エフェソ書簡の霊性(1)
(2016年11月5日:東京アルカディア私学会館)
■作者と年代と特徴
〔作者〕この書簡が使徒のものでないことを最初に表明したのはE・エヴァンスンです(1792年)。このために、この書簡は「偽書」だと見なされるようになりました。しかし、A・ファン・ローンは、この書簡がパウロによって、同じグループの助けを借りつつ著わされたという結論に達しました(1974年)。これを支持して、パウロを著者とする説が現われました(1974年)。ちなみに、この書簡と比較される第一ペトロの手紙はパウロの同労者シルワノによると見なされています[フランシスコ会訳聖書第一ペトロの手紙解説]。また、この書簡を牧会書簡に含めるカトリックの間では、他の牧会書簡(第一テモテへの手紙/第二テモテへの手紙/テトスへの手紙)は、偽書説と真正説の両方の可能性を認めています[フランシスコ会訳解説]。プロテスタント系では、この書簡はコロサイ人への手紙と同様に「パウロ系」に含まれていますが、著者については、パウロによる真正説と偽書説のどちらも可能だと見ています〔岩波訳『パウロの名による書簡/公同書簡/ヨハネの黙示録』解説〕。
したがって、この書簡をパウロとその同労者たちに帰するのか、それとも使徒時代以後の90年代に帰するのか、現在ではこの両説があります。わたしは、先に、コロサイ人への手紙がパウロとエバフロディトスとの合作ではないか、と指摘しました。今回のエフェソ人への手紙についても、パウロが、おそらくはローマから、ティキコと合作でこの書簡を書き、ティキコを通してエフェソ地域(コロサイとラオディキアなどを含む)の信者たちに送ったと考えています[フランシスコ会訳聖書エフェソ人への手紙解説を参照]。
ティキコは、エフェソを中心とするアジア州の出身で(使徒言行録20章4節)、パウロは彼をコロサイの信徒たちへ派遣しています(コロサイ4章7〜9節)。パウロはその晩年にローマで囚われの身になりますが、その頃、ティキコをエフェソへ派遣しています(第二テモテ4章12節/ただしテトス3章12節も参照)。「エフェソ」とは言うものの、実際はアジア州のコロサイやラオディキアの諸集会をも含むのでしょう。コロサイ4章7〜9節とエフェソ6章21〜22節の両方にティコがでていて、コロサイ4章8節とエフェソ6章22節は、ほぼ同じ表現です(これをコロサイ人への手紙から採り入れた虚構と見る説がある)。しかし、エフェソ人への手紙は、コロサイ人への手紙に遅れて、同じパウロのグループの誰かが、90年頃にローマから(?)エフェソに宛てて書いたという見方もあります。
以上をまとめるとエフェソ人への手紙の作者とこれの執筆時期には、三つの可能性が考えられます。筆者(私市)は(2)の説を採ります。
(1)パウロがエフェソに滞在中(53年頃)、コロサイ人への手紙と同じ頃にティキコと合作でこの書簡をラオディキア、コロサイ、ヒエラポリスの諸集会に送った。
(2)コロサイ人への手紙よりも遅く、パウロの晩年に(62〜63年頃)、ローマからティキコと合作でこの書簡を書き、彼を通してエフェソ地域の諸集会へ送った。
(3)90年代に、パウロ系の誰かが、コロサイ人への手紙をモデルにしてエフェソ人への手紙を(偽書として)著わした。
〔受け手の状況〕この書簡がパウロのローマ滞在中の61〜63年頃だとすれば、信徒の間で、キリスト教とユダヤ教と様々な異教の哲学が混淆し、しかもヘレニズムの都市の不道徳な生活になじむ危険が生じたようです。この書簡は、キリスト教徒に、キリストにあるエクレシアの有り様を説いて、信徒の自覚をうながす目的で著わされたと見ることができます。諸集会の場所はエフェソとその東方に位置するリュコスで、そこは大小の盆地が連なる地帯で、ラオデキアとコロサイとヒエラポリスが、20キロほどの正三角形を形成しています。エフェソ人への手紙は、コロサイ人への手紙をすでに知っている諸教会に宛てられていて、それらの教会で朗読されるために書かれています[フランシスコ会訳エフェソ人への手紙解説]。
〔書簡の内容の特徴〕
