諸宗教と福音的霊能
エフェソの霊能騒動から
横浜聖霊キリスト教会(2017年11月12日)
■宗教する人
 パウロが、ローマ1章16節で「ユダヤ人を始めギリシア人にも、信じる者すべて」とか、「人間のすべての不信心と不義」と言う時、彼はどのような「人/人間」のことを考えていたのでしょうか? パウロはこの書簡をコリントで書いていたと考えられます。コリントの町には、ギリシア人は言うまでもなく、ユダヤやローマやアジアやエジプトから来た人など、ローマ帝国内のあらゆる種類の人たちが集まっていて、彼らは、経済活動に余念がありませんでした。けれどもパウロは、これらの人たちを「経済する人」として見ているのではありません。政治的身分で区別される「政治する人」としてでもありません。彼は、「神」あるいは「神々」との関わりにおいて「人間」(ラテン語「ホモ」)を見ているのです。唯一神を信じる人も信じない人も、神々を敬う人も無神論の人もいますが、パウロが言う「すべての人(アントロポス)」とは、<神との関わりにおける>人間全体の有り様のことです。「経済する人」や「政治する人」や「言語を語る人」など、人間(ホモ)には様々な性質が具わっていますが、何らかの意味で「カミ/神/神々」とかかわる人間の有り様をわたしは「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)という人類学/宗教学的な用語で呼んでいます。無神論者でも、宗教など要らないと言う科学者でも、「神など要らない信じない」というその言葉こそ、そう言う自分を信じようとしている存在であることを自ら証ししています。人はだれでも「何かを信じる」存在だからです。金の力を信奉する「拝金者」もいれば、権力にとりつかれて「神を侮(あなど)る者」もいます。しかし、人間は、自分が属する共同体を「信頼しなければ」、三度の食事はもとより片時も生きていけない存在です。「信頼」こそ宗教心の始まりですから、無神論者でも何らかの意味で「宗教する信じる人」であることに変わりありません。だからパウロは、イエス様に啓示されて、「神からの義」に照らされる時に見えてくるあらゆる人たちを「宗教する人」として観ているのです。
■ヘレニズム世界の「宗教する人」
 では、パウロは、自分が観ている「宗教する人」をどのように観ているのでしょうか?「神の義」の顕われであるイエス様の御臨在に照らし出されて初めて、パウロは、目の前に広がる「宗教する人類」の実相を洞察することができました。イエス様の福音に映し出される時に見えたのは、「人間の不信心と不義」が蔓延(まんえん)する様相でした(ローマ1章18〜23節)。ヘレニズム世界の様々な神々を信じる人々の間に潜む悪意と、そこで行なわれている熾烈(しれつ)な競争と、「恥ずかしい欲望に身を任せる」人々の醜い姿でした(ローマ1章24〜32節)。それだけでなく、聖書の神を信じていると誇るユダヤ人/ユダヤ教徒さえも、その実態は聖書の教えとはほど遠く、聖書を誇りながら実際は聖書に背く偽善を行ない、このために聖書の神は、「彼らのせいで、諸国民の間で蔑(さげす)まれ汚されている」(同2章24節)有様です。偉そうに聖書を説いて「人を裁く」これらのユダヤ人たちにパウロは言います。あなたたちは、他人を裁きながら自分も同じことをしているのだと(同2章1節)。イエス様の光に照らされる時に、「宗教する人」としての人間の有り様が、彼らの行なう「宗教」の実態と共に、初めてパウロに見えたのです。 パウロが「すべての人に具わる不信心と不義」(ローマ1章18節)と言う時、一方では不信心な人がいて、もう一方ではそうでない人がいるという意味ではありません。そうではなく、すべての人は、神とのかかわりから見れば、その宗教的な実態をも含めて、何らかの意味で「不信心と不義」のそしりを免れないのです。世界中に今も信じられているありとあらゆる「宗教」にもかかわらず、と言うより、まさにその「宗教」の違いを理由として、人々は憎み合い殺し合っているのが実態です。だから、ローマ1章18節の「すべての人の不義」は、ローマ3章10節の「義人は一人としていない」という聖書からの引用に対応します。「宗教する人」が行なう「宗教」は、「神の怒り」の前に事実上破綻している。パウロはこのように言うのです。
