十字架の霊能
横浜聖霊キリスト教会
(2018年11月11日)
■ローマ11章25〜36節
(1)
兄弟たちよ、これから述べる秘義を
あなたがたと分かち合いたい
自分たちが賢いとうぬぼれないために。
(2)
イスラエルの一部に頑迷が生じたのは
諸民族に救いの成就が来るまでのこと
こうして全イスラエルが救われる。
次のように書いてある。
「救う者がシオンから来て、
ヤコブから不信心を取り除く。
これが、彼らとわたしとの契約である
わたしが、彼らの罪を取り除く時の。」
(3)
ひとつには福音によってあなたがたのせいで敵とされ
ひとつには選びによって先祖のお陰で愛される。
なぜなら神の賜物と招きは取り消されないもの。
(4)
なぜならかつてあなたがたは神に不従順であり、
今は彼らの不従順によって憐れみを受けるように、
同じく、今は彼らもあなたがたの受ける憐れみのゆえに不従順でも
彼ら自身も憐れみを受けるようになるからである。
(5)
こうして神はすべての者を不従順の中へ閉じ込めた
すべての者を憐れむためである。
(6)
ああ、神の富と知恵と知識の奥深さよ。
だれが、神の定めを究め尽くし、
神の道を理解し尽くせようか。
「いったいだれが主の智慧を悟るのか?
だれが主の相談相手になるのか?
だれがまず主に与えて、
その報いを勝ち得るのか?」
(7)
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かう。
栄光、永遠に神にあれ、アーメン。
■イスラエルの民
ここは、今年のコイノニアの夏期集会でとりあげましたが、聖書全体でも取り分け難しいと言われる箇所です。イスラエルの民は、今も昔も、変わることなく、一貫して、人類における最も高度な「宗教する人」です。「宗教する人」に具わる善と悪の両面を彼らほどみごとに体現している民族はいません。ユダヤ人の宗教こそ、人類のもろもろの宗教が到達できなかったほどの最高度の霊性を保持しているからです。しかしながら、最高度に宗教する人でありながら、彼らの宗教的な偉大さは、その宗教的能力や霊能からくるものでは<なかった>のです。そうではなく、荒れ野でモーセ律法を通じ神が彼らに与えた「啓示に基づく」ものだった。残念ながらイスラエルは、「このこと」を忘れたのです。宗教する人が立つのも倒れるのも、自分に具わる宗教性ではなく、彼を支える神御自身にかかっていることを彼らは忘れていた。これが、霊能を与えられた「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)の陥りやすい罪なのです。
■不従順と憐れみ
第四部の15〜20行では、「不従順」が4回、「憐れみ」が4回繰り返されています。15〜18行で、アブラハムを先祖とするユダヤ人には、神への従順の時代に続いて、イエス・キリストの福音を拒むという不従順の時代が訪れます。ところが、ユダヤ人の不従順を契機にして、今度は異邦人のほうに、神の憐れみによる従順の時代が訪れます。ローマ11章15節にあるとおり、ユダヤ人が捨てられることが、神と異邦人との和解につながり、異邦人が神に受け入れられて、死者から復活するのですから、ユダヤ人は、異邦人にとって、まさに「犠牲の小羊であるキリスト」になります。この意味で言えば、十字架のイエス様は、やはり「ユダヤ人」です。
続く後半は、「同じく、今はユダヤ人も、あなたがたの受ける憐れみのゆえに不従順でも、彼ら自身も憐れみを受けるようになる」ですが、これには、<あなたがたの受ける憐れみのゆえに>のかかり方をめぐって、もう一つの読み方があります。「同じく、今は彼らが不従順でも、<あなたがたの受ける憐れみのゆえに>、彼ら自身も憐れみを受けるようになる」という読みです〔Cranfield. Romans. (2)585〕。これだと、歴史はさらに反転して、今度は、ユダヤ人には、長い不従順の時代に続く憐れみの時が訪れますが、なんと、それが、異邦人への憐れみを契機にして、ユダヤ人への憐れみの時が訪れると言うのです〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(2)363頁〕。