この書簡ではエクレシアが方向づけられていますが、それは、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒が一つになるためのパウロ的な「知恵の奥義」(ローマ11章33〜36節)を背景にしています。十字架の贖いによる「義認」の信仰をパウロ神学の核とすれば、エフェソ人への手紙には2章8〜9節にこれの反映を見ることができます。しかし「律法か信仰か」というパウロ的な問題意識は感じられません。またユダヤ人と異邦人との間の敵対意識も存在しないようです。エフェソ人への手紙では、十字架が2章16節にでてきますが、これはコロサイ1章20節に依存しているのでしょう。むしろ、イエス・キリストの復活と高挙と、現在、神の右に座して宇宙と教会を支配するキリストがこの書簡の中心です(1章20〜23節な/2章4〜7節)。ただし、この宇宙的なキリスト論を基礎づけるのは、「真理は<イエスの内に>存在している」(4章21節)ことです。この「イエスにある真理」がキリスト教徒になって以来「聴かされ教えられてきた」とあるのが注目されます。教会論について「キリストのからだ」という考えはパウロから出ていますが、キリストが教会の頭であるとう概念はコロサイ人への手紙によって導入されたもので、これがエフェソ人への手紙においてより明確にされます。
■神の奥義キリスト
7御子においてわたしたちは贖いを得た
その血によって罪過の赦しを得た
ひとえに神の恵みの豊かさによって。
8 この恵みはわたしたちの内にあふれ、
あらゆる知恵と洞察となり、
9神の御心の奥義をわたしたちに知らせた。
キリストにあって予(あらかじ)め定めた
神の摂理に従い
10時満ちてご計画が成就し、
キリストを頭としてあらゆるものを統轄するために
諸天にあるものも地にあるものも
キリストにあってまとめられた。
(1章7〜10節)
〔7節「キリストの血による贖い〕
この書簡でこれから語ることの根本です。このことをしっかりと心に留めてください。この信仰は、すでにパウロ以前の原初の教会において確立していました(ローマ3章25〜26節)。これこそ、この書簡が説くエクレシアの一致の土台です(第一コリント10章16節)。「血」とはキリストの十字架の犠牲のことです。だから、救いの力はわたしたちから出ているのではありません。「(キリストが復活されたのは)来たるべき世世にわたり、恵みの豊かさをキリストにあるわたしたちに顕わすためです。実にあなたがたが信仰によって救われたのは、恵みによるのです。あなたがたから出た(救い)ではなく、<神の賜物>です」(2章7〜8節)とあるのをしっかり心に留めてください。これが、これから語られることの根本です。
〔豊かさ〕
エフェソ人への手紙にしばしばでてきます(1章18節/2章7節/3章8節/同16節)。パウロが「罪の増すところ恵みもさらに増し加わった」(ローマ5章21〜22節)と言っていますが、これがここの「豊かさ」のことです。豊かさが「あふれ出た」とあるのは、恵みが「いや増し加わる」ことです。御霊にある恵みそれ自体が、人間の理解の範囲を超える深さでどこまでも注がれることです。だから、恵みは、どこまでも<探求するために>授与されているのです。霊能による癒しやその他の賜物も確かに知覚できる「恵み」です。しかし、見える霊能的な恵みに留まってはなりません。さらにその先へ恵みは「増し加わる」からです。逆に、霊能の「見える恵み」が現われなくても、恵みそれ自体は、キリストの血の働きによって、主様にある人の内で増し加わり、働き続けることを覚知することが大切です。だから「恵み」とは、それが御霊の働きであることを「知る」ことで初めて、それが「恵み」として自分に働いていることを悟るのです。
「覚知」すると言いましたが、続く「知恵と洞察」は、二つのコンマで挟まれています。語法的に見れば、先のコンマがなければ、「知恵と洞察」は「わたしたち」にかかるから、人間の領域に入ります。しかし、後のコンマがなければ、9節の「知らせる」にかかるから「神がわたしたちに教える」ことになります。御霊がわたしたちに与える「知恵と洞察」は、たとえ神からのものであっても、「知恵」(ソフィア)とか「洞察」(プロノイア)は、啓示の知恵から生活の知恵まで、神と人間のどちらの領域をも含みます。
〔9節神の御心の奥義〕
ここは難しいけれども大事なところです。「奥義」は隠されていた神の御心のことで、「秘義」あるいは「神秘」とは、不思議で理解できないことです。パウロは、キリストの福音がイスラエルの民から異邦人の救いへ向かうことが「測りがたい神秘」であると言っています(ローマ11章33〜36節)。これは、神のご計画が人間には悟りがたいことを意味するイスラエルの伝統的な「奥義/秘義」のことです。ところが今回、この「神からの奥義/神秘」が人に「知らされた」とあります。「知らされた」のは8節の「知恵と洞察」を通じてですから、この秘義は、御霊にある人が悟ることのできる奥義であり神秘でしょう。とりわけ今回は、「諸時代(アイオーン)と諸世代の前には隠されていたが、今や聖徒に啓示された神(あるいはキリストの)奥義」という意味です(コロサイ1章26〜28節/同2章3節)。しかもこの神秘が「異邦の諸民族にも」知らされたことが重要なのです。
