コイノニア会での出来事
2017年10月28日
■はじめに
今回は、共観福音書からではなく、前回Iさんからいただいたご批判に対して答えたいと思います。と言っても、これから語ることは、弁明でも釈明でもなく、まして反論ではありません。わたしの懺悔であり告白です。今、コイノニア会は、ちょうど嵐のガリラヤ湖を渡る弟子たちの船のように、波風に揺れています。しかも、イエス様のお姿が一向に見えない有様です。主様はちゃんとおられるのだけれども、わたしたちには見えないのです。でも、今に必ずお姿を顕わしてくださるのは間違いありません。
■「付いて来れない」発言
夏期集会では、時間が足りなくて、用意した全文をお聞かせできませんでした。改めてここで、読ませていただきます。〔ローマ人への手紙の精神(4)の「まえがき」と「あとがき」から読む〕このように、キリスト教のエクレシアは、仏教でも神道でも天理教でも、他宗教を裁いてはならないという意味で、これからの日本人のエクレシアの将来に向けてのことに関してです。だから、<このことに>付いて来れない人は、<今現在は>付いて来なくても一向にかまわないという意味です。「付いて来れなければ立ち去れ」、という意味ではなく、反対に「付いて来れない人は、そのままでも一向にかまわない」という主旨です。これは、日本人のエクレシアだけでなく、韓国や中国のエクレシアも視野に入れての発言です。舌足らずであったことをお詫びします。
■夏期集会での聖餐のこと
夏期集会での聖餐については、理由が二つありました。一つは、コイノニア会がヴァーチュアル参加という形を採り始めたことです。これはとても大切なことで、今後ますます活用されることを期待します。これに伴って、少なくとも年に一度は、「ほんものの」交わり(コイノニア)を実現することが大事だと判断したのです。ほんらいは<一つのパンを裂き、一つの杯から飲む>のが聖餐です。だから、全員が集まり、時間と空間を実際に共有するほんものの聖餐を持ちたい。こう考えたからです。もう一つは、この夏から、私は講話を辞めて、メンバーの人たちによる講話という形式を採りたいと考えたからです。これだと私は、聖餐だけを担当することができます。実際は、事、志と違って、両方やることになってしまいましたが。「付いて来れない」発言と言い、聖餐の事と言い、これらのことを改めて説明し確認する機会が与えられたことを感謝します。
■わたしの「王権~授」について
これには次の七点があります。
(1)コイノニア会の信仰は、イエス・キリストが、王権神授」よりもはるかに大きい「宇宙の支配者」であり、その権能は「神から授かった」ことを信じる信仰です。しかも人間ナザレのイエス様が、神の御子であることを信じて、メンバー一人一人に、イエス様を通じて授与される神の恩寵によって、「神からの出来事」が実現し、成就することです。
(2)しかし、わたしであれ、誰であれ、自分の信仰をメンバーの人に「押しつける」ことが決してあってはなりません。個人それぞれに向けられたイエス様の導きを洞察して、その人に助言をすることと、信仰を強制することとは正反対です。「してほしいことをする」ことと「してほしくないことをしてはならない」こと、この二つの黄金律を区別するのは、時として難しいです。その個人に主様が何を望んでおられるのか?これを的確に洞察できなければ、信仰の仲間に対して適切な助言をすることができません。
(3)幸いなことに、信仰と希望と愛の三つだけは、個人に決して押しつけることができないという特長があります。
(4)押しつけか、そうでないかは、メンバー一人一人が自分の想いを自由に発言できるかどうかで決まりますから、幸いなことに、これはいつでも各自が、今この場で検証し体験することができます。コイノニア会は、長年これをやって来ました。
(5)
(イ)ここで生じている事は、特定の人の発言がどうこうではなく、発言が引き起こした「言葉現象」あるいは「言葉事象」です。言葉現象も「出来事」です。今回の場合は、とりわけ「神のみ業」に関わる出来事ですから、それだけ注意し読み解かなければなりません。
(ロ)出来事は、様々に解釈できます。自分も含めて、人それぞれの視点と解釈があります。
(ハ)それだから、これを自分の力で読み解くのではなく、主様の御霊のお働きを祈り求めることから始めなければなりません。そこから、その人にとって最も適切な視点と視野が示され、「正しい」方向付けができるからです。
