コイノニア会の霊性と個人伝道
 
          2015年クリスマス集会
■聖餐の聖句
 今年も、コイノニア会のクリスマス聖餐の交わりの時がめぐってきました。最初から最後まで、全員が祈りに参加し、全員が感話を語り、全員がイエス様の聖餐に与る。こんな有り難い、こんなすばらしいことはありません。こういう交わりなら、特別な才能も、特別な霊能も、特別な知識も、特別な場所も、特別な資格も要りません。誰でも、どこでも、いつでも始められます。嬉しいです。では、聖餐の聖句を読みます。
 
そこでイエスは彼らに言われた。
「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。
人の子の肉を食べ、
その血を飲まなければ、
自分の内に命はない。
わたしの肉を食べ
わたしの血を飲む者は
永遠の命を持っている。
わたしはその人を
終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物
わたしの血はまことの飲み物である。
わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は
わたしを宿しており
わたしもその人を宿す。
生ける父がわたしを遣わされて
わたしも父によって生きるように
わたしを食べるその人は、
わたしによって生きる。」
  ヨハネ6章53〜57節〔私訳〕
■永遠の命
 皆さんおなじみのヨハネ6章の御言葉です。ご存知の通り、共観福音書では聖餐の御言葉はイエス様の最後の晩餐の時に語られますが、ヨハネ福音書ではこれがイエス様の伝道活動の中心に来ています。だから、「あなたがた」というのは、共観福音書では十一名あるいは十二弟子のことですが、ヨハネ福音書の場合は、イエス様を受け入れないで批判する人たちの多いユダヤ人たちをも含んでいます。
 「人の子」とあるのは、イエス様がわたしたちと同じ人間として地上に来られたという意味です。ここの「肉」は肉体のことです。あなたがたの中には必ずしもイエス様を受け入れない人たちが多い、そういうあなたがた人間を救うために、イエス様はご自分の身体をお与えになった。これが聖餐のパンの意味です。
 「血」はイエス様の命そのものです。だからイエス様は、わたしたち人間のあるがままの姿となられて、わたしたちにその「からだ」と「命」をお与えくださる。ところが、そのおからだとお命は、わたしたちと同じでありながら、ある意味でわたしたち人間を「超える」性質を具えています。それは、イエス様のおからだと血は「永遠の命」を具えているからです。「自分の内に命はない」とあるとおり、このような永遠を具えるイエス様の「からだと血」は、わたしたち人間には造り出すことはできないものです。それでは、わたしたち自身の生命と無関係かと言えば、そうでもない。イエス様のおからだと血は、わたしたちのそれと同じであって同じでない。こういう不思議な存在です。
 「まこと」とあるのがこれです。「まことの食べ物」とは、今テーブルの上にある聖餐のパンと同じでない。では、そのパンはイエス様のおからだと無関係かと言えば、そうでもない。聖餐のパンはイエス様のおからだを「表わす」からです。では聖餐のパンはイエス様のおからだと同じかと言えば、そうは言えない。聖餐のパンは食べて無くなる物質のパンですが、イエス様のおからだのほうは無くならない。聖餐のパンに対して「まことのパン」なのです。
 「永遠の命を持っている」は現在形です。イエス様の与えてくださるパンとぶどう酒に与る者は、今現にその人に永遠の命が具わっているのです。ヨハネ福音書では、「永遠の命にいたる」という言い方で多くでてきます。今持って「いる」のなら、それで終わりかと言えば、そうではない。今持って「いる」からこそ、その命に「到達する、成就する」ということが起こるのです。だから、「わたしはその人を<終わりの日に>復活させる」と言われるのです。今持っていてもまだ成就していない。それは「終わりの日」に必ず成就するのです。
 では終わりの日はいつ来るのか? それは分からない。そもそもわたしたちは、終わりの日だけでなく、この世を去って神の御もとへ行くと言っても、わたしたちはだれもまだそこへ行ったことがない。行く先は知らされるけれども、そこがどんなところがわたしたちは見たことがないのです。行く先を聴いても、どんなところか分からない旅に出る場合、どうするか?わたしたちを連れて行ってくれるガイドさんが必要です。信用できる案内人に今日一日はおろか、一時間ごとに、さて次はどこで何をするかを教えてもらって初めて未知の地へたどり着くことができます。その日その時をイエス様に委ねて歩む。これが、イエス様が来られたところへわたしたちが導かれるための歩みです。
 人間が猿から別れて約700万年、旧人のホモハビリスの時代になってから、人類は「宗教すること」を始めたようです。亡くなった人を葬るのはもう少し後になってからですが、魔除けの呪いのために体に模様を描いたりする行為は、ホモハビリスの頃から始まったのではないでしょうか?動物の皮をはいで身にまとう行為と魔除けの呪いは結びついています(創世記2章節)。現生人類のホモサピエンスの時代は、これから500万年以上、1000万年くらい続くかもしれません。しかし、現在のホモ・サピエンスの時代には必ず終わりが来ます。イエス様が来られて「たった」2千年ですから、イエス様の啓示は、ホモ・サピエンス時代の最初期に当たると言っても言い過ぎでありません。