その「奥義」がどのようなものかが9節の後半から10節前半に顕われます。 実はこれが驚くべきことなのです。イエス・キリストの血による贖いの業は、世の初めから神の奥義として定められていたことだからです。それが、人類の長い歴史において、それぞれの時代、それぞれの場所での人間の悟りに応じて、徐々に預言され啓示されることで「開示されてきた」というのです。そして、今「時満ちて」、この奥義は人類にはっきりと啓示された。こう10節は告げているのです。
「神の摂理」と訳した箇所は、文字通りには「神が嘉(よ)しとするみ心」“the mystery of his will, according to his good pleasure”〔NRSV〕です。これ、神の「意志」であり「喜び」のことですが、内容的に見れば、神は創世記の初めの天地創造を観て「嘉(よ)しとされた」へさかのぼります。だから、キリストの贖いの摂理は、人類のあらゆる世世の「諸時代(アイオーン)」を貫いていて、そこには神の創造の喜びが働いているのです。
「神の<ご計画(オイコドモス)>」の「ご計画」とは、家の管理から都市や社会の管理運営を表わす用語です。今回は、全世界、特に人間世界を導く神のご計画全体を指します。「キリストによる血の贖い」は、神が人類の歴史を導いてきた意図と目的であって、その目的が「神の時満ちて」わたしたちに「知らされた」(9節)のです。だから、「前もって定めた神のみ心」による「神のご計画/摂理」が、イエス様の出来事において「成就した/完成した」のです。
パウロは、「律法の下にある時が今や(キリストにあって)成就された」と言います(ガラテヤ4章4節)。エフェソ人への手紙は、神によってあらかじめ定められていたもろもろの時代が、「時満ちて成就する」のです。ここでは、「天地創造」という空間的な宇宙観と、「時が満ちる」という時間的で終末的な宇宙観がひとつになっています。「時空一如」です。「イエス・キリストの出来事」は、神の永遠からの計画であった「救い」の出来事であり、神のご計画のの成就なのです。ここで言うのは、人類の歩みである「諸々のアイオーン」が、ただ並列的に連なるのではありません。そうではなく、それぞれのアイオーンは神の創造のみ手とそのご計画の中にあって「創造的に」つながりながら、最後の終末の成就と完成へいたるのです。これが「時満ちる」ことです。神のご計画による歴史は、神の目的が達成されるその過程において、様々な時期に「啓示の出来事」として奥義が啓示されてきたのです。
このように見てくると、エフェソ2章10節に「わたしたちは神の作品であり、それはイエス・キリストにある善い業を歩むために、神が予(あらかじ)め備えてくださったことである」とあるのは、キリストの御霊と「共に歩む」わたしたちの「善い業」が、「前もって備えられていた」ことが啓示されることです。しかもその「善い業」とは、空間的な領域と時間的な経過とを伴うことによって、新たな世界(時空)の中で新たな価値観として啓(ひら)かれてくることを意味します。神はこのように、未来に向けて新たな啓示を与えてくださることを約束しておられるのです。わたしたちが「神の作品」になることは、実は、世界の初めから隠されていたわたしたちの「有り様」が、キリストにある神の創造の御業によって啓示され、そこに新たな創造の業が形成されていくことなのです。
〔10節統轄する〕
最後に残るのが 「統轄する」(アナケファライオーサスタイ)です。これは、「アナケファライオー(まとめる)」の中動相「アナケファライオーマイ」のアオリスト不定詞で、「自分自身の内においてまとめる(統轄する)ために」となります。10節末尾の「彼にあって」は、「キリストにあって」と「神にあって」の両方の解釈が可能ですが、その前の「万物をキリストにあって」と「(天にあるもの地にあるものを)キリストにあって」は並行すると解するほうが適切でしょう。したがって、「アナケファライオーサスタイ」とは、「神ご自身が自ら」万物を「キリストにあって統括する/まとめる」ことです。「アナケファライオー」は、名詞の「ケファライオン」(要点/まとめ)から派生した語であって、直接には「ケファレー」(頭)から出たものではありません。この語の意味は基本的に「要点をまとめる」ことです。ここでの「まとめる」「総括する/統合する」が表わす内容について、およそ次のように類別することができます。
