たかが異言、されど異言
横浜聖霊キリスト教会のペンテコステ集会で
(2016年5月15日 )
■私の癌治療体験から
私は昨年(2015年)の11月15日に、ここでメッセージを語り、その後、最後に皆さん全員から按手の祈りを受けた時に、高木さんから「先生は、腎臓が悪いのではないか。癌が肺に転移しているのが見えた」と言われました。翌月の12月に、第二日赤の泌尿科の定期検診で、発がん以来3年後に初めて、肺のレントゲン写真に陰のような物があると告げられたのです。医者は、転移癌の場合は、全身の抗がん剤治療を行なわなければならない、と私に告げました。私は、検診の前後から、たとえどのような事態になっても、現在の執筆と集会を続けることが主の御心にかなうという信仰を与えられていましたから、抗がん剤による治療を受けることを断わったのです。
では、主様から与えられた示しは、抗がん剤もそのほかの医療も一切無視して、ひたすら現在の生活を続けることを意味するのでしょうか? 今日はこの問題から出発したいのです。この時点で、いわゆる神癒に頼る信仰の在り方も可能です。ある人から「あなたは神癒の祈りをしないのか?」と言われましたので、私はこう答えました。「私は昨年の夏期集会で、進化論を採りあげた時に、自然科学と御霊にある信仰とは相互補完的な関係にならなければならないと話しました。医療も自然科学の分野です。だから、<いかなる医療もいっさい拒否する>ということはしません。」日赤の呼吸器内科で、肺の専門医から(抗がん剤の)治療を受けないのなら、それ以上詳しい検診をする必要がないと言われましたが、私はあえて一泊してさらに精密な肺のレントゲンを撮ってもらいました。しかし、レントゲンの白い円形の陰の正体は分かりませんでした。このままでは、肺の癌が拡大してしまうと泌尿器科の若い医者から警告されましたが、私は示された通り、自分の今の生活とその活動を続ける決意をしていたのです。
二度目の肺の検診日の前日のことです、抗がん剤治療に代わる治療法がないものかと考えて、京大の呼吸器内科の教授であった名誉教授の和田洋己医師に相談することを思いついたので、ネットで調べますと、第二日赤の近くで彼がクリニックを開いていることを知りました。そこで、日赤の二度目の検診の後で、日赤の医師に、和田医師に相談するからと告げて、日赤でのレントゲン写真とその他の資料を送付してもらい、今年の3月3日に、和田医師と最初の面談を持つことができました。日赤から送られた肺のレントゲン写真を見た和田医師は、驚いたことに、「私市さん、こんなのほっといたらよろしい」と告げたのです。私はあまりの違いにびっくりしました。その際に、「これを是非読んで欲しい」と言われて和田医師の著作をいただき、併せて4種類の天然のサプリを用いるよう言われました。
『がんに負けないこころとからだのつくりかた』(和田洋己、浜口玲央、長谷川充子著。WIKOM研究所。2015年)は、とても分かりやすく、イラスト入りで癌の性質と広がり方が説明してありました。これを読み、和田医師の講演を聴いて、彼が、これまでの癌細胞の増殖と転移について、従来の遺伝子型細胞の増殖とは異なる「代謝」理論から癌の性質を解釈した上で、がん細胞の増殖を抑えて、これを縮小させる治療法を導き出していることを知ったのです。以来、現在まで2か月以上、天然のサプリによる癌治療を続けていますが、この通り、今までと同じように生活することができています。
■御霊にある原理と実践
ここで私は、自分の癌治療体験を通して、御霊にある信仰の歩み方について改めて考えてみたいと思います。私が主から「従来の生活を続けなさい」という示しを受けたことは、実際にはどういうことを意味するのか、そのほんとうの意味をすぐには知ることができませんでした。ただ、肺への転移を告げられた段階で、祈りのうちに、一歩一歩と導かれて歩む中で、和田医師のクリニックのことを知り、現在受けている治療法に行き着くことができたのです。だからこれは、その都度ごとに主の導きによらないならば与えられなかった結果です。