 ここで、「宗教する人」の「宗教」とは、今述べたように、争い憎み合う人同士に具わる「信念」のことだけではありません。現在、わたしたちの周囲には、様々な霊能宗教が渦巻いています。霊媒や占いや拝み屋による病気癒やしから、古代中国の陰陽五行説に基づく自然保護宗教団体、科学的神智主義、神道とも仏教ともキリスト教とも見分けのつかないほど混交した霊能体験を誇る教祖・教団まであります。日本のことだけではありません。アジアはもとより、アメリカにも、ヨーロッパにも、ハルマゲドンからハリー・ポッターにいたる様々な宗教性を帯びたアニメが子供と若い人たちの人気を集めています。ありとあらゆる種類のこれらの「宗教する人」に対峙して、わたしたちはイエス・キリストの福音を語らなければならないのです。こういう複雑な霊的状態は、パウロが見ているヘレニズム世界と対応するところがあります。
 パウロは、高度なモーセ律法を保有するユダヤ教とイエス・キリストの御霊の働きとを対比させてから、続いて、これと並行して、ヘレニズムの「神々」の世界に働いている「もろもろの霊」をも引き合いに出して、これら両方を重ね合わせて、「自由を得させるキリストの御霊」と対比させます(ガラテヤ4章1〜7節と同8〜11節)。ヘレニズムの異教とユダヤ教の一神教とが混交した形態の「宗教」は、「天使礼拝」として、すでにエフェソとその周辺のアジア州に広まっていました(コロサイ2章16〜19節)。パウロは、これらすべての「宗教する人たち」の営みを自分が伝えようとするイエス様の聖霊の働きと対照させるのです。パウロの願いは、今は復活してキリスト(救い主)とされたあのナザレのイエスの霊性がわたしたち一人一人の内に働いて、<イエス様の霊性>を宿すことだからです(ガラテヤ4章19節)。
■エフェソの出来事
 では、使徒言行録19章11〜40節を開いてください。これから、この部分を採りあげます。エフェソでは、小さなユダヤ教の会堂を囲むように、アナトリアの古い母~クババやギリシアのアルテミス女神やアポロン~(太陽神)、その他いろいろな御利益をもたらす霊能宗教がありました(使徒言行録19章11〜20節)。
 エフェソの劇場前を南北に通じる大理石通りを南へ下ると立派なセルススの図書館に出ます、そこからL字型にクレテス通りが東へ延びています。その図書館はパウロの頃はまだ存在していませんが、そのすぐ側に、おそらくはパウロも通ったであろうユダヤ人の会堂がありました。ユダヤ人の会堂とその敷地は、現在の都市の児童公園ほどの広さでしょうか。
 しかし会堂とその敷地は、ユダヤ人にとってパレスチナと同じ「聖地」であって、敷地内での偶像礼拝はいっさい認められませんでした。しかし、一歩会堂の敷地から出ると、そこは様々な宗教の混在する異教の地だったのです。ユダヤ人は、このように、聖地と異教の地を判然と区別することで、周囲の異教世界と唯一神教のユダヤ教との間に、平和と均衡を維持していました。外の異教世界から、ユダヤ教の唯一神教の教えに惹かれて礼拝に参加する異邦人も毎年何人かいたでしょう。彼らの中から、ユダヤ教に改宗して割礼を受けモーセ律法を守る人たちが出ましたが、これら「改宗者」たちはユダヤ人と平等に扱われました。