このように見ると、「宗教する人」の最高位にあったユダヤ人が、神の憐れみからはずされて罪人となり、代わって、罪人であった異邦の諸民族が、神の憐れみによって救われ、その同じ神の憐れみが、今度はユダヤ人をも救いに導くのです。だから、「罪人の義認こそ救済史の法則」〔ヴィルケンス前掲書369頁〕なのです。宗教する人類すべては、高度な宗教する人から低次の宗教する人にいたるまで、全く同様に「罪人」であり、同じように、神の憐れみを受けることで初めて、救われるのです。十字架こそ霊能の源なのです。
■「宗教する人」の罪と救い
第五部(19〜20行目)へ入ります。宗教する人としてのキリスト教徒は、救われて優位に立つ者ですが、仏教徒や神道やその他の宗教する人は、いまだに低次の存在である。だから、1%のクリスチャンしかいない日本人にイエス様を宣べ伝えて、異教徒日本を悔い改めに導かなければならない。このように主張するキリスト教の指導者がいます。もしもそうなら、今聴いたパウロの言葉をもう一度噛みしめるべきです。
「宗教する人」としての人類は、カトリックのキリスト教徒も、プロテスタントのキリスト教徒も、仏教徒も、儒教徒も、ヒンズー教徒も、イスラム教徒も、神道も、全く同じに「神の憐れみを必要とする」罪人です。宗教する人は、何教の信者であれ、自分が偉いと思い上がるなら、まさにそのゆえに、神の憐れみからはずされて、罪人へ転落します。この点で、クリスチャンも例外でありません。新約聖書、とりわけパウロ系書簡では、「選民」意識という誤りとうぬぼれに対して厳しい警告が発せられているのです。「今後こそは自分たちが神からの契約の後継者となるのだ」という傲慢から来る過ちに西欧のキリスト教は気づいていない。ドイツの哲学者ハイデガーは、こう指摘しています。
だから、わたしたちが、イエス様の十字架の福音を伝えるとすれば、それは、自分が憐れみを受けた罪人だからであり、この意味で、他の宗教の人たちも、自分と全く同じ憐れみを必要とする人間だからです。この「憐れみの御業」は、神の恩寵だけが実現できる創造の出来事です。わたしたち宗教する人が、自力でやろうとして、やれることではありません。福音を伝えるとは、どこまでいっても、「赦されて、人の演じる主の御業」です。日本人だけでなく、アメリカ人も、韓国人も、中国人も、このことを肝に銘じるべきです。微妙で説明の難しいところですが、ここで「ゆるす」というのは、自他共にその罪を「許す」ことではありません。罪と悪に対して闘わないキリスト教は、「塩気のない塩」と同じで、踏みつけられるだけです。そうではなく、相手を理解するためには、相手を愛することが不可欠です。相手を愛するためには、相手を「赦す」ことが必要です。ここでは、「罪を憎んで人を憎まず」という諺がそのまま当てはまります。「宗教する人」
にとって、最も大事で、最も欠けているのがこれなのです。
パウロが告げる「秘義」は、宗教する人をして、「その賢さによって神に取って代わろう」と仕向けるものではありません。「自己の賢さの限界を知って神に従う」ように仕向けるものです。イエス様の福音は、賢さを誇る「宗教する人」から、頭を垂れる「宗教する人」へ人間を変容させます。「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」です。神に取って代わろうとする自分の性(さが)を悔い改めて、神に従う宗教する人へ進化するために秘義が啓示されたのです。パウロが言う「神は憐れむために人間を不従順の内に閉じ込める」ことについて、これから三つの点を指摘したいと思います。
■まことの霊能
イエス様を通して啓示された秘義とはなんでしょうか? パウロ系書簡は、その秘義が「神の御子イエス・キリストの十字架の贖い」に発することを伝えています。ヨハネ福音書が言う「人の世の罪を担い取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)です。これの働きは、わたしたち人類をも含む宇宙規模の広がりを帯びています。
わたしたちには、唯一の神、父がおられ、
万物はここから発し、わたしたちはこの方へ向かう。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、
万物はこの方により、わたしたちもこの主によって存在する。
(第一コリント8章6節)