私のこの証しから、主から御霊にあって示された一般的な「原理原則」と、それを生活の中で<具体的に活かす>歩みとが表裏一体であることに注意してください。主がお与えくださった原理であり原則であれば、これを守らせてくださるのもまた、主のお導きによらなければなりません。主から示されたからという理由で、原理原則を自己流に鵜呑みにして、後は<自力の判断で>事を行なおうとしてならないのです。原理原則が主から示されたのなら、主ご自身が一歩一歩と、わたしたちを導いて、その原理を実現してくださる。これが、御霊にある者の信仰の歩み方です。
原理・原則化するとは、物事を「一般化」することです。物一つ一つ、人一人一人ではなく、全体のこと、全員のこととして普遍化することです。これは大事なことですが、それだけでは事の半分しか成就しません。原理的に一般化すると同時に、それが、個々の物事、個々の人に「その時その場で」適用されなければならないからです。原理に従うだけなら、理性によって判断できますから、祈りは要りません。祈りによって始まったことは、どこまでも祈りによって、霊的信仰的に具体化していかなければなりません。御霊で始めたことは肉によらず御霊で成し遂げる(ガラテヤ3章3節)。このことを悟ることがとても大事です。
■解釈すること
私が体験したように、同じレントゲン写真を見ても、全く異なる判断を下す医師がいます。その判断の結果、全く異なる治療方法が導き出されるのです。その背景にいったい何があるのでしょうか? それは、従来一般に行なわれ、現在も有効とされているがん細胞の増殖理論とは異なる原理によって同じがん細胞を認識するところに生じた違いなのです。すなわち、起こっている出来事をどのように「解釈するのか?」 この解釈が、根本的なところで違っている。これが抗がん剤治療と和田医師の天然サプリ使用の違いとなって現われてくるのです。
癌の性質とこれに関する治療については、実に様々な情報が入り乱れています。従来の抗がん剤治療を擁護する説、逆にこれを批判して、「抗がん剤で医者に殺されない」ように警告する人もいます。あるいは、西洋医学に背を向けて、東洋医学と漢方と「気の持ち方」に頼る治療方法もあります。和田医師の方法は、現在のアメリカの学界で重視されつつある「代謝理論」に基づく方法です。従来の抗がん剤治療に代わる新しいこの治療方法は、従来のがん細胞の増殖説それ自体を根本的なところから「解釈し直す」ことによって、初めて可能になったのです。物事を根源的なところから「解釈し直す」というこの作業が、抗がん剤とは全く異なる別の道を造り出してくれました。だから、ある出来事を解決する方法を変革するためには、その出来事を「どのように解釈するのか?」ここから出発しなければならないのが分かります。
■聖書解釈
ここまで来ると、事は単に癌治療の問題だけでないことが分かります。わたしたちは、あらゆる場合に、常に自分に起こっていることを含めて、物事を「解釈」しなければならない。その解釈の仕方いかんによって、その後の実際の歩み方が全く違ってくるからです。では、「解釈する」とはどういうことなのか?これを説明するのはとても難しい。「物事」と言いましたが、物質的な事柄、言い換えると視覚的・感覚的に認識できる事柄の場合は、そこに働く原理を一般化して理解することは比較的容易です(とは言えけっこう難しいですが)。
ところで皆さんは、毎週ここで聖書の御言葉を聞いたり学んだりしておられる。そうです。皆さんは、毎週聖書の御言葉を「解釈」しているのです。さらに皆さんは、自分で聖書を読んで、御言葉を自分に当てはめて解釈することをやっておられる。しかも、自分を含めて、人間を扱う事柄ですから、人間を含めて「物事」を解釈するにはどうすればいいのかを、聖書解釈を通じて常に訓練されているのです。
イエス様がお出でになるずっと以前から、ユダヤの民が会堂で聖書を学ぶことで行なっていたことがこれです。彼らは、三千年近くも、こうして神の御言葉を通して「出来事を解釈する」訓練を続けてきた。「ユダヤの知恵」はそこから生まれたのです。アメリカで新たな癌治療の方法を考え出した一人に、トマス・セイフリードという医学者がいると和田医師から聞きました。名前から判断すると、この人もユダヤ系のようです。このように、人間を含む物事を、その根源的なところでどのように解釈するのか? これが大事です。