 会堂の外の世界では、エジプトのイシス女神やユダヤ教と混淆した天使礼拝やイオニアの哲学が盛んに行なわれていました。何よりも、エフェソ市街の東には、世界の七不思議と言われる壮麗なアルテミス神殿が、その美しい姿を池の水面に映していました。このような異邦人世界の中で、ユダヤ人は、異邦世界からも次第に尊敬を集めるようになり、社会的に成功する人たちも多く、アジア州のユダヤ人は比較的上層の階級に属していたと思われます。現在遺るエフェソの劇場の観客席には、中央の比較的下段にある最上位の人たちの座席からそれほど離れていない上座の席に「神を敬うユダヤ人の席」と刻まれています。
 ところが、パウロたち一行は、イエス・キリストの御前にあって、唯一神教のユダヤ人も女神たちを信じる異邦人をも全く対等に扱いましたから、それまで判然と区別されていたユダヤ教の会堂と周囲の異教世界の垣根が一挙に取り払われてしまうことになったのです。驚いたのはユダヤ人だけでありません。周囲の異邦世界もびっくりした。パウロたちは、イエス・キリストの御名によってしるしと不思議を行ない、様々な霊能を発揮しました(使徒言行録19章11〜12節)。これがパウロたちが行なった「霊能」が意味することで、「福音の霊能」の正確を知る上でとても重要ですからここで確認しておいてください。すると、ユダヤ教の会堂の中でも、イエス・キリストの名前で霊能活動をする人たちが現われましたから(同13節)、パウロのイエス・キリストの霊能、ユダヤ人による一神教の霊能、ヘレニズムの神々の霊能、ユダヤ教と神々の混淆した霊能、占星術、魔術、占い、火と空気と水と地からなる四元素論を唱えたエンペドクレスの哲学など、種々雑多な霊能的宗教現象が、パウロとエフェソのユダヤ人会堂を中心に広がり始めたのです。こうして、パウロたちの霊能の働きによって、キリスト教は、いわばユダヤ教や異教世界のあらゆる宗教ともつながりながら、渦を巻くようにエフェソの人々をとらえていきます。こういう霊能現象のお陰で、主イエスの名前が大いに宣伝され、崇められましたが、ユダヤ人も異邦人もユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒も、それぞれに、いったいどんなイエスを信じていたのか、これがはっきりしないことになります。とにかく、主イエスの御名のほかには何にも要らないとばかり、集会の人々は、いろいろな宗教本を集めて焼き払い始めたのです(使徒言行録19章18〜19節)。
 これにショックを受けたのは、会堂のユダヤ教の指導者たちだけではなかった。それよりも、アルテミス神殿の模型や大小様々のアルテミス女神の像を作って、世界中から訪れる観光客に売っていた聖像製作者たちまでが、パウロたちの新宗教に脅威を覚えて、パウロたち一行のガイオとアリスタルコをとらえて、劇場で彼らをリンチにかけて殺そうとしたのです。これを知ったパウロは、劇場へ飛び込もうとしますが、知り合いのエフェソの行政官たちのおかげで、騒動を起こした人たちは法廷で訴えるよう指示を出してもらって、何とか騒動を収(おさ)めました(使徒言行録19章21〜40節)。お陰で、パウロ自身も、エフェソ郊外の丘の上に立つ牢獄でしばらく拘束されることになります(53年の夏頃か)。このエフェソの出来事から、わたしたちは何を学ぶべきでしょうか。
■霊能宗教と福音
 福音とはイエス・キリストの「出来事」です。出来事にはいろいろな形態がありますが、これの解釈もまた多種多様です。福音の教義や原理は、一般化して論理的に語ることができますが、イエス・キリストの御霊にある出来事は、人それぞれが「その時その場」で体験することですから、同じようでありながら、それぞれに異なります。エフェソでは、様々な形態と内容を含む霊能現象が現われていました。「イエスの名が大いに崇められた」(使徒言行録19章17節)とありますが、どんなイエスをどういう宗教的な意味で崇めていたのか、これが人によって実に様々だったのです。