(1)この語は、過去の事柄を取りあげるという時間的な側面だけでなく、それまで分かれていた諸分野を秩序づけて統合するという空間的な側面をも併せ持つ。
(2)神が、万物をキリストにあって和解させたとあるコロサイ1章20節の思想に比べる時、エフェソ人への手紙においても、それまで罪によって引き裂かれていた万物が、キリストにあってひとつにされるという「和解」の思想を読み取ることができる。しかし、ここでの強調点は、「和解」よりもむしろ「総括/統轄」のほうに置かれている。
(3)エフェソ人への手紙では、キリストが万物を「統合する」力となるだけでなく、これらを「服従させる」ことで、ひとつに「まとめる」ことをも指す。だから、「頭としてのキリスト」の意味をも聴き取らなければならない〔シュナケンブルク同上60頁〕。
(4)エフェソ人への手紙では、「体」は一貫して教会を表わし、しかも作者は、この意味の「キリストの体」を宇宙的な広がりへ拡大させている。だからキリストは、教会という体を通して万物の支配を実現しようとしている(1章22〜23節)。したがって、キリストは現在もなお、この目的の実現に向けて、「教会の頭」としてこの世の諸力と闘わなければならない。
(5)この語をこの世に働く「悪の力」との関連で見ると、全被造物は、神とキリストの愛と見守りの内にあるとは言え、それらがキリストにあって「服従せしめられる」以上、神の恵みの「外にある」諸勢力も、不承不承キリストの支配下に入ることになろう。この場合の「統轄」は「悪の敗北」を意味することになる。
(6)この動詞がアオリスト形であることから、単なる未来を表わすよりも、「すでに現在化しつつ」ある未来を指している。キリストは「すでに」支配権を握っている。終末においては、この支配権が、新天新地として完成された姿で成就するが、「統合する」というこの動詞は、そこへ到達するための過程をもこれに含めている。
(7)7番目として、この語の用語についてのエイレナイオスの解釈に触れておきます。彼によれば、この語は、神が、新しいアダム(人)の初穂であるキリストにおいて、キリストの受肉を通して、人間が失った不滅性を再び回復させること、またこれによって、新しい人間性の始まりとすることである。キリストの復活は、キリストがすべてを統轄し、天と地を支配する新しい未来が開始されたことを意味する。
これに伴って、悪の力もまた、キリストにあってこれまでの邪悪のすべてが<まとめられて>、キリストにあって裁かれ、地獄の火炎で滅びるべく定められた。ヨハネ黙示録の666と言う数字は、邪悪の力が<まとめられた数字>にほかならない」〔エイレナイオス『異端論駁』X巻29章2〕とあります。
以上のように、エイレナイオスによれば、「アナケファライオーサスタイ」は、古いアダムを再構成することですが、同時にこれが新たな再創造へと結びつくところに注意しなければなりません。古い人間の肉性をも含めて、これを再構成することによって、これに新たな実質を与え、そうすることによって、塵から集められたものに新たな霊性を与えることなのです。人間の肉性は、その類比において、新たな霊性へと再構成され再創造されるのです。
ナザレのイエス様の復活によって与えられる御霊の御臨在、この御臨在に包まれ、この御臨在に導かれるところで、「わたし」という存在が古い自分から新しい「わたし」へと創造されていく。こうして生まれた一人一人の「わたしたち」、ここに御霊にある交わりが生まれます。これが神のエクレシア(教会/集会)です。このエクレシアを囲む人間社会。その人間社会を包む地球という自然環境、この地球が存在する広大な宇宙、これらを貫くのが天地の主であるキリストです(エフェソ1章10節)。ここには、現代の科学から抜け落ちている、あるいは忘れ去られている、自然環境への新しい認識、宇宙への新しい知の在り方があります。そこから「霊的な観点」が見えてくるのです。霊知に基づく自然学、人文学、宇宙学が見えてくるのです。事は人類の何百万年の歩みにかかわるだけでなく、宇宙創造の原初からの宇宙と人類の存在理由(目的)そのものにかかわることです〔詳しくはコイノニア会ホームページの「生命の進化と宗教する人」を参照〕。なお、1章10節は、そのまま20〜23節へつながりますから、ぜひここをも参照してください。
集会講話へ