■原理化と御霊の歩み
今お話ししたように、わたしたちは、自分に起こる出来事を自分なりに解釈しなければなりません。これは当然、わたしたちが理性によって、<分別を働かせて>行なうことです。解釈したなら、その解釈に従って行動することになります。ここで、私が先に申し上げたことをもう一度想い出してください。物事を原理・原則で判断したならば、その原理・原則に従って行動する。原理・原則はその人の理性あるいは知性に訴えます。知性はわたしたちの「自己意識」を形成しています。この自意識からでた自己判断には、自分では気がつかない欲望や思いこみによる偏見や他者への恐れなどが働いています。
私は、法則が与えられたら、そこから一歩一歩と<主様の導きに委ねて>歩むことがとても大事だと言いました。わたしたちに起こる「霊の出来事」を解釈する上でも、これはとても大事です。ある人は、霊的な体験をしても、それがなんのことか分かろうともせず、「なんだか怖い」と思って止めてしまう。反対に、自分の霊的な体験を<自分なりに解釈して>、自分には霊能があるんだと思い込んで、霊的な出来事を「ああだ、こうだ」と自己流に一般化し法則化する。これをやると「これこそ唯一の正しい原理だ」と思いこんで行動する霊的に傲慢な原理主義に陥ります。
かく言う私自身も、今まさにその「霊のこと」を解釈して語っています。しかし、こういう一般化した原理、理論化されたり理念化されたり教義化された原理・原則を、そのまま信奉してその通りにやろうとすると、いわゆる教条主義、律法主義に陥ります。原理や理論を学ぶためには、理性の働きが重要であり、聖書を含めて知識が必要です。しかし、学んだ原理や理論や教義を実際に自分の身に「具体的に現実化」するためには、自分の判断や自分の知識によらないで、祈りつつ主様の導きに従うことがとても重要なのです。
一般化された原理原則は、そのまま直接あなたがた個人個人にはあてはまらない。なぜなら、現実の歩みは、「その時その場」のあなたの状態や出来事に左右されるからです。理性や知識や経験による一般的な理念や教義を学ぶことも大事です。けれども、それを自分が具体的な現実に活かすためには、その時その場で一人一人に与えられる<主様の御霊による導き>が必要なのです。自分に与えられた状況の中で、祈りつつ主様に「導かれて歩む」という受動的能動です。医者や教師の教えでも、教会の教義でも、これをそれぞれの「自分」に合わせて実現してくださるお方、これがわたしたち一人一人に与えられている御霊の御臨在のお働きなのです。
■エクレシアと個人
今述べた一般化する原理が、「人間の」集まり、人間の共同体のことになると、一般化はとても難しい。地震の予知は現在でも難しいけれども、経済や政治のことになると、現段階では、予知はほとんど不可能です(株価のことを考えてみてください)。相手が人間の集団である場合、いくら原理化し理論化しても、それではとうてい説明できないからです。「人間の集団」に働く力は、理屈で説明できない性質を含んでいるからです。それが、人間の宗教、言い換えると人間の霊的な問題になると、いっそう難しくなります。だから、人の共同体を形成する働きは、古来、祭りや儀式などの宗教的な行事、「祭儀行為」によって行なわれてきました。日本古来の祭りでも、世界中の祭りでも、そこに働く力を原理化したり理論化したりすることは、現在でも不可能です。人間は宗教する存在、すなわち「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)です。
わたしたち一人一人の場合もそうです。私は、「わたしたち一人一人」と複数と単数を一緒にして言いました。そうなんです。わたしたちは今、人間の共同体、しかも<イエス様の御霊にある>人間の共同体、「エクレシア」を形成しつつあります。そのイエス様の共同体を形成するイエス様の御霊は、一人一人にその時その場で働きかけてくださる。これが、あのペンテコステの日に起こった異言を伴う聖霊のお働きです。