わたしたちは、ここに、宗教する人類を導く神の深い秘義を読み取るだけでなく、そこに驚くべき神の恩寵の働きとして、ものすごい霊能の力を感じとることができます。その秘義の深さと、神の御臨在の霊能の力は、わたしたちの不信仰も罪も、すべてを克服する力です。まさに、赦しの絶対恩寵から注がれる「十字架の霊能」です。様々な形態の諸宗教を信じる宗教する人の罪も、イエス様に救われた自分の罪も同じだという視野から、イエス様の十字架の贖いの赦しをもって、人に接する時、その霊能と霊性は、決して、「無力なお人好し」の姿ではありません。反対に、ものすごい神の御力の働きです。
このように言うと、それは、世俗と異教に妥協した偽の異端的なキリスト教だという批判が返ってくるのは、ほぼ間違いありません。しかし、人類学的な視野で見る時に、この「十字架の霊能」は、決して異端ではありません。むしろ、キリスト教の正統信仰を突き詰めていくところに啓ける霊性なのです。イエス様の御霊のものすごい力の働きが実在すること、このことを感じ取ってください。自分で体験してください。これこそが、これからのアジアのキリスト教の有り様だと分かってくださると信じます。
■自由な霊能
11章に続いて、12章以下では、イエス様を信じる人それぞれが、神から授与された御霊の導きに応じて、相互に異なりながらも、互いに愛し合うようにという勧めが来ます。十字架の霊能は、この部分とも重要なつながりを持っています。国家権力と聖霊のお働きを受けた人からの隣人愛との関わりが扱われているのです。そこには、人を裁くなとあり、兄弟を躓かせるなとあり、結びには、「どんな場合でも、御霊がその人に与える導きへの確信から発出しないことは、その人にとって罪になる」(ローマ14章22〜23節を参照)という驚くべき「自由への勧め」で終わります。各自が、主様の御霊の導きに従いなさいというこの教えは、第一ヨハネの手紙2章20〜27節にも通じるものです。
あらゆる宗教する人を対等な罪人だと見なして、そこに働く人類の救済者イエス・キリストの赦しの恩寵、十字架の霊能をわたしは今推奨している。皆さんは、こう思われるでしょう。しかし、わたしの意図するところは少し違います。今わたしが提示したキリスト教と、神道や仏教を異教として、さらには悪霊の宗教と見なして、これと闘い、日本民族をキリスト教へ「改宗させる」ことを目指すキリスト教と、わたしが言う十字架の霊能キリスト教とを比較対照してほしいのです。この二つの両極の間には、御霊にあるキリスト教の有り様のものすごく幅のある選択の領域が広がっているのが見えますか?キリスト教と言うのは、日本人だけではありません。韓国人、中国人、アメリカ人、フィリピン人、オーストラリア人など、世界のキリスト教のことを念頭に置いています。
■これからの日本人クリスチャン
1945年の終戦と時から2018年の現在にいたるまで、日本人は、驚くべき霊的な自由を享受してきました。日本は現在、経済的だけでなく、文化的にも、今世界で最も住みやすい「善い国」です。京都は世界第一の観光都市になっています。しかし、クリスチャンの視点から世界情勢を見ると、これからは、日本のクリスチャンには、必ずしも住みやすい状態とは言えない事態が訪れるかもしれません。クリスチャンが、批判されたり、最悪の事態では迫害を受けたりする状態は、昭和の始めの20年間で起こりました。わたしの懸念が誤りなら良いのですが、そうなってからでは遅いので、今のうちにお伝えします。
そういう状態になると、日の丸君が代絶対反対のクリスチャンから、靖国神社バンザイのクリスチャンまで、ものすごい広範囲のクリスチャンの御霊の働きの選択の領域が広がります。すでに現在、どちらのクリスチャンも実際に行動しています。こうなると、その領域の間に、実に様々なクリスチャンの信仰形態が可能になります。これが、パウロが告げている「クリスチャンの霊性の自由」です。「食べる者は食べない者を侮るな。食べない者は食べる者を批判するな」(ローマ14章3節)とあり、相互に異なりながら、イエス様の愛にある一致を守りなさいとありますが、これは、人の力ではとうていできない「御霊にある自由」です。「多様の中で一致を図る」御霊にあるこの自由と隣人愛こそ、迫害に耐えて、なおも広がり続け、ついに、ローマ帝国を支配するにいたったイエス様の御霊のお働きにほかなりません。この横浜教会は、深谷先生のご指導のもとで、霊能と霊性を重んじる教会です。どうか、御霊にある「愛と自由」を守って、これからの21世紀の日本人を導いてください。
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