにも偏らない中立を保つことが大事でした。それでも左翼的な傾向のキリスト教がはやり、これに対して戦前からの民族的なキリスト教もありました。特に左翼的キリスト教は、60年安保の頃に東京の神学校でも盛んで、このために多くの教会が荒廃しました。
 現在は、左翼に代わって右翼民族主義的な傾向が強まっています。当然これから、右翼的なキリスト教が現われることが予想されます。逆にこれに対立する左翼的なキリスト教が日本的民族主義と対立する。こういう状況が予想されます。しかし、戦後のキリスト教が、ソ連か? アメリカか? ではなく、中道を維持してきたと同じように、コイノニア会のキリスト教は、日本的民族主義にも、逆に中国・韓国の民族主義にも、どちらにも偏ってはなりません。そういう理論武装や路線論争や神学的イデオロギー闘争は、御霊にある個人の霊的な自由を損ない、これを窒息させます。御臨在の御霊のイエス様に祈り、主にある深い交わりにあって、右にも左にも偏らない福音的霊性を保ち続けてください。そうでないと、日本の平和を守り、韓国や中国のエクレシアと手を携えて、国家同士の争いを防いで、アジアの平和を守り抜くことができません。これこそが正しい意味での「日本人のエクレシア」の特長です。
■キリシタン殉教とカトリック
 カトリックは、近年神学的にも霊的にも大きな影響を与えつつあります。これも終戦直後にはなかったことです。わたしがカトリックと言うのは、徳川以来のキリシタンをも含めてのことです。天草の乱を頂点とするキリシタンの殉教は、今も日本人のキリスト教を支える大きな力です。日本人のキリスト教は、あのキリシタンの殉教の歴史を抜きに語ることができません。
 徳川政権がキリシタン禁令を出してから明治のキリスト教解禁まで260年経ちましたから、現在(2014年)までで、380年近く経っています。イエス様の十字架からローマ帝国内でキリスト教が公認されるまで約300年、キリスト教がローマの国教になるまで370年かかっています。神はかつて数多くの日本人のキリスト教徒たちが流した血を決して忘れてはおられません。これからの日本人のキリスト教は、あのキリシタンの殉教者たちの信仰によって支えられるでしょう。
■永遠の命
 わたしは冒頭で、コイノニア会の霊性は「永遠の命」だと申し上げました。イエス様のエクレシアは、時代の波の中を歩まなければなりません。だからこそ、その時その場の時代の波に流されることなく、常にイエス様の御復活の御霊にあって、自分たちに与えられた永遠の命を守り抜き、常に<この視点から>時代を見つめていくことが大事なのです。
 ほんとうの民主主義とは、右か左かというスローガンは政治や宗教の一般論ではありまん。イエス様の御霊の御臨在は、あなたがた一人一人に宿るものであり、この御霊に全託し、すべてをお任せして主様の御臨在の内を歩む。これが、<あなたのイエス様>を様々な人たちに発信する原点です。一人一人がイエス様にあるかけがえのない永遠の霊性を宿していること、このことを悟ることが真の民主主義の根源です。一般論ではない。スローガンや神学論ではない。あなたがた一人一人が祈りによってイエス様と交わり、コイノニア会の霊性を保ち続けること。これが己の人格を見失わない人間として生きる最も大事なことなのです。
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