 ところが、イエス様の啓示によって、自然体のホモ・サピエンスとは異なる人種、全くと言っていいほど違う人種が、すでに「現在のわたしたちの内に」始まっているのです。これが神のご計画による進化の過程です。「永遠の命」などということを考えたり信じたりする生物が地上に出現したのは、150億年前に宇宙ができて、48億年前に地球が誕生して以来初めてです。わたしたちは、今まで、どこにも存在しなかった人類なのです。神は、人間を創造された時に、人間に「命の息」を吹き込まれた。すると「人間は生きた」とあります。だから「生ける父」とは、動植物を含むわたしたちの身体的な命の父です。大自然の命を創られた命の父の神が、イエス様をお遣わしになってわたしたちを永遠の命に与る存在としてくださったのです。現生人類のホモ・サピエンスが始まるとほぼ同時に、もうそれを超える次の新たな人類の創造が啓示されているのです。
■コイノニア会の命
 「わたしの肉はまことの食べ物」とある「まこと」は、この意味で「永遠になくならない」ことです。だから「まこと」は「霊的な」を意味します。物質的な物に対して「まこと」と言うのです。では、物質的な物は「まこと」とは関係がないのか? そうでもない。物質も「まこと」を表わします。物質で霊的なものが表わされているのです。これ以上説明するとかえって難しい。わたしたちの肉体(身体)は永遠の命ではありません。しかし、わたしたちの身体もそこに宿る永遠の命を「表わす」のです。
 イエス様の肉を食べその血を飲む者は、わたしに留まる/を宿すとあり、続いて「わたしもその人に宿る/留まる」とあります。「わたし(イエス様)にあなたが宿っている」のです。あなたもわたしも御復活のナザレのイエス様の内に宿っている。イエス様のうちにわたしたちがいるのです。
 わたしたちのコイノニア会は、日本でこれ以上ないほど、小さくて、簡単で、自由な交わりです。こんな交わりが今まで続いてきたこと自体が不思議です。誰が来るのかいつ来るのか? この集会は、全く主にお委ねしてきた。御委ねして続いてきたら、何が残るのか? なんにも残らない。わたしもやがて消えてしまう。皆さんも消えてしまう。ところが、同時に、ここが不思議なんですが、イエス様にあると不思議な悦びが湧いてくる。永遠の命、そうです。わたしたちがやって来たこと、今やっていること。それは、一回一回、「いつまでもなくならないこと」をやっていたのです。このことが、御復活のイエス様にあって初めて分かるのです。何も残らないことがはっきり分かれば分かるほど、逆に、このことがはっきり分かるのです。主様に委ねて、主様がやっていてくださる。主様がやってくださるのだから、わたしたちはなんにも残らなくても、わたしたちのやって来たことは永遠に残るのです。すごいですよ。「わたしもその人を宿す」というのは、私市はなんにも残らなくても、私市がわたし(イエス様)に宿っているのだから、わたしは永遠になくならない。こう言っているのです。「天地は過ぎ去っても、わたしの言葉は過ぎ去ることがない」からです。今から300年ほど前、名も知られていない数限りないキリシタンたちが、この上なく恐ろしい拷問に遭って殉教していきました。彼らはなんにも残さなかった。小諸のママさんもそうです。けれども、神様が今日本のエクレシアを支えていてくださるのは、彼らのお陰です。彼らは、今でもわたしの内に生きているのです。
 そうだとすれば、この交わり、こういう集会は続きます。この上なく小さく、この上なく簡素で、この上なく自由なこの交わりは、なくならない。続きます。こういうやりかたなら、いつでも誰でもどこでもやろうと思えばやれます。おそらく、関西でも関東でも、残っていきます。どうしてか、どんなふうにか、分からない。しかし、イエス様がなくならないから残るのです。永遠に残る命なんです。どれだけ著作があるとか、どれだけ人が集まったとか、あれをやった、これをやったといろいろあるけれども、そういうことと、ここで言う「永遠の命」とは、ちょっと違います。イエス様に祈って、イエス様にお委ねして、やってきたことはなくならないのです。それではこれから聖餐を戴きます。
コイノニア会個人伝道への指針
 わたしは、イエス様とその父と聖霊との三位一体の交わりに働く「知恵の御霊」ということを想い続けてきました。「知恵の御霊」は、箴言や知恵の書やシラ書やコヘレトの言葉や第一コリント人への手紙2章に最もよく表われています。旧約時代の知恵は「ホフマー」(ヘブライ語)、あるいは「ソフィア」(ギリシア語)と呼ばれて、その文体の特徴はヘブライ語で言う「マーシャール」(比喩/諺/格言/たとえ)による諭しです。何時の頃からか、わたしもこのスタイルにならって、主様から示されるまま、与えられるままに、格言的規則を自分の信仰生活の指針として、四つあるいは七つの規則にまとめて守るよう心がけてきました。以下にあげるのは、2015年のクリスマス集会の後で、示され与えられるままに記したコイノニア会の個人伝道への有り様です。
【霊性七則】
○献身礼を授かる。
(聖書講話と聖餐と洗礼を授けるために)
○現行のコイノニア・ホームページを指針に。
(様々な批判や意見への答えを含めて、
個人伝道に必要なすべてがこれに含まれています。)
○自己の信仰を貫く。
(霊的に正しい路線と人に支配されないこと)
○霊知(霊的な視点を貫きつつ自然科学の知と相互補完的に)
○霊性(イエス様の霊的人格を最重要視する)
○霊愛(批判を避け、慰め励ます。反論・批判は控える)
○霊能(異言・預言・癒やし・ヴィジョンに限定した霊能)
 
主よ、どうぞ、あなたの御名を心から信じる人たちの所へわたしを導いてください。
*このメッセージは京都のコイノニア会クリスマスのメッセージに加筆したものです。
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