ペンテコステの日に、<全員が一つ想いで(異読から)一緒になっていた>。すると見よ(異読から)! 突然、激しい霊風をもたらすような<響き>が起こって、彼らが座っている<家全体に>満ちた。すると、<彼らそれぞれに>、炎が<分かれた>ような舌が顕われて、彼ら<それぞれの一人一人に>留まった。すると<全員が>聖霊に満たされて、御霊が与えるがままに「わぁ、わぁ」と異言を語り始めた。(使徒言行録2章1〜4節:私訳の直訳)
「全員」と「一人一人」が、みごとに表裏一体となって語られています。ルカ福音書の記述は実に正確です。個人と全員、これが一体となるこの不思議な現象は、何を顕わしているのでしょう。全員が一つになって同じ想いでありながら、しかも一人一人それぞれに分かれた顕われ方をするというこの「個人と共同体」との不思議な関係を原理化して説明することはできません。説明できないのは、それが人間の共同体への働きだからだけでなく、霊的な働きであり、しかも神からイエス様によってもたらされた聖霊のお働きだからです。これこそが、コイノニア(エクレシアの交わり)の霊性です。すなわち主の御霊にあるエクレシアにおける「個人の自由」の働きです。「個人の自由」は、共同体の中にあって初めて生じることが分かります。「個人」は「みんな」と表裏一体です。だから個人の「自由」は「孤独」ではないのです。
このように、個人と共同体とが、表裏一体となっている不思議な宗教共同体は、仏教宗団、儒教宗団、その他の宗団には見受けられません。これこそ、イエス様の御霊にあるエクレシアの大きな特長なのです。
■異言の祭儀性
こういう異言を伴う御霊のお働きは、原理化することができません。それは先に指摘した通り、祭儀性を帯びているからです。理性で理解できる「法則」(ノモス)ではなく、神の「慈愛」から発する「恵み/恩恵」だからです。わたしたち人間は「宗教する人」、ホモ・レリギオースゥスです。だから人類は、それぞれの共同体を維持するために祭りをやるのです。異教とキリスト教を一緒にすると叱られるかもしれませんが、人間の宗教ですから、その祭儀性に変わりありません。異なるのは、祭儀によって保たれるその共同体の<性格>です。祭りの祭儀性によって、個人を抹殺する共同体があります。例は幾らでもありますから、皆さんそれぞれに、その具体例をご判断ください。これに対して、キリスト教のエクレシアの特長は、「個人を活かす共同体」です。キリスト教の祭儀は、この特徴を伝えるものです。洗礼でも聖餐でも典礼でも、その他の祭儀もです。しかし、今私が言いたいのは、「異言の祭儀性」についてです。先ほどの使徒言行録からの引用にあったとおり、全体が一つでありながらそれぞれを活かすというキリスト教共同体の原点となる異言体験です。祭りや祭儀もいろいろ理由づけをしますが、その根源の意味は隠されている。それによるしか伝わらない何かそういう根源的な働きを伝えるのが祭りであり祭儀だからです。異言も意味不明で分からない。しかし、異言には、先ほどのペンテコステの異言体験にあるように「ひびき」(エコー)があります。しかも、それには、「執り成しの響き」があります。「御霊自ら、言いがたいうめきをもって、わたしたちのために<執り成して>くださる」とあるとおりです。執り成しは、大祭司が行う祭儀の最も重要な役目です。異言を語り続けるうちに、異言や霊歌を聴いていると、ふと、バッハのカンタータや、あるいは中性のクリスマスの歌や、修道院で歌い継がれている讃歌に通じる「響き」「こだま」(先ほどの使徒言行録の原語「エコー」)を感じることがあります。キリスト教共同体の根源に迫るものがあります。イエス様の御復活を直に体験したあのペンテコステ・共同体、エクレシアの原初の霊に出会うのです。
■異言は最初の段階