 イエス・キリストの御霊は、「裁く/判断する」働きと、同時に、まさにその裁きを通じて、「赦して贖う/解放する」という<逆転する恩寵>として働きます。「裁き」の背後には律法があります。「救い」の背後にはイエス様の十字架の血と体があります。パウロが「福音の真理」(ガラテヤ2章14節)と呼んでいるのは、まさにこの事態であり、そこから発するイエス・キリストの聖霊の働きのことです(ガラテヤ2章14節/同3章1〜2節)。だから、パウロは、聖霊の働きに伴う様々な霊能現象を、「裁きと罪の赦し」が不可分一体となった聖霊の出来事だと見ているのです(ローマ1章17〜18節は並行します)。パウロは「もし自らを裁くなら、裁かれることがありません。主によって裁かれることで、わたしたちは成長するからです。それは、この世と共に断罪されないためなのです」(ローマ11章32節)と言うのです。だからこそパウロは、自分たちを通じて「異邦人の間で」起こった福音の力と不思議の業の出来事が、ただただ神による逆転の恩寵にほかならないことを強調するのです。異邦人をイエスの御名へ導いて、ついに焚書にまでいたらせた使徒パウロのものすごい霊性と霊能は、彼のこのような信仰から発していたのです。それは、「宗教する人間」の罪を裁き、裁くと同時に贖い赦すことで、人を活かすイエス様の御霊のお働きにほかなりません。これを悟ることこそ、最大の霊能です。これこそ、エフェソでパウロたち一行を通じて起こったものすごい霊能現象の真相です。
 だからパウロにとって、自己の才能や自分に授与された霊能を、かりそめにも「誇りに思う」ことがあってはならないのです。キリストの出来事が自分を通じて生起したのは、自己の功績とは何の関わりもないどころか、逆に罪人として裁かれるまさにその自分を通じて働かれるイエス・キリストにある神の絶対恩寵だということ、この神秘こそ、彼が知ることができる唯一の「誇り」なのです。自己の言動によって生起した出来事が、<神が働いておられる>「しるし」となることこそ、彼の誇りの根拠なのです。なぜなら、そのような霊能は、<復活したキリスト御自身が働かれた出来事>であることを証しするからです。「恥は我がもの、栄光は主のもの」です。「パウロの伝道の成果を自己の業績だと見るのは人を誇ることです。そうではなく、パウロに起こった出来事とは、神の意志に従順なキリストの御業にほかならないのです」〔Cranfield. Romans. (2)757〕。
 このこと、「パウロという出来事」が、小さな自分に生じた大きなこと、しかもただただ「神の働き」であると悟ることによって初めて、自分に生じた出来事が、「神の救済史的な」広がりを持つという視野が開かれてくるのです。だから、わたしたちも、自分たちに生じているイエス・キリストの御霊の働き、不思議としるしを伴う御霊の働きを、人類史的、世界史的な視野の下にある神の御子キリストの出来事として理解しなければなりません。「エルサレムからイリリコンまでキリストの福音が満たされた」(ローマ15章19節)とあるのは、それがパウロの業ではなく、パウロをもその一人として含む、イエス・キリストの御霊の働き、キリストのエクレシア全体を通じて働く、神御自身の業にほかならないのです〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(3)173頁〕。私が、東アジア・キリスト教圏の成立を唱えるのは、こういう視野に立つからです。
 だから、御霊の働きを受けているわたしたちが、今心に刻むべき事はただ一つです。「以前、あなたたちは神から離れ、悪い行ないによって心で神に敵対していた。今は(神が)、キリストの死によってその肉の体を通じて和解してくださった。あなたたちを聖なる無垢で無傷な者として御前に立たせてくださるために。だから、この土台に立って固く信仰に踏みとどまり、聴き従った福音の希望から離れることなく、天下のあらゆる被造物に告知された希望を抱いていなさい」(コロサイ1章21〜23節)。  