(ニ)言葉現象も出来事ですから、語った人と語られた人という特定の人から、ひとまず独立した出来事として扱う必要があります。ですから、批判する側もされる側も、誰でも、その立場/役割が、出来事を巡って交換されうるのです。裁く人、裁かれる人、誰でもがだれでもになる可能性があります。
(6)エクレシアには、常に「強い者」と「弱い者」がいますから、相互に赦し合う心がけが不可欠です。イエス様にある霊性が深まるほどに、他人の霊性の欠陥が見えてきます。すると、「強い人」は「弱い人」をあなどり、「弱い人」は「強い人」を批判する傾向を帯びるようになりがちです。イエス様の十字架にある霊性の深まりは、イエス様による罪の赦しを深く悟ることで、人を赦すほうに向かわなければなりません。このために、互いに、他の人の霊性の欠陥をも赦す心が必要になります。これが欠けると、裁き合いに陥り、交わりが損なわれるのです。コイノニア会のように、個人と個人がイエス様との結びつきで霊性を深める場合、その交わりが分裂し分解する危険を帯びるのはこのためです。赦しによる忍耐と寛容の霊性が、その分解を食い止めて、イエス様の御霊にある赦しの紐帯で結ばれるためには、一人一人に、深い罪の自覚と他者への思い遣りと赦しの霊性が求められます。コイノニア会に限らず、エクレシアには、必ず「強い人」と「弱い人」がいますから、「強い人」が「弱い人」を裁いてはならないのです。だから、ここは東洋の戒めに従って、「してほしくないことはしない」ようにしましょう。ローマ14章1〜4節を読みます。コイノニア会のような交わりは、絶えず分裂の危険をはらんでいます。だから、これを防ぐために、信条を作り、信徒が集まり、牧師を立て、教会堂を建てて、教会を制度化して、教団を形成する方法が必要になるのです。御霊にある「自由と分裂」か、それとも「統一と規制」か、教会は、常にこの残念な組み合わせの中にあります。だから、コイノニア会のような自由な交わりと既成の諸教会、主宗団とは、分離することなく、相互補完的に助け合わなければなりません。
(7)コイノニア会の霊性にはある種の「厳しさ」があります。それは、話し合い、語り合いの中で、互いの霊性が深まるにつれて、それぞれの自己は、自分の心に潜む欠陥や罪性が、ごまかしのきかないところまで、御霊にあって示されることです。人はしばしば、御霊に示され、自己の有り様の隠れたところに潜む欠陥に直面させられる場合に、主様の恩寵を通じて悔い改め、新たな段階に達することを避けて、その欠陥から目をそらして逃げ出したり、その場から離れようとします。これでは、せっかく自己の変容が可能なところへ来たのに、見す見すその機会を取り逃がすことになります。そういう時には、どうか思い切って、イエス様の御霊の働きに応じて、自分をさらけ出してください。そうすれば、立ち直るチャンスが、必ず啓けます(詩編51篇3〜7節「神よ慈しみによって以下」/同11〜12節/同19〜21節[フランシスコ会訳])。
人の驕りにはお金と権力が付きものですが、日本のクリスチャンは、お金と権力からは比較的自由です。ところが、人を奢らせるものがもう一つあります。それは「知識」です。第一コリント8章1節/同11〜12節を読みます。特に日本のクリスチャンは、この「知識の驕り」に弱いです。実は今、わたしが今度出版した『ヨハネ福音書講話と注釈』に、聖書からの引照箇所の数字の誤りを含めて、誤植やミスが多数見つかりました。このため、来年改訂版を出して、改めてお届けすることに決めました。だから、知識への驕りどころか、わたしの「出版の誇り」は、恥ずかしいやら悲しいやらで、木っ端みじんです。聖書の注釈というような仕事は、ほんらい自分の力の及ばないことで、これをやるのは、赦されているからで、主様の憐れみと恩寵の賜物です。このことを忘れたから、今回の出版の出来事も、わたしの出版への驕りに対する懲らしめだと受けとめています。
■一連の出来事