御言葉の教えと御霊、原理と実践、理性と祈り、この二つが両輪となって私たち一人一人の歩みを決めていくのです。私たちは、このことを理解して初めて、正しく「御霊のお働き」を、私たちに与えられた聖霊体験を正しく悟ることができます。第一コリント12章27〜31節を読みます。ここでパウロは、エクレシア全体に共通する「イエス・キリストの御霊にあるからだ」について語っています。しかもそのエクレシア全体の原理・原則は、一人一人に違った賜として授与されると語っていて、聖霊の賜を「格付け」しています。この格付けでは、異言は一番下位になります。このように言うと、異言は一番レベルの低いものだから、ほかの霊の賜に比べて重要性が低い。こう考える人がいるかもしれません。それは違います。「ランク(格)」づけと言いましたけれども、これはむしろ「グレイド(段階)」づけと呼ぶほうがふさわしいでしょう。異言こそが、私たち一人一人が、その時その場でどう振る舞うのか、どう判断し、どう行動するのか、これを主様の御霊にお委ねして歩むための大事な最初の段階だからです。「異言に始まり、御霊の知恵で終わる」のです(エフェソ1章8〜10節)。異言から始まって、わたしたちのイエス様の御霊にある具体的な歩みが始まるのです。異言は、より高い知恵と知識と知性へ到達するための最初の大事な御霊のお働きです。何のための聖霊体験なのか? 何のための異言なのか? どうかこのことを悟ってください。
■国家と個人
エクレシアと個人の問題を扱いましたので、ここで一つどうしても付け加えたいことがあります。それは、日本の国家と個人のことです。もしも、戦前、戦中の日本に起こったように、国粋主義を信奉する政治家と、暴走する軍隊と、これと結びついて軍需産業で利益を図る財閥と、己の地位保全を図る官僚たちと、その上、これに便乗する右翼暴力団が加われば、戦前の日本の闇の5角形(ペンタゴン)ができます。そうなれば、日本人は、もはや国家権力に抵抗することができないでしょう。そんな時代が再び来ないように、今、様々な分野の心ある日本人が、闇の力と闘っています。だから、官僚と政治家と大企業の中に、そればかりか、防衛省や自衛隊の中にも、異言を伴う主の御霊に導かれる人が今ほどこの国に必要な時はない。実はわたしはそう思っています。あらゆる場所に、あらゆる種類の霊的なクリスチャンがいてほしいのです。日本人のエクレシアが力を発揮してほしいのです。
憲法について言えば、日本国民は、国家のために命を捨てて犠牲になることがその義務だと心得る人がいます。逆に、日本国家のほうが、日本人一人一人の命を守ることが義務だと考える人がいます。これによって憲法の意義とその解釈が根本的に違ってきます。たとえ福島の人を犠牲にしても、国家のために原発を稼働させることが当然だと考える大企業の幹部がいるかと思えば、住民の生命を脅かす原発稼働を、企業の利益・不利益と対等に比べることが、そもそも本質的に間違っている。こう判断して、再稼働を認めなかった裁判官がいます。今この国は、原発の解釈をめぐって、根本的なところで対立しています。
目下、自民党による改憲案が進行中ですが、それによると、現在の憲法から「個人」が消えることになりそうです。「個人」が消えて、「人」と「国家」がこれに代われば、やがては、個人の基本的人権である「言論の自由」も「信仰の自由」も制限されるでしょう。小さな教会が大きな教会に統合され、やがて日本キリスト<教団>となり、国家の統制下に置かれることにもなりかねません。そうなれば個人の自由はなくなります。個人の自由のなくなるところに「信仰の自由」は消えます。その結果、教団化した諸教会に、当局の監視の目が及ぶことになるかもしれません。もう「聖霊の自由な働き」などと公に言うことができなくなるかもしれません。パウロは、「異言は集会では語らないで、個人で語りなさい」と言いました。これは異言を一段低く見ているように聞こえますけれども、よく考えるとそうではない。万一、国家が全体化して個人の自由が失われる時には、異言は、あなたが個人として、誰にも聞かれることなく「窃(ひそ)かに語る」信仰の自由の最後の砦になるのです。「たかが異言と言うなかれ、されど異言」です。
集会講話へ