■宗教的寛容と霊能
 先に、パウロたちの霊能が、ユダヤ人とギリシア人との垣根を撤廃する特徴を具えていたことを指摘しました。エフェソの出来事から学ぶべきもう一つのことは、使徒言行録19章17〜19節です。ルカは、パウロの福音的な霊能が異教の魔術的霊能に大打撃を与えたことを言おうとしているのは確かです。しかし、ルカが伝える「この出来事」は、キリスト教会が伝統的に行なってきたような「異教排除」の教義では処理できない複雑な現実を透視させてくれます。
 使徒言行録19章17節以下は11〜16節と密接に結びついていますから、この焚書事件は、これに先立つ「イエスの御名」の乱用あるいは誤用とも関係しています。パウロを通じて現わされた霊能は、「イエスの御名」が、ユダヤの会堂内に留まらず、外部の異教世界でも共通に働くことを人々に証ししました。そこで彼の目覚ましい霊能に刺激されて、会堂のユダヤ人たちだけでなく、エフェソの魔術師や占い師たちまでもが、「イエスの名前」を呪文として用いることで、その霊験にあやかろうとしたようです(使徒言行録8章12〜18節/同16章16〜19節を参照)。ところが、彼らの「悪霊追い出し」は、なかなかうまくいかないどころか、逆に悪霊に襲われて逆効果になる場合が生じたことをスケワの出来事が表わしています。
 パウロとその一行が行なう霊能と、ユダヤ教を含むそれまでエフェソの諸宗教による霊能の働きとの差異が明らかになるにつれて、入信したクリスチャンたちが、クリスチャンの集会の中で、実は自分も魔術や占いに頼っていたことを告白しだしたのです。集会が度々行なわれるうちに、クリスチャンたちの中から、所蔵する魔術本や占い本を持ち出してきて、集会の集まりの中で焼き始めました。すると、我も我もと、かなりの信者が同じことを始めた。焚書は、古今東西どこでも行なわれ、中国では、秦の始皇帝による儒教本の焚書が有名で、近くは、中国の紅衛兵による焚書があります。焚書には「粛正」の意味もこめられていますから、それ自体、宗教的な危険性を帯びています。後にエジプトのアレクサンドリアでは、キリスト教徒による図書館(当時のあらゆる分野の巻物10万巻を蔵していたと伝えらています)の焼き討ちという痛ましい事件が起こりました(400年頃)。ただし、今回の焚書は、権力者の命令で強制的に行なわれたものではなく、どこまでも自発的な行為であったことが重要です。
 この出来事は、クリスチャンの集会内で生じたことだけでなく、エフェソの宗教界に流布していた魔術や占い全体に影響を及ぼしたと考えられます〔Pervo. Acts. 480〕。そうでなければ、銀細工職人たちが危機感を募らせるはずがありません。これは、パウロが、ユダヤ人と異邦人との区別を撤廃して、エフェソの宗教界全体をひとまとめに「イエスの御名」の下に置いていた当然の結果です。ここで注意したいのは、パウロたちが、エフェソの人たちの魔術や占いを厳しく弾劾した様子がないことです。パウロたちの宣教が、<イエスの御名による救い>に重点が置かれていたからです。だから、クリスチャンの中でさえ、洗礼を受けた後もなお、魔術や占いを捨ててはいなかったのです。パウロたちが、異教への弾劾を旗印に掲げることをせず、どこまでも、唯一の神の御子イエスの御名によって<十字架の贖いによる罪の赦し>だけを伝えたことは、彼の異邦人への説教からもうかがうことができます(第一コリント2章1〜2節/使徒言行録13章26〜41節/同14章8〜18節/同17章22〜32節を参照)。こういう状態ですから、エフェソの人たちには、パウロが伝える福音と唯一神教を説くそれまでのユダヤ教との区別がつかなかったようです。彼らにしてみれば、イエスの御名は、「人の手で作った神(神々)ではない」神から与えられていて、とにかくものすごい霊的な力を発揮するとしか理解できなかったようです。
 このように、焚書事件は、イエスの御名による「救いの力」(ローマ1章16節)が、ユダヤ教を含むあらゆる宗教を上回ることを、教会の内外の人たちに印象づけたました。それも、異教徒の宗教を直接批判攻撃することなく、ただ、イエスの御名による贖いの赦しこそ、真の福音的霊能をもたらすことを証ししたのです。パウロたちを通じて現わされたこの<福音的霊能>は、四福音書が証しするナザレのイエスの霊性とその目覚ましい力を継承しているのは言うまでもありません。ユダヤ人とギリシア人の垣根だけでなく、ユダヤ教と異教徒の相互批判、相互対立という宗教的な垣根をも撤廃する福音的霊能の働きをここで確認しておいてください。
 イエスの御名を通じて降る聖霊の働きは、このように、それまでの「宗教する人」が営んできたあらゆる既成の諸宗教に対して平等に働きかけて、その不完全性を暴く(裁く)と同時に、ありとあらゆる宗教する人たち一人一人をそれぞれの場において、そのあるがままで赦して贖い、ついには、イエスの御名へと自発的に服従させる霊性であり、そのための霊能であることを知ってほしいのです。ヨハネ4章のイエスとサマリアの女との会話は、異教の人を救う「ユダヤの神」(同4章22節)のこのような「寛恕と恩赦」(ローマ3章26節)を証ししているのです。
 パウロの宣教は、異なる宗教、異なる霊性の持ち主に向かい、その霊性を頭ごなしに否定したり、彼らを排除したりはしませんでした。「あなたがたの寛容(広い思いやり/温厚)をあらゆる人に示しなさい。主は近いからです」(私訳フィリピ4章5節)とあるとおりです。むしろパウロは、自分に与えられた罪の赦しの福音を深く自覚しつつ、「私はだれからも自由であるが、自(みずか)ら進んであらゆる人に仕える者となった。少しでも多くの人を、救い入れるためである」(私訳第一コリント9章19節)ことを志したのです。「あらゆる人に対してあらゆる者となり、あらゆる手で救おうとした」(私訳第一コリント9章22節)からです。ここで大事なのは、パウロのこのような霊性から生じた福音こそ、もろもろの宗教をイエスの御名へ導く真の意味での「正しい霊能」の力を発揮することです。
■現代のキリスト教界への提言
 現代のキリスト教会は、「聖書の中に知識と真理が具体的に表わされていると信じて、闇にいる者たちへの光、愚かな者への導きだと自負して、人に教えることばかりを考える」(ローマ2章19〜20節)という過ちを犯してはいませんか。神道を悪霊だと言い、仏教を軽蔑し、異教のもろもろの宗教を裁きながら、自分たちも同じことをしてはいませんか(同2章1節)。キリスト教を宣教する人たちにお尋ねしたい。「神道は悪霊」だ。そう言えば、神社にお参りする人が、かつてパウロの霊能によって目覚めさせられた異教の人たちのように、クリスチャンになると思いますか?祇園祭は悪魔の業だ。こう言えば、京都の人は悔い改めてクリスチャンになるとお思いか?そんなことを宣教をしたり、神社の壁に油を撒いて相手を侮辱しながら、日本人のクリスチャンは1%にすぎないなどと批判するキリスト教とは、いったいなんでしょうか?韓国のクリスチャンが、日本の仏教や神道を悪霊とか悪魔呼ばわりするなら、日本人と韓国人との間に平和が訪れるかどうか、考えてみてください。2016年5月27日に、オバマ大統領が広島を訪問した際に、日本側は、アメリカの最も恐れていたこと、原爆投下に対する謝罪をいっさい求めませんでした。広島はアメリカの大統領を暖かく迎えたのです。このために大統領は、広島の地から全世界に向かって核の禁止を呼びかけることができました。マザー・テレサは、ヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒の区別なく、誰でも無条件に受け容れて介護しました。
 もしもパウロが現代のキリスト教会の有様を目にしたら、「すべての人間の不信心と不義」の中に、現代世界のキリスト教のこういう実態をも含めないでしょうか? 誤解しないでいただきたいのですが、わたしは、このコイノニア会を含めて、東方正教会やカトリック教会やプロテスタント諸派の存在理由を否定しているのではありません。イエス様の御霊は、あらゆる民のあらゆる「宗教する人」の霊性に潜む欠陥に対して、平等で公正な裁きとなることを指摘しているのです。その上で、裁きと表裏一体となって、イエス様からの贖いの赦しが働いて、不義にまみれた「人間の宗教」でも、あえてこれを支え、これを変容させ、新たに復活させることで、人類の過去からのもろもろの宗教的霊性の良い面を活かしてくださる。この意味で、人類のこれまでの諸宗教は、神から律法を与えられていたユダヤ教と同様に、イエス・キリストの御霊にある福音へ通じる「子育て役」の働きをしていたことが分かるのです(ガラテヤ3章23〜25節)。このように説き、このように信じる教えをキリスト教会だけでなく、教会の外に居る人たちにも語り伝えてほしいのです。福音は、キリスト教界であろうとその他の諸宗教であろうと、その欠陥、その不完全性を平等に暴き(裁き)ます。平等に裁くのは平等に赦されるためです。こういう宣教に接して初めて、イエス様の十字架という「神の義」の真意が、キリスト教以外の人たちにも分かってもらえるのではないでしょうか。現生人類の「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)が、罪にまみれている現実を理解せずに、独りよがりな「宗教」をふりかざし、自分勝手な優越感と思いこみから、「人間の不義によって神の義の真理を阻む」(ローマ1章18節)結果になってはならないのです。
 実に尊ぶべきは、イエス様の十字架を通して発する神の絶大な赦しの力です。十字架から発して、人類のいかなる罪をも贖い解き放ち、宗教する人の相互に潜むもろもろの隔ての壁を取り除き、エクレシアの一致へと導く力こそ、人の罪をも逆転させる主様の十字架の恩寵の働きです。あらゆる霊能をも超える十字架の霊能、ここにエクレシアの一致も福音伝道の真の威力も発揮されます。福音宣教、聖霊にある一致と聖霊にある自由がひとつになるエクレシアの交わりの、いかなる宗教をも超える絶大な霊能、この三つが一つになる結び目には、イエス様の十字架が発する恩寵の働きがあるのです。だからわたしたちは「おらせたまへ、この身を、主よ、十字架の陰にとこしえまで」(聖歌396番)と歌いましょう。以上のことは、パウロ系書簡の次の一句に要約されています。
「すべての聖徒のうちで最も小さいこのわたしにも、異邦人にキリストの無尽蔵の富を福音する恩寵が与えられた。それは、万物を創造した神によって世世隠されていた神秘な御計画を福音が照らし出すためであり、今、福音が、神の多種多様な知恵となって、エクレシアを通じて、天(あま)が下(した)の支配者や権力者たちに知らされるためである」(私訳エフェソ3章8〜10節)。
 だから、わたしたちは、エクレシアに外の人たちに向かって、こう告げましょう。
「わたしたちは、天地・宇宙の創り主である神の御子イエス・キリストの御名によって、キリスト教徒を含む人類のあらゆる宗教する人の罪が赦され、御名によって、万人が贖われて宇宙の万象が和解させられと信じる者です。だから、どのような宗教を信じる人とも、その宗教性のゆえに相手を批判したり、非難したりすることをしません。」
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