今年の初め、Aさんは、わたしの家に手土産を買おうとして不慮の病に襲われました。5月には、Nさんが離婚と再婚の問題で、コイノニア会から離れました。これも昨年のコイノニア会の夏期集会での出会いが直接の原因です。さらに、10月には、今年の夏期集会がきっかけで、Sさんがコイノニア会を去りました。今、Bさんが、コイノニア会に疑義を呈しています。この秋、出版したわたしの著作にも、多数のミスが見つかり、目下、正誤表を作製中で、来年には改訂版を出す予定です。これら一連の出来事は、わたしの不徳のいたすところで、わたしのコイノニア会への思い入れが、主様の御霊にある御栄光を求めることから、はずれて、ご指摘の通り、自己追求の罪に陥り、その誇りと過信への裁きを受けていることを証しするものでしょう。出来事は様々な解釈を呼びますが、わたしはこのように受けとめます。こういう時には、もう一度原点に戻って、自分の罪の赦しとイエス様の御霊のご臨在を仰がなければなりません。今ここで起こっている出来事は、わたし自身がその元凶になっています。「自己の罪の赦しの周辺に顕われる主様の御霊の御臨在」、これだけが、わたしに許される唯一の「誇り」です(第一コリント1章30〜31節/ガラテヤ6章14節)。
思えば、昨年2016年の夏期集会では、土曜の夜にはIさんが司会をし、日曜の聖書集会では、Kさんが司会をしました。そこにはAさんも、Nさんも、Sさんもいました。あの夏期集会は、わたしにとって生涯忘れることのできない楽しい時でした。今、もう一度原点に戻って、己の罪を悔い改めて、主様の十字架の贖いの御業によって罪赦され、新たな御霊のご臨在を仰がなければならないと思っています。
■祈り
だから、こう祈ります。主よ、あなたはすべての出来事を支配し、出来事を通じてお語りになる神です。今、コイノニア会に起こっている出来事は、ことごとく、このわたしを断罪しています。御復活のナザレのイエス様、どうか、この「わたしという罪」をお赦しください。あなたの御霊のご臨在によって、この<わたしという罪>を通じて、あなたの十字架の赦しの恩寵を顕わしてください。人間の罪を逆転するあなたの十字架の恩寵こそ、わたしたちを救い、永遠の命を得させてくださる愛と赦しと平安と喜びの源泉です。あなたの十字架の恩寵をわたしたちに成就してください。どうぞ、<あなたの>コイノニア会を立ち直らせてください。あなたは砕けた心を決してお見捨てになりません。アーメン。
■今後のこと
最後に一言、こんな罪のわたしでも、今、不思議な主様の力に支えられています。コイノニア会も、こんな状態にあっても、なお不思議な支えの力が働いてくださっています。今までもそうでした。これからもそうでしょう。これが、イエス・キリストの絶対恩寵です。「敗北のまっただ中の勝利」"Victory in the midst of defeat" です。わたしたちが、どんなにダメ人間でも、その罪を上回る恵みの力で支え活かし強めてくださる。これが、イエス様がわたしたちに教えてくださっているほんものの神です。仏教がどうの、神道がどうの、カトリックがどうの、などという次元の問題ではないのです。イエス様の神は全人類の神なのです。ヘレニズムの理論的な議論もヘブライの宗教的な律法も、罪性を宿す人間同士が平和に暮らして行くために大事です。けれども、いくら理論を闘わせても、律法で縛っても、ほんとうの心の交わりは生まれてきません。人と人の間にほんとうの「和」をもたらす「コイノニア」は、ナザレのイエス様の贖いの十字架と御復活のイエス・キリストを通じて働いてくださる神からの聖霊の絶対恩寵、人間の罪性を逆転させる恩寵によるほかに道がありません。御霊の恩寵の場を共にしている間は、人と人との間に平和が作り出されていきます。
ひょっとすると、今コイノニア会が揺さぶられているように、近い将来、日本のエクレシアが、そして、エクレシアの場である日本が、これよりも、もっと厳しい状態に置かれる時が来るかもしれません。そういう時のために、どうか、今ここで起こっていることを覚えておいてください。
コイノニア会は、今から必ず立ち直ります。わたしは今しばらくこの世に留まり、主様の導きに従って、コイノニア会が新たに再生するのを見届けたいと思いますが、わたしの時代はもう終わったので、できるだけ早く手を引きたいと願っています。これからは、あなたがたのコイノニア会の時代が始まります。どうか、主様のこのすごい恩寵の御栄光と御臨在を顕わすことができるように祈り求めてください。ではここで、昨年の夏期集会で歌った聖歌396番「十字架の陰に」を改めて賛美しましょう。
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