2017年クリスマス講話
御霊にある一致の聖餐
コイノニア京都集会
 悪いことは一時(いっとき)に起こることを、イギリスの諺で「降れば、土砂降り」と言います。今年のコイノニア会は、まさに「降れば土砂降り」でした。1月に赤松さんが入院し、6月に野田さんの離婚と再婚問題が浮上し、夏期集会では柴田さんが離脱することになり、10月には、わたしの出版した『ヨハネ福音書講話と注釈』に誤りが多く、目下、正誤表を作製中です。そして、11月には、中島さんが京都と東京のコイノニア会を去るという事件が起こりました。出来事はどのようにでも解釈できますが、わたしは、これら一連の出来事をわたし自身に対する主様から警告だと受けとめています。どこがどう悪い、という問題ではない。問われているのは、このわたしの「宗教する人」自身です。だから、改めて、宗教するこの「わたし」という存在そのものを主様の贖いの十字架によって根底から赦していただいて、その恩寵にあって無欲無心にされて、無私の心で歩むこと。このことを教えられました。
 コイノニア会は、過去にも分裂を幾たびか繰り返してきました。欠けているのは、福音の知識ではありません。欠けているのコイノニアのメンバー相互の「赦しと愛」の心です。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したちょうどそのように、あなたがたも互い愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。これは、ユダの裏切りが起こった直後に、主様が弟子たちに与えた戒めです。主にある「兄弟姉妹」を御霊の御臨在にあって愛することは、人の力の及ぶことではなく、神からしか生まれません(第一ヨハネ4章19〜21節)。しかも、このような愛がなければ、個人個人が自由である交わりが、一つにまとまることができません。これはとても難しい問題です。だから、多くの宗派や教団では、規則を設け、牧師を立て、会堂を建てて、集会を規制し、メンバーの自由を制限して、規則に従わない者は厳しく排除するのです。これが教会を形成するための適切なやり方です。
 ミニ教会の分裂とメガ教会の排除規制の強化、この二つの相反する方針の狭間に、地上のイエス様のエクレシアは置かれています(マタイ18章15〜20節)〔カトリック典礼(2017年9月10日号)〕。方や「自由と分裂」、方や「統一と規制」。双方に欠けているのが、赦しと愛の心です。このことを指摘しているのがシラ書27章30〜28章7節です〔カトリック典礼(2017年9月17日号)〕。「御霊にある自由と御霊にある一致」この双方を結ぶことは人間にはできません。十字架のイエス様の贖いの愛より降る御霊のお働きのみです。
 しかし、わたしは、今まで規制を選ぶやり方を採りませんでした。メンバー一人一人の御霊にある自由を大事にすること。これを第一にしているからです。難しくても、失敗しても、幾度でも繰り返して、この歩み続けます。これがほんとうのエクレシアの在り方だからです。けれども、ほんとうのエクレシアは終末まで実現しません。ヨハネ黙示録にあるように、七つの教会に潜む欠陥は、終末の小羊の婚宴の時に初めて完成されるからです(ヨハネ黙示録19章6〜8節)。それまで、わたしたちは、地上のエクレシアにありながら、<終末へ向かう追求>を続けるのです。
 わたしたちコイノニア会には、御霊にある自由があります。しかし、御霊にある一致が欠けています。この一致を象徴するのが、これから行なう聖餐です。主様の肉を噛みしめ、主様の血を自らの内に宿すことで、主様につながり、そうすることで主様の「赦しの愛」に与る典礼です。わたしたちが一致するための唯一の典礼は、これだけです。だから、この典礼を大事にしましょう。そうすれば、日本の諺にあるとおり「雨降って地固まる」という事態が生じるでしょう。(2017年12月16日:京都私学